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12−4:今日、ちょっとだけ進んでみてもいい? 4

 トイレの個室から出て、いつもより念入りに手を洗う。気力がどっと抜け落ちて、腰の周りを気怠さが覆っていた。  鏡に映る自分の顔は酷いものだった。目元は泣き腫らして真っ赤だし、頬にはうっすらシーツの皺の跡がついている。  首にまで視線をずらすと、ふと詰め襟の上に違和感を感じた。 「あっ……!」  俺は鏡に顔を寄せた。薄い皮膚の一点が紫色に変色している。慌てて学ランとシャツの襟を開くと、同じような点がいくつも散らばっていた。 「うわ、なんだこれ。嘘だろ……」  首回りだけでこれなのだ。胸や腹、背中はどうなっているか分からない。確か明日は体育があったはず。一体、どうやって着替えろというのか。  俺は痛む頭を抱えながら、トイレを出た。暗い廊下を戻って、保健室に帰る。  ありったけの文句を言ってやろうと息巻いていた俺の耳に、御子柴の話し声が聞こえてきた。 「——うん、そう。校舎入ってすぐ左な。ああ……はい、はい。分かったって」  誰かと通話している? カーテンを開けると、御子柴がちょうど電話を切ったところだった。 「あ、おかえり」 「親御さん、連絡ついたのか?」 「ん? あぁ、うちの親は無理だぜ。ブラック公務員だから」 「市役所とか?」 「いや、財務省。どっちもキャリアで、いつも過労死寸前」  それは……またなんというかすごい。こいつの家は一族郎党ハイスペックなのだろうか。 「じゃあ、誰が迎えに……」  そう尋ねた瞬間だった。 「——涼馬、来たわよー!」  急に保健室のドアが開いたかと思うと、やたら野太い声が響いた。俺はその闖入者に目を丸くする。  大股で俺達の前に進み出たのは、大柄な人だった。  そう、人——としか言えない。  真っ赤なタートルネックのセーターに、黒いエナメルのジャケット、下はタイトな白いジーンズを穿いている。髪は明るい金髪で、顔にはファッションショーのモデルのような濃い化粧が施されていた。  特徴はその体格である。御子柴よりも頭半分くらいは高いであろう身長に、広い肩幅、全身がどことなく筋肉質なのが分かる。とにもかくにも色んな意味で濃い人物だった。  完全に固まってしまった俺をよそに、御子柴と彼(でいいのだろうか)は親しげに会話し始めた。 「おーっす、お疲れ」 「お疲れ、じゃないってーの。何、ぶっ倒れたって? あんたねえ、体調管理も仕事のうちよ。来週の米原さんのコンサートに穴開けたらどうするつもり——って、あら?」  青いアイシャドウが瞼に乗っている瞳が、ちらりと俺の方を見やる。蛇に睨まれた蛙ってこのことを言うのだろうか。俺は目を見開いたまま動けない。 「あらあら? あなた、もしかして——」 「え、えと」  一歩、また一歩と後退る俺の前に、御子柴の腕が割り入った。 「やめろ、見るな。水無瀬が減る」 「あーやっぱり、なるほどね。はいはい」  なんだか知らないが勝手に納得される。彼はジャケットのポケットから名刺入れを取り出した。 「ハーイ、はじめまして、水無瀬くん。あたし、こういうものでーす」  受け取った名刺にはこう書かれていた。 『株式会社アクセス・エンターテインメント クラシック部門 エクスクルーシヴ・マネージャー ジェーン花園』  ……じぇーん、はなぞの。 「気軽にジェーンって呼んでね」  扇状のつけまつげがばさっと揺れる。俺はなんとか会釈を返した。 「み、水無瀬晴希です。えっと、ジェーンさんは……」 「そ。こいつのマネージャーね。ご両親の代わりに迎えに来たってワケ」  やっぱりそうか。御子柴を振り返ると、それ以上の説明は不要とばかりに、さっさと身支度を調えていた。 「もう大丈夫なのか?」 「おー、全然へーき。じゃ、帰りますか。水無瀬も送ってくぜ」 「あんたね、運転すんの誰だと思ってんのよ」 「あ、いいです。俺、一人で帰れますから」 「何、遠慮してんだよ。同じ方向じゃん」 「そーよ、最近は男の子の一人歩きも物騒なんだから。あなた、カワイイから変態に狙われそうよね」 「だよなー。攫いやすそうだもん」  なんかめちゃくちゃ言われてる……。まぁ、今日は少し疲れたし、俺は素直にジェーンさんのお言葉に甘えることにした。  職員室に鍵を返して(ジェーンさんのインパクトが凄いからか、甲斐先生の危惧していた文句は言われなかった)、三人そろって校舎を出る。  外にはすっかり夜の帳が降り、いつの間にか運動部も引き上げていた。時計を見るとなんと七時を越えていた。  ジェーンさんの運転する車で、マンションの前まで送ってもらった。御子柴が助手席のウインドウを下げて、手を振ってくる。 「今日はありがとな。また明日」 「いや、明日は休め。医者に行けって甲斐先生が言ってたぞ」 「あ、そっか。じゃ、また明後日。おやすみ」 「……うん、おやすみ」  車が発進して、赤いテールランプが遠ざかっていく。俺はなんとはなしにそれを見送った後、マンションのエントランスをくぐった。  家に着くまでの間、頭を過るのは、もちろん保健室での出来事だった。冷静になって思い出すと、羞恥でどうにかなりそうだった。  エレベーターの中で人知れず、両手で顔を覆う。世の中の人って、あれ以上のことをしているのか。だとしたら、 「無理すぎる……」  エレベーターが静かに五階へ到着した。俺は緩く首を振りながら、一歩足を踏み出した。

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