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12−3:今日、ちょっとだけ進んでみてもいい? 3(*)
唇が触れあうのを確認してから、目を閉じる。
感じるのは重なり合う柔らかい感触と全身を包み込む体温、くらくらするほど色濃くなった匂いに、少し荒っぽい息遣い。それと直前に見た微笑みが瞼の裏に映っている。
ああ、俺の世界は今、全部御子柴で出来ているのか。そう思い当たった途端、どうしようもなく体が震えた。
長いキスが終わる。俺はいつのまにか腰を引き寄せられ、ベッドの上に腰掛けていた。御子柴がぐったりと俺の肩に頭を預けたのに、ぎくりとした。
「大丈夫か?」
「うーん、やっぱまだしんどいかも」
「ごめん、俺……」
おろおろして、とりあえず御子柴の背中をさすっていると、肩口からふっと苦笑が聞こえた。
「水無瀬は元気?」
「え? はぁ、まぁ……」
「じゃ、俺に元気分けて」
顔を上げて、御子柴はにっこりと笑う。小学生の頃観ていたアニメの主人公のようなことを言い出した御子柴に、俺は眉を顰めた。
「お前……結構、大丈夫そうじゃね?」
「いえいえ、俺なんかまだまだですよ」
御子柴は唐突に自分の腿の上をぽんぽんと叩いた。
「こっち来て」
「こっちって……え?」
「俺の上。ほら、ここおいで」
おおいに首を傾げながらも、流れで言われた通りにする。
あぐらをかいている御子柴を跨いで、膝立ちに。ベッドの上は不安定なので、御子柴の肩を掴む。
満足げな顔が俺を見上げている。そのあまりの近さと、自分の今の体勢を客観的に俯瞰してしまい、俺はかあっと体が火照っていくのを感じた。
「いやあの、これ……普通に恥ずかしいんだけど……」
「なんでよ、いいじゃん」
「だ、抱きつくな」
まるで犬のように頭をこすりつけてくるのに、閉口する。俺は窓と扉の方へ視線を行ったり来たりさせた。
「なぁ、誰かに見られたら……」
則ち、社会的な死である。焦る俺に御子柴は悠々と言った。
「カーテンで仕切られてるし」
「でも窓の外とか、まだ部活して……」
「そっちもカーテンかかってた」
「お前、いつの間に……」
「あとドアの鍵閉めたんだよな? おっさんが言ってたもんな?」
満面の笑みを浮かべる御子柴に、俺は呆れを通り越して畏敬を覚えた。もしかして俺は一生この男に頭が上がらないのでは。いっそ清々しい絶望感が頭を過る。
「あのさ」
御子柴の長い指が俺の髪に触れる。そのまま耳殻を辿り、頬を通って、唇を押しつぶした。
「今日、ちょっとだけ進んでみてもいい?」
何を、と呑気に思ったのは一瞬だけだった。
御子柴の言わんとしていることが分かり、とっさに全身を強張らせる。ハグ以上の、キス以上の、それ以上のこと——
「進ん、でって、その」
「うん」
「あの、えと、こ、ここで……?」
「そ。こんな機会滅多にないし」
「それは……」
「別に大したことしねぇよ。ま、水無瀬がどんなこと想像してんのか知らないけど」
「べっ、別に、何も想像してない……」
「そお? お前、むっつりっぽいからなー」
「殴るぞ」
「あとほら、保健室ってのがよくね?」
「むっつりはお前だ……」
「俺はちゃんとおおっぴらにしてるし」
意味のない応酬を区切るように、御子柴の指が首元の下、俺のシャツのボタンに触れる。
「嫌だ? 怖い?」
真剣な表情で見上げてくるのに、俺は密かに歯噛みした。
こうやっていつもこいつは、躊躇という逃げ道を先回りして潰しにかかるのだ。そうなれば俺は心の内を吐露するしかなくなる。
「嫌、じゃない。でも……少し怖い」
「やめておこうか?」
気遣わしげな口調に、俺は小さく首を横に振った。
「分かった、嫌になったらすぐ言えよ」
僅かな布擦れの音と共に、一番上の襟のボタンが外される。その下も、そのまた下も。ゆっくりとした動作はまるで見せ付けられているかのようで、とても直視できたものではなかった。
「あー、そっか、タンクトップかぁ」
真ん中辺りまでボタンを外し終えた御子柴が、拗ねたように言う。下着のシャツのことだろう。
「お、お前だって着てんだろ」
「着てるけど」
じゃあ、何も文句を言われる筋合いはない。なのに何故か不服そうな顔で御子柴は一番下のボタンを外しにかかった。
ワイシャツの左右が離れる。ここからどうするんだろう。っていうか、こんなことして楽しいんだろうか。女の子の柔らかい体ならまだしも……
妙な心配をしていると、御子柴がおもむろにぐいっとタンクトップをスラックスから引き抜いた。「へ?」と間が抜けた声を出す俺をよそに、裾から熱い手の平が侵入してくる。
「——ッ!?」
「うわ、腹うっす」
臍の辺りから鳩尾まで、一直線にさすり上げられる。それから脇腹なども合わせて円を描くように触れられ、思わず身を捩る。
「く、くすぐったい」
「だろうなー」
まるで他人事のようにそう言い、御子柴はぐっと腕を深く差し入れた。手の平が背中側に回り、腰を撫でさする。背骨の位置を確かめるように指でなぞられると変な声が出た。
「っ、ひゃ」
「お前、腰もほんと細っ……。マジでもっと食べた方がいい」
なんだこれ、健康診断か? そんな事を考えて目の前の光景から意識を逸らしている隙に、急にシャツと学ランを一緒くたに脱がされた。
「わっ……」
肘の辺りでわだかまる服で、身動きが取りづらくなる。脱げってことなのかと思い、もぞもぞと体を動かしていると、御子柴に制止された。
「そのままでいい」
「え、動きづらいんだけど」
「それがいいんじゃん」
「はい?」
思わず首を捻ると同時に、タンクトップが胸上まで引き上げられる。本格的に露出が多くなり、羞恥心が一気に膨らんだ。御子柴はまるで研究者か何かのように、俺の薄い胸板を真顔でぺたぺた触り始めた。
「これ、持ってて」
多分、引き上げた下着のことだろう。俺は呆れ顔で返した。
「いや、だから腕が動かない……」
「顎で押さえといて」
あまりにも真剣な表情なので、なんとなく逆らえず、言われたとおりにする。……自分で体を晒しているようで、かなり恥ずかしい。
「なぁ……楽しいのか、これ?」
「めちゃくちゃ」
「全くそんな風に見えないんだけど」
「俺、表情筋に自信あるから」
「あっそう……」
俺の虚勢もここまでだった。さっきから御子柴の手の平が素肌を撫でていく感触がどうにも気になってしまう。
はっきり言って心地良い。でも今、与えられる触れ合いだけではどこかもどかしくなってきた。
自然、皮膚は貪欲に刺激を求め、感覚が研ぎ澄まされていく。時折、指が立てられるとそこに神経が集中するようになった。
特に背筋を触られると弱い。今も首筋から、つうっと下へ辿っていく指——御子柴の長く、綺麗な指——の動きを頭の中で描き、小刻みに体が震え出す。
「っ……」
きつく目を瞑り、空気を求めるように上を仰ぐ。粘ついた唾液をごくりと飲み下しても、呼吸のリズムは乱れたままだった。
不意に体が後ろに倒れそうになった。不自由な手をついて、なんとか体を支える。ベッドの上で尻餅をついた俺のそばで、ぎしっとスプリングが鳴った。
俺を追い詰めるようにして、御子柴が膝をついていた。黒目がちの双眸がじっと見据えてくるのに、耐えきれなくなって目を逸らすと、噛みつくようにキスされる。
「んっ——」
熱い舌が差し込まれるのに、精一杯の対抗心で応じる。呼吸が塞がれて、頭の芯がぼうっとしてくる。その間に御子柴の手が脇腹を通り、親指の腹が俺の胸の中心をぐにっと押しつぶした。
「ぁ、う……」
御子柴は唇を離してくれない。息を継ぐ合間から、俺は思わず声を上げた。男の体だ、そんなところ、別に気持ちいいわけじゃない。背骨を辿られた時の方がよっぽどぞくりとした。なのに全身の血がどくどくと巡り出す。
だって、こんなの、なんだか本格的に——
ようやく長いキスが終わり、新鮮な空気が与えられる。薄く開いた霞んだ視界に、御子柴が少し頭を下げているのが見えた。
さっきまで指で弄られていた部分を、生暖かい感触が舐めていった。俺は肩をびくりと竦め、思わずその様子を見下ろしてしまった。
御子柴の舌がぷっくり立ったそれを翻弄していく。全体を使って舐めたり、舌先で突いたりした後、啄むように軽く吸われる。とても見られたものではない光景に、頭がパンクしそうになる。
「み、こしば、待っ……」
「なんで。別に感じるわけじゃないだろ」
「いや、そう、だけど——恥ずかしくて、死ぬ」
「……可愛い」
俺の悲鳴にまったく取り合わず、御子柴は体をどんどん下へずらしていく。辿った指を追うように、脇腹を舐められ、鳩尾を吸われる。臍の周りを舌先がなぞり、気づいた時には窪みに濡れた感触が差し入れられた。
「うあっ、ま、って、そんなとこ、やめろ。汚いって……」
「すごい綺麗だけど。まぁ、でも腹痛くなったら困るから、優しくする」
「や、違……そういう、ことじゃ……!」
ぴちゃぴちゃと水音がする。こいつ、わざとだ、絶対……!
「ぁ……あ……」
腕が動かないので口を塞ぐこともできず、俺は情けない声を上げる。意識を逸らせ。なんか違うこと……考えて……
「あ、天野さん、が」
「は……?」
刺激が止んだ。御子柴が顔を上げ、眉を顰めていた。
「お大事に、って。あんまり無理しないで、って、言ってた」
「……お前、今、それ言う?」
「ごめ……でも、忘れそうだったから。あと、設楽もすごく心配してて、高牧も大騒ぎしてて、それから、先生、一条先生も……」
熱に浮かされたように続けていると、御子柴の表情が急に固くなった。
「——もういい」
紛れもない苛立ちが混じっていて、ぎくりとする。さっきまでの澄ました顔はそこにはなく、眉間に深い皺を刻み、半ば俺を睨み付けていた。
「今、俺以外の名前言うな」
強い力でシャツの襟元が横に開かれる。次の瞬間、鎖骨に歯が立てられた。微かな痛みがびりっと頭を痺れさせる。俺が狼狽えている隙に、鎖骨と肩の間にある窪みをきつく吸われた。
ずっ、と血が無理矢理吸い上げられる初めての感覚に、我知らず悲鳴を上げる。
「いっ、ぁ——!」
御子柴は執拗に、場所を変えて同じ事を繰り返した。反対の鎖骨、胸の上、肩、首筋、耳の裏——
その度にいてもたってもいられなくなる。俺はしきりに首を振って、体を突き上げる何かを必死に耐えていた。
「待っ、て、ごめ、ゆるして」
「怒ってねーよ。ただもう、好きにしてるだけ」
柔らかく苦笑しながらも、御子柴はそれをやめない。今度は頭を持ち上げられ、首の裏まで吸われた。
「う、ぁ……」
「ごめんな、さっきあんなこと言っておいて。——でもちょっと、限界」
低く唸るような声が、俺に危機感を植え付ける。
残り少ない力を振り絞って、俺はなんとか体を反転させる。右腕をばたつかせて袖を抜き、藁にも縋る思いでベッドの柵に手を掛けた。
途端、ぐっと両腰が掴まれた。シャツを再び捲りあげられ、御子柴が俺の背筋を舐め上げる。雷に打たれたような痺れが、腰から頭の裏を駆け上がる。
「あ、あっ……!」
背中の皮膚が次々と鬱血していく。熱を持った手の平が胸に回り込んで、親指と人差し指で両方の中心をつまみ上げられる。呼吸の仕方が思い出せない。指が白くなるほど掴んだベッドの柵が、しきりにがたがたと鳴った。
「御子柴、御子柴っ——」
目の前が滲んで、ぼろりと大粒の雫が頬を伝った。顎をぐいっと掴まれて、横を向かされる。俺の上にのしかかるようにして、御子柴が体を伸ばした。
深い、深い口づけ。その後に、ちゅっと音を立てて、涙を吸い取られる。
「俺のこと、好き?」
端的な質問が、ほとんど働いていない脳に刷り込まれる。呆けている俺を叩き起こすように、御子柴は飽きもせず俺の首筋を強く吸った。
「ぅ——」
「好きって言って?」
「あ……好き」
「もっと」
「好き、だよ……。御子柴、好き……好きだっ——!」
もう何がなんだか分からなかった。今、何時なのかも。ここがどこなのかも。
でも、これだけは本当なんだ。
言って、とねだられたからじゃない。
俺は、俺は——
柵を掴んでいた手が離れる。ずるずるとベッドに沈む俺を、御子柴は腕で包み込むように抱きしめた。
「俺もだよ」
背中に熱い吐息が吹き付けられる。獣のような荒い息遣いが、何度も何度も。
「あー……これ以上すると、もう無理……」
残念そうな、でもどこか安堵したような口調だった。くそ、自分だけ安全な場所に逃げ込んで。俺はとっくに無理を通り越しているのに。
涙の残滓がまた一つ溢れた。ぐずぐずと鼻を鳴らしている俺の背を、温かい手の平が往復する。
「悪い、やりすぎたか」
御子柴の体のぬくもりが遠ざかる。俺は緩慢な動作で起き上がり、無言で衣服を整えた。おぼつかない手つきで、なんとかワイシャツと学ランのボタンをかけ終える。
「……嫌だった?」
そう問われ、俺は肩越しに振り返った。曖昧な表情で微笑んでいる御子柴に、きっと眦を上げる。
「お前、嫌ならすぐ言えって言ったじゃん」
「そうだけど」
「俺は一度も言ってない」
体ごと方向を変え、ベッドの上で膝と膝を突き合わせる。大きな目をじっと見開いてなりゆきを見守っている御子柴に、にじり寄って、その胸にこつんと額を預けた。
「俺は」
何と言っていいか分からず、一瞬躊躇する。
口が上手い方じゃないし、いや、どっちかというと口下手だから、適切な言葉がすぐに出てこない。
「ちょっと、色々びっくりしたけど、でも」
ならせめて今くらいは正直でいたい。
進みたいと言ってくれた御子柴に応えたいと、そう思った。
「……あんな風に触れてくれて、嬉しかったよ」
顔のすぐ傍にある鼓動が、一際大きく跳ねた音がした。
ぎゅうっと囲うように抱きしめられる。そのあまりの力強さに、俺は思わず首を竦めた。
「あんま知らないかもだけど、俺、結構すぐ図に乗るよ?」
「いや知ってるし。……まぁ、いいけどさ」
「いいんだ」
「あ、でも、学校ではもう駄目だからな、絶対」
「えー……じゃあ、どこでしよう……」
勝手に途方に暮れている御子柴から、体を離す。俺はベッドを降りて、そそくさとカーテンをくぐった。
「どこ行くの?」
「……トイレ」
不必要に背中を丸くしているのがバレたらしい。御子柴は上機嫌に手を振った。
「ごゆっくり」
「うるさい」
保健室のドアを後ろ手に閉め、深い溜息を吐く。廊下はすっかり暗くなり、窓から僅かに漏れる外灯の明かりが照らすのみだった。
夜の学校はどことなく不気味だ。なんとなく前後左右を見回していると、階段の方からカタッと音がした。
「えっ」
思わず声を上げる。誰かいるのだろうか、それとも……。確かめる勇気はなく、俺は足早に廊下を進んだ。
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