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14−1:このまませかいがおわればいいのに 1

 その店は古い木の匂いに満ちていた。  地元から電車で約四十分。池袋の町中にあるとは思えない、静かな場所だった。  薄暗く、狭い店内に所狭しとピアノが並んでいる。艶めいた黒のピアノに、飴色になった木のピアノ、少しくすんでいるけど白いピアノもある。  曲線を持った蓋が開いているタイプと四角くて蓋が開いてないタイプは、一体何が違うのだろう。なんとなく前者の方が高価なイメージがあるが。  勝手知ったる足取りで先を行く御子柴に尋ねると、目の前の背中が振り返って、手近にある蓋の開いたピアノを指差した。 「こっちがグランドピアノ、音は広がるけどでかくて邪魔。蓋が閉まってるのがアップライトピアノ、音はこもるけどコンパクト」 「へえ……」 「分かってんの? つーか興味ある?」  からかうように苦笑する御子柴に、むっと口を尖らせる。  休日の御子柴を見るのは、今でも慣れなかった。ネイビーのステンカラーコートに白いセーター、グレーのチノパンに、足元は黒のスニーカーという出で立ちだ。正直、馬鹿みたいに似合っている。  大人っぽいスタイルの御子柴を前にすると、トレーナーとかダウンとかデニムを着ている自分がひどく子供に見えて、恥ずかしい。御子柴にもらったマフラーが浮いているのではないかと、そればかりが気になった。  古い木目の階段を降りて行くと、店の地下に辿り着いた。一階よりもっと狭い部屋の壁沿いに、天井まで高さのある本棚がずらりと並んでいる。書店とは違い、そのどれもが薄っぺらくて大きな本だった。 「涼馬くん、いらっしゃい」  カウンターの奥から老年の男性が出てきた。赤いチェックのネルシャツにグレーのベストを着て、頭にはハンチングを被っている。皮膚の皺は深く、眉毛も真っ白に染まっている。  御子柴は気安い仕草で手を挙げた。 「シマさん、ご無沙汰です。あ、こればーちゃんから」  高級和菓子店の紙袋を手渡されると、シマさんと呼ばれた老人はにこにこと微笑んだ。 「花枝ちゃん、元気かい?」 「はい。ほんとは来たがってたんですけど、ばーちゃんも歳なもんで」 「東京は人が多いからねえ。若い頃はよく久真(きゅうま)くんと顔を出してくれたもんだけど」 「じーちゃんと仲良かったっすからね。あ、ソフィア・コチェンコヴァの新譜入りました?」 「取り置きしてあるよ。確かDGデビュー録音が入ってるんだっけ?」 「そうそう。あとショパコンで優勝した時のマズルカも」  御子柴とシマさんは楽しげに話し込んでいる。俺には訳の分からないことで。  なんとなく置いてけぼりを食らった気分になっていると、奥からCDを持ってきたシマさんが俺に視線を送った。 「こんにちは、涼馬くんのお友達かい?」 「あっえと」 「同じクラスの水無瀬っす。遊びに行くついでに付き合ってもらいました」  俺はぺこりと会釈する。シマさんはにこにこと相好を崩した。 「僕は島田、よろしくね。涼馬くんがお友達を連れてくるなんて初めてじゃないかい? よっぽど仲がいいんだねえ」  なんと言っていいか分からず、俺はしきりに頭を下げた。御子柴もまたシマさんの言葉に微笑むばかりで、何かを返すことはなかった。 「ついでにユニコンとクロスもください」 「いつものだね、はいはい」  血管の浮いた手が、紙袋にCDとそれからボトルに入った何かと大きい眼鏡拭きのような布を詰めた。御子柴は会計を済ませて、それを受け取る。 「じゃ、また来ます」 「いつでもおいで。ご家族にもよろしくね」 「っす」  一階に上がり、店を出る。  待ち構えていたように都会の喧噪が耳になだれ込んできた。絶え間ない川の流れのような人々の往来に溶け込むと、まるでシマさんの店が別世界だったのではと思えるほどだった。 「付き合ってくれてありがとな」 「いやいいよ、あれぐらい」 「二時半かー。これからどうする?」  御子柴が手元の腕時計を見やる。高価な物を身につけててもおかしくない格好なのに、ごつごつとした形のスポーツウォッチなのがこれまたにくい。 「水無瀬はなんか買い物とかねーの?」 「え? あー、そうだな、うーん……」  俺は眉を寄せて、慣れない池袋の街を見回した。いつもは横浜や桜木町でなんでも済ませてしまうため、東京まで出てくることが滅多にないのだ。  どうしようかと思い悩んで、ふと視線を足元に落とす。使い古したハイカットスニーカーが目に入った。元が白いだけあって汚れと傷が目立つ。 「そういや、新しい靴、欲しいかも」 「おっ、行く?」  御子柴の目がきらりと輝いた。こいつも大体スニーカーを履いているから、好きなのかもしれない。御子柴はちょっと身を屈めて、俺の足を覗き込んだ。 「同じとこのやつがいい?」  俺もまた御子柴の足元をちらりと見た。ブラックの革素材に、縦に二本、横に一本白い線の入ったデザイン。それが妙に格好良く見える。 「御子柴のはどこのやつ?」 「えっ、これ?」 「あ、いや、かっけーなーって思って。でも、俺に似合うか分かんないけど」  御子柴は一瞬考えるように黙りこんだ後、我に返ったように手を打った。 「ちょうどあそこに店入ってるけど行く?」  長い指が差し示したのは、背の高いビルが特徴のショッピングモールだった。池袋のランドマークだけあって、多くの人が今も中に吸い込まれていっている。 「うん、行く」  俺が大きく頷くと、御子柴は何故か途方に暮れたようにビルを見上げた。その憂えた表情に惹きつけられたのだろうか、すれ違った女性グループが御子柴を見て、きゃあきゃあとはしゃいだ声を上げた。 「え、そんな上にあんの?」 「んなわけねーじゃん。そうじゃなくて」 「あっ、もしかして真似されんの嫌とか?」 「じゃーなーくてー」  御子柴は水に濡れた犬のように首を左右に振ると、半ば睨み付けるように俺を見た。 「——あのさ、水無瀬。全然、話違うんだけど」 「え? お、おう」 「その、なんだ……ええと……」  こんなに口ごもる御子柴は珍しい。なんだか不安になり、固唾を呑んで見守っていると、不意に御子柴が脱力した。 「……ごめん、また後で言う」 「な、なんだよ、気になるだろ」 「まーまー、とりあえず靴見に行こうぜっ」  ぐいぐいと背中を押され、思わず蹈鞴を踏みそうになる。  なんだなんだ。もしかして服が後ろ前反対とか? 昼に食ったラーメンのノリが歯についてるとか?  俺はしきりに首を捻りながら、人の流れに乗ってショッピングモールへと足を踏み入れた。

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