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12−2:今日、ちょっとだけ進んでみてもいい? 2
「——寝不足と貧血」
無精髭を生やした学校医はあっけらかんとそう言った。
あれからクラス中が大騒ぎになった。
まず設楽が駆けつけ、少し遅れてクラスメート達がやってきた。気の回る誰かが担架を持ってきてくれて、男子四人がかりで意識のない御子柴を慎重に保健室へと運んだ。
クラスの何人かの女子は顔を青くしていて、特に天野さんは目に一杯の涙を溜めていた。
それを見た俺は少し冷静になれた。自分より取り乱してる人間が近くにいると、自然とそうなるものらしい。
五時間目が始まっていた。俺と設楽は保健室に残り、クラスを代表して、担任の大垣先生に当時の状況を説明した。その間に学校医——名札には『甲斐』とあった——が御子柴を診察して、出た言葉がそれだった。
「ね、寝不足ですか?」
設楽が目を丸くしている。甲斐先生は顎をさすりながら続けた。
「ああ、倒れたのは貧血ね。脳貧血。多分、ろくに寝てなかったし、食べてなかったってこと。なんだっけ、ピアニスト? 忙しいんだろ、こいつ」
甲斐先生はカーテンで仕切られたベッドを親指で差す。先生は大儀そうに立
ち上がると、小さな冷蔵庫からゼリー飲料とバータイプの栄養補助スナックを一箱取り出した。
「とりあえず、目ぇ覚ましたらこれ食べさせとくわ。あと一応明日は医者に行かすから」
「あの、本当に大丈夫なんですか」
たまらず聞くと、甲斐先生は大きな溜息をついた。
「そんなに心配なら、覗いてみ。ぐーすか寝てるから」
俺と設楽は顔を見合わせ、カーテンを開いた。
ベッドの上に御子柴が横たわっている。その寝顔は確かに穏やかで、すうすうと健やかな寝息が聞こえていた。
「分かったか? 分かったら、クラスの奴らに伝えておけ。見舞い禁止、面会謝絶。大勢で押しかけられると患者も休まらねえし、なにより部屋が汚れる。お前ら、ほんと砂っぽいっつーか埃っぽいっつーか」
ぼさぼさの後頭部をぼりぼり掻きながら、甲斐先生はぶつくさと文句を言っている。そうして「帰った帰った」と手を叩いて追い立てるので、俺たちは仕方なく御子柴の傍を離れようとした。
「あー、そういや、制服貸してんのってお前?」
「え?」
突然指を差され、俺は今更ながら自分がシャツ姿であることに気づいた。そういえば御子柴の肩にかけてやってから、あの後、どうしたっけ……
「これだろ?」
甲斐先生が布団を少しめくる。御子柴の体の上に俺の学ランがあったので、目を瞠った。
「なんか強く握って離さねーんだわ。起こすのもアレだし、このままでいいか?」
「はい……それはいいですけど」
「じゃ、お前だけは見舞いを許可する。授業終わったら、様子見に来い。起きてるかもしんねーから」
俺は小さく頷き返しながら、布団の中をもう一度覗いた。御子柴の右手がきつく俺の学ランを握り締めている。ぎゅっと寄った生地の皺にその力強さを感じ、俺はたまらず目を伏せた。
五時間目の途中で教室に戻ると、衆目が一斉に俺と設楽に向いた。
駆け寄ってきて御子柴の様子はどうだったかと聞いてくる者もいて、俺は思わず教壇を窺ったが、幸い五時間目は数学だった。一条先生が「ピアノくん、大丈夫!?」と率先して聞いてくるので、俺達は授業時間を少し借りて、特に深刻ではないので安心してほしい旨を伝えた。ついでに見舞禁止の件も。でないと甲斐先生に大目玉を食らいそうだからだ。
とりあえずの納得は得られ、授業は再開することとなった。
シャツ一枚の俺は多少すうすうする教室の空気を肌で感じながら、じっと目の前の席を見ていた。この席が空っぽなのは珍しいことじゃない。だが今日ばかりは胸が塞がる思いがして、また息苦しさを覚えた。
そんな調子で授業が終わり、放課後が訪れた。いてもたってもいられず席を立った瞬間、俺の行く手を人影が遮った。
「あの、水無瀬くん……」
おずおずと俺の顔を覗き込んできたのは、天野さんだった。不安そうに胸のあたりで手を合わせ、眉を寄せている。
「何度もごめんね。御子柴くん、本当に大丈夫そうだった……?」
大きな瞳が潤んでいる。できれば視線を逸らしたかった。けど、そんなことをしたら天野さんが不安になるだけだ。俺は精一杯、虚勢を張った。
「うん、なんか気持ちよさそうに寝てたし。マジの寝不足だったみたい」
「そっか……」
天野さんの表情は尚も翳っている。俺はなんとか元気づけたい一心で続けた。
「俺、これから保健室に忘れ物取りに行くからさ。もし御子柴が起きてたら、なんか伝言とかある?」
「あっ、そうだね……。ええと、その」
組んだ手を擦り合わせ、天野さんはじっと考え込んでいた。そして囁くように言う。
「お大事に。それと……あんまり無理しないでね、って」
——ああ、この子は本当に御子柴のことを想っているんだな。
それが痛いほど伝わってきて、俺はどうしようもなく狼狽えた。そして「分かった」と言葉少なに返事して、逃げ出すように教室を後にした。
一階の廊下が夕日色に染まっている。俺は窓からの光が届かない影の部分を踏むようにして歩き、保健室へと辿り着いた。一応、ノックをすると、扉の向こうから甲斐先生のくぐもった返事が聞こえてきた。
俺が保健室に入るなり、開口一番、甲斐先生は不機嫌そうに言った。
「あいつ起きん」
「えっ……?」
表情を引きつらせる俺に、甲斐先生はぱたぱたと手を振る。
「ああ、違う違う。爆睡してるってこと。一応、何回か起こしてみようとしたんだが、まったく起きん。大垣先生に言ったけど、親御さんとも電話繋がらないんだと」
「そうなんですか……」
「そんなわけでお前の制服も取り返せん。あー、困ったな」
甲斐先生はしきりに腕時計を見ている。
「何か用事でもあるんですか?」
「仕事。今夜、救急の夜勤入ってんだわ。お前、部活とかやってんの?」
「いや、してないです」
「用事ある? 鍵渡しときたいんだけど」
「えっと……ちょっと待ってください」
俺は一旦、保健室の外に出て、母さんに電話を掛けた。事情を説明すると、会社にもかかわらず驚いた声を上げる。
『それってこの前、お見舞い来てくれた子でしょ? 大丈夫なの?』
「大丈夫は大丈夫なんだけど。一応、ついててやりたくて……。美海のお迎えいける?」
『了解、定時に上がる。ちゃんと御子柴くんのことみてあげてね』
「うん、分かった」
保健室に戻り、甲斐先生に残れる旨を伝えると、保健室の鍵を手渡された。
「内側から鍵掛けとけ、他の教師や生徒がきたら面倒だから」
「はぁ」
「あと鍵は職員室にそおっと返しといて。できれば誰にも気づかれずに」
「無理ですよ」
甲斐先生は無責任に笑いながら、保健室を去って行った。俺は言われたとおり一応鍵をかけて、そっと溜息をつく。なんだか無茶苦茶な人だ。
しんと静まり返った保健室を振り返ると、カーテンの閉まった窓があった。そのすぐ外はグラウンドに面しており、運動部がランニングをするときのかけ声が、遠くから聞こえていた。
俺は壁際に重ねられた丸椅子を一つ取り、御子柴の眠るスペースの中に入った。
白いカーテンで仕切られた空間に、病院でよく見るような頭と足の方に柵のついたベッドがある。
御子柴は布団にくるまって、横向きに寝ていた。その両腕にしっかりと俺の学ランを抱きしめて。
「……何してんだよ」
この状況を甲斐先生に見られたのだろうか。そう思うと急に恥ずかしくなる。俺は丸椅子をベッドサイドに置いて、腰掛けた。
枕の上に御子柴の髪がばらりと広がっている。頬には血色が戻ってきており、呼吸は深く、規則正しい。閉じられた瞼に生えそろった長い睫が、保健室の照明を受けて、目元に影を落としていた。
あんまり眠れていなかったんだろうか。だったらこのままずっと寝かせてやりたい。けどそれと同時に早く目覚めて欲しいとも思った。
いつまでも保健室にいるわけにいかないし、それに何より——声が聞きたい。いつもの減らず口を叩いて欲しい。大丈夫なんだと確認させて欲しい。
「御子柴」
人差し指で頬を突いてみる。すべすべしていて、瑞々しい弾力があった。
「起きろよ」
今度は肩を叩く。反応はない。
俺は丸椅子を降りて、しゃがみこみ、ベッドに頬杖をついた。
間近で見る御子柴の顔はよくできた彫刻のように美しい。でもこのまま美術品になんてなってほしくない。俺は動いて、笑って、生きている御子柴が好きだ。
不意に薄く開いている唇に目がいった。十分に温まったからだろうか、倒れたときとは違う、色づきを取り戻した唇に——
「……キス、するぞ」
言った途端、自分でも分かるほど頬に血が集まった。こんなこと起きている御子柴に言ったら一生からかい倒されるに違いない。けど、御子柴は目を覚まさない。俺はむきになって繰り返した。
「起きなきゃ、キスする」
御子柴はすやすや寝ている。自分の中に変な意地のようなものが生まれてしまった。このまま引き下がってなるものか。俺はぐいっと身を乗り出すと、段々と顔を近づけた。
目を瞑るわけにもいかないから、御子柴の顔を直視しなければならない。呼吸がままならない。心臓の音がうるさい。唇が触れる一歩手前のところで、鼓動が痛いぐらいに胸を叩き、俺は目を見開いた。
「う……、やっぱ無理」
「——なんでだよ」
「うわあああぁぁッ!?」
突然、ベッドから聞こえた声に、俺は文字通り飛び上がった。驚きに顔を引きつらせている俺の前で、御子柴は腹を抱えて、ばたばたと足を動かしていた。
「ぶっ——はは、あははははは! やっぱ気づいてなかった!」
「お、おまえ——」
人間、感情が渋滞を起こすと、言葉を失うものらしい。笑い続ける御子柴に、俺は思わず拳を握る。くそ、病人じゃなかったらブン殴ってやるのに……!
「あー、笑ったら腹減った。なんか食うもんない?」
「餓死しろ」
「あ、でも水無瀬くんにキスしてもらったら、満腹になるかも」
「うるさいバカ、うるさい!」
前言撤回、あのまま永遠に眠ってりゃ良かったんだ。
俺はカーテンの外に出て、甲斐先生が置いていった食べ物を掴むと、乱暴に投げつけた。
腹の立つことに御子柴は難なくそれらをキャッチし、ベッドの上で半身を起こして、ゼリー飲料を吸い始めた。パックの中身は瞬く間になくなった。御子柴は息つく暇もなく、今度は栄養バーの箱を開けて、中身をもぐもぐと頬張った。
俺は内心で小さな溜息をついた。いつも通りの早食いである。
「……いつから起きてたんだ」
「んー、お前が保健室に来た辺りかな?」
「最初からじゃねーか、なんですぐ起きなかったんだよ」
「いや、まだちょっとぼんやりしてたし。あとあのおっさん面倒くさそうだったから」
おっさんというのは甲斐先生のことだろうか。仮にも診てもらった身の言い草ではない。まぁ、確かに面倒ではあったけど……
「先生の相手を俺に押しつけたんだろ」
「バレた?」
悪びれもせず肩を竦め、御子柴は最後のバーを食べ尽くした。すっかり腹が膨れたようで、満足げな笑みを浮かべて壁によりかかっている。俺は口をへの字に曲げたまま、御子柴に手を差し出した。
「返せ、俺の上着」
「はいはい」
俺の学ランはすっかりくしゃくしゃになっていた。不機嫌なまま袖を通した俺の肌に、ふとぬくもりが広がる。鼻先を掠めるのは何度も嗅いだことのある香り——御子柴の匂いだ。
まるで抱きしめられているような感覚が、ぴりっとした痛みを伴って、涙腺を刺激した。俺はホックもボタンも留めるのを忘れ、膝の上で拳を握った。
「あー、ごめんって。クリーニング出して返す——」
「……違う」
声が震えるのを抑えきれなかった。御子柴が口を噤む。俺は溢れそうになる涙をこらえるのに必死だった。
天野さんの泣き顔が脳裏を過る。あまりにもその姿が痛々しかったのだろう、友人はしきりに天野さんを慰めていたし、中には俺じゃなくて彼女の方を見舞いの代表にした方がいいんじゃないかという意見も出ていた。
俺はただ単に学ランを人質に取られていたから甲斐先生に呼ばれたのであって、そういうことではなかったけれど、もし普通なら天野さんが傍についている方がずっと良かったように思う。
でも、もう俺はそんな普通には戻れない。
だって、俺は。
俺、は——
「心配した」
奥歯を食いしばりながら、絞り出すように言う。
「心配、したんだよ……」
やっとの思いでそう言うと、俺は唇を噛み締めて黙り込んだ。
我知れず、肩が震える。御子柴が倒れた時の恐怖が甦って、首の後ろが薄ら寒くなる。
「——ごめん」
御子柴の腕が伸びてきて、力強く引き寄せられた。
さっき学ランから感じたぬくもりが、匂いが、圧倒的な現実感で俺を包み込む。御子柴の背中に腕を回して抱きしめ返すと、こらえていたはずの涙があっけなく零れた。
「分かってたんだ、お前がなんかおかしいこと。ちょっと前から違和感があって……。でも、お前があまりにも普通だから、勘違いじゃないかって思ってて。何もできなかった……」
「それは俺が悪かった」
「何があったんだよ。なんであんなになるまで」
俺を包み込む腕に力がこもる。御子柴の口元が俺の髪の中に埋まったのがわかった。
「なんか、あるじゃん。人間、しょうがないこと考えちまう時って」
「ピアノのことか?」
「……うん、まぁ、それから色々」
御子柴が俺の頭にそっと頬を擦りつける。軽く苦笑する時の吐息が、髪を揺らした。
「でも水無瀬が可愛いからどうでもよくなった」
「……イジんな」
「そんなんじゃないって。だって可愛いじゃん。泣くほど俺のこと心配してさ。キスしてくれたら完璧だったのにな」
やっぱイジってんじゃねーか。もぞもぞと顔を上げて、御子柴を睨む。
するとおもむろに前髪を上げられた。きょとんとする俺に知らしめるように、御子柴はわざと大きくリップ音を立てて、額に口づけしてきた。
「……っ!」
「嘘だよ。キスできないところも可愛かった」
その声はいつもより深く響いた。俺は再び涙腺が緩みそうになるのを堪え、椅子から腰を浮かせて伸び上がった。
「なめんな」
背中から肩へ、そっと手を動かす。
「——キスくらいできる」
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