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13−3:ずっと好きだったから 3
誰もいない教室は、空虚な音で満ちていた。差し込む夕日は傾きが強く、もうすぐやってくる夜の予兆を感じさせる。
天野さんは教室の真ん中でぽつんと佇んでいた。俺は荒い息を整えながら、まるで薄氷を踏むように、教室へ足を踏み入れた。
足音に気づいた天野さんが俯きがちだった顔を上げる。夕日に照らされた表情は今にも泣き出しそうだった。
ちょうど机二つ分の間を開けて立ち止まる。何か言わなければと思い、口を開く。
「天野さん、あの……」
続く言葉が出てこない。すると俺が戸惑っているのを察した天野さんが、精一杯の微笑みを浮かべた。
「ありがとう、水無瀬くん……。迷惑かけてごめんね」
「迷惑だなんて、そんな」
気まずい空白が俺と天野さんの間に横たわる。何も言わなくても天野さんの迷いが手に取るように感じられる。
これから天野さんが何を語るのか、怖くないと言えば嘘になる。けれど俺には聞く義務がある。こうして彼女に頼られた以上は。
伏し目がちだった視線を天野さんに戻す。天野さんもまた俺を真っ直ぐ見つめていた。
「……これから言うこと、気を悪くしたらごめんなさい」
その一言でなんとなく想像がついた。
やっぱり天野さんが俺に親しくした理由は……。俺は気づかれないよう、拳を握りしめる。
「本当に、ごめんなさい。許してなんて言わないけど、謝らせてほしいの」
固唾を呑み込むと、喉が酷く痛んだ。呼吸が浅く早くなるのを止められない。馬鹿野郎、と俺は自分を叱咤した。天野さんの方が辛い。きっとそうなる。だからせめてその気持ちだけは受け止めないと。
天野さんはぎゅっと目を瞑った。そして開いた瞳には何かを覚悟したような光が灯っていた。ひたむきで真剣な表情は見惚れるほど美しい。
やがて自分の心臓の音が強く響きだした頃、天野さんは言った。
「水無瀬くんは、御子柴くんと付き合ってるんだよね……?」
——不意に、夕日が翳った。
暗く閉ざされた視界が、ぐらりと揺らぐ。
この世の終わりのような強い耳鳴りが聴覚を遮った。けれど、耳を塞ぐことを許さないと言わんばかりに、一瞬にして通り過ぎる。
どくどくと脈打つ鼓動。遠くから響く運動部員の声。天野さんの言葉。
そして、自分の血がさあっと引いていく音を聞く。
「え……?」
やっと絞り出したのはそれだけだった。
天野さんは自分自身を奮い立たせるように、胸の前で手を握り合わせた。
「ごめんなさい、私、あの日——御子柴くんが倒れた日、どうしても気になって……御子柴くんのことが心配で、みんなが帰っても待ってたの。みんないなくなってから、一人だけなら、お見舞い、できるかなって……思って……」
息を吸って吐く。そんな簡単なことすら、今の俺は忘れてしまっている。
「日が暮れてから、保健室に行ったの。明かりがついてて、まだ誰かいるんだって思って……でも学校医の先生に怒られたらどうしようって、しばらく扉の前で、迷ってて……」
聞きたくない、聞きたくない。できればこの場から今すぐにでも逃げ出したい。けど、足どころか全身が動かない。
「聞いてしまったの、二人の言葉……」
好きだ、と俺は何度も言った気がする。御子柴は俺もだよ、と返事した。
「本当に、そんなつもりじゃなかった。ごめんなさい、水無瀬くん、本当にごめんなさい」
俺の脳裏に、あの日の記憶がまざまざと甦る。
保健室を一旦出たとき、確かに何かの音を聞いた。
あれは、あれは——
「私、秘密にするつもりだった。自分一人の心に留めておこうって……。でも、でもね、私、辛くて。どうしても堪えきれなくて。二人に悪いことしてるのが、耐えられなかった。この一週間ずっと悩んでて……。言わなきゃいいって分かってたのに、どうしても。それにね、私……私っ……」
ぽろぽろと。天野さんのすべらかな頬から、大粒の涙が零れる。深く俯いた顔を、小さな両手が覆う。
「御子柴くんのこと、ずっと好きだったから……!」
——ああ、俺は。
何を、どこで間違えたのだろう。
どうすればこんなにも人を傷つけずに済んだのだろう。
何度も何度も、謝らせて。彼女は何も悪くないのに。
ただ無垢で、心優しいこの人を欺いた。
それは、まるで——
やめろ、と自分の中の誰かが叫ぶ。ここで立ち止まるな、逃げるな。自分勝手な言葉を吐くな。それだけは、絶対に。
「……このこと、御子柴には……」
戦慄く唇で尋ねる。天野さんが首を振る度に、ぱっと輝く雫が宙を舞った。
「言ってない。もちろん他の誰にも。水無瀬くん、あのね、お願いがあるの。最低なのは分かってるんだけど——」
天野さんは子供のように手の甲でしきりに涙を拭った。
「私、御子柴くんに想いを伝えたい。結果は分かってるし、それ以上は何も望んでない。けど、せめて、自分の気持ちに自分で決着をつけたい。もちろん水無瀬くんが嫌なら絶対にしない。でも、でも……もし、少しでも考えて、くれるなら」
つやつやとした黒髪がさらりと下に流れる。
「許して、くれませんか——」
俺は一瞬だけ目を閉じた。きつい西日が瞼に透ける。
ゆっくり視界を開き、無理矢理口の形を笑みに歪めた。
「……頭を上げて、天野さん」
しばらくそのままだった天野さんがようやく顔を上げてくれる。そこには泣き腫らして真っ赤に染まった双眸がある。半ばそれを見ていられなくて、俺は深々と頭を下げた。
「俺の方こそ、嫌な思いさせて本当にごめん」
「そんな、あれは私が——」
「いや、俺達が悪いんだ。許して欲しい」
天野さんはただしゃくりあげている。俺は気力を振り絞って、笑顔を浮かべる。
「さっきのお願い、もちろん聞くよ。俺は全然構わないから」
「水無瀬くん……」
「結果さ、どうなっても受け止めるよ。っていうかそれしかできないし。それと、こんなこと言う資格ないのかもしれないけど——」
痛いほど握っていた拳をほどく。不思議と体の強張りがなくなっていた。
「とても勇気の要ることだと思う。その……頑張って」
天野さんの目から再び涙が溢れた。何度も頷く彼女を、俺は黙って見守るしかなかった。
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