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13−4:ずっと好きだったから 4

 帰宅した途端、胃が引き絞られるように痛み出した。  ああ、よくないな、と思っているうちに痛みは増し、俺はベッドで蹲ることしかできなくなっていた。 「ハルくん、ゆたんぽだよ」  美海がレンジで温めるタイプの湯たんぽを持ってきてくれた。俺が受け取る前に、美海は布団をまくり、慣れた手つきで俺に湯たんぽを抱かせた。 「あとこれ、いつものお薬ね。お水も置いとくよ」 「ごめん、美海、今日のご飯……」 「うん、レトルトカレー食べとくね」 「悪い」 「なんで? 美海、カレー好きだし」  美海はにっこり笑って、俺の部屋を後にした。幼い妹の気遣いに自分が情けなくなる。俺は一度起き上がって胃薬を水で飲み下すと、再び横になり、あたたかい湯たんぽを抱きしめた。  それからどれぐらい経ったのだろうか。薬が効いて少しうとうととしていた。暗い部屋に細い灯りが刺して、人影がベッドのそばに膝をつく。 「晴希、大丈夫?」 「母さん……うん」  母さんはスーツ姿のままだった。横になった俺の肩を優しくさする。 「今日は何も食べられないかな。ちょっと久しぶりだから辛いね」 「慣れてるから、平気」 「そっか。何かあったら言ってね」  そっと俺の頭を撫でて、母さんは出て行った。幼な子のように扱われると、遠い昔の記憶が蘇りそうになり、俺は暗闇の中で目を瞑る。  脳裏には御子柴と天野さんの姿が映っていた。二人は互いに向かい合って、何かを話している。会話の内容までは聞こえない。でもどちらとも真剣な顔つきだった。  暗がりでスマホのディスプレイが光った。メッセージの送り主は御子柴だった。 『今から会えない?』  どうなったんだろうか、天野さんの告白は。そう思い当たった途端、胃壁をつねられたような痛みが走った。  脂汗を流しながら、俺はのろのろと指を動かした。 『ごめん、ちょっと腹壊して、寝てる』  ややあって、返事が来た。 『大丈夫か?』 『よくあるから。一晩寝れば治る』 『明日、学校来る?』 『多分、行ける』 『じゃあ、家まで迎えに行くから、待ってて』  了解の旨を送り、そこで力尽きる。  またしばらくうつらうつらして、起きた頃には、大分腹痛は治まっていた。  部屋の照明をリモコンでつける。闇に慣れた目に光が痛い。ベットサイドの目覚まし時計を確認すると、時刻は夜十時を回っていた。  ベッドの上で半身を起こし、コップに残っていた水を飲み干す。せめて風呂には入らないと、とベッドを抜け出ようとした時、スマホが鳴り出した。  天野游那——その名前にどきりとする。  でも出ないわけにはいかない。俺はまた痛み出した鳩尾をさすりながら、スマホを耳に当てた。 「もしもし」 『あ……ごめんね、水無瀬くん。こんな時間に』  天野さんの声はどこか気の抜けたように聞こえた。俺は事態の成り行きを計り損ねたまま、答える。 「いや、いいよ。気にしないで」 『今、少しだけいい?』 「うん」  わずかな沈黙の後、天野さんは堪えきれなかったように笑った。 『ふふ、あのね、綺麗にフラれてきたよ』  どこか吹っ切れた口調だった。  途端、胃の痛みが嘘のように消え、全身を安堵感が包んだ。告白の結果になのか、天野さんが晴れ晴れした様子だからなのか、分からなかったが。 「そっ、か……」 『水無瀬くん、本当にありがとうね』 「そんな、俺は」 『ううん、だって水無瀬くんが許してくれたから、私、きっぱり諦めることができたんだよ』  辛くないはずがない。御子柴の連絡から時間差があったのは、きっと気持ちの整理をつけていたからに違いなかった。けれど天野さんは気丈に続けた。 『あ、そうそう。御子柴くんにも打ち明けたの。保健室のこと、立ち聞きしてごめんなさいって。そしたら私の告白も冷静に聞いてたのに、急に怖い顔されて』 「……は? 御子柴が?」 『そう。水無瀬にも言ったのか? って聞かれたから、うんって言ったらすっごい目で睨まれた。あんな御子柴くん初めて見たよ』  俺は呆れて物が言えなかった。御子柴がここにいたらぶん殴っていただろう。 「なんだそれ……あいつに怒る資格ないだろ。天野さん、本当にごめん」 『あはは、まぁ、ちょっと怖かったけど。でも……水無瀬くんのことが本当に大事なんだなぁって思ったよ』 「いや、関係ない。絶対、土下座させるから」 『ええ? いいよぉ』  天野さんはころころと笑っている。そのあまりの人の良さに、彼女の行く末を勝手に心配してしまうほどだ。 『私ね、水無瀬くんと友達になりたい』 「え、俺と?」 『うん、最初はね、こんな話、急にできないなって思って……もう少し仲良くなってからって、そういう打算? みたいなのがあったんだ。ごめんね』  突然、連絡先を聞いてきたのはそういう理由だったのか。俺は首を振った。 「いや、そんな」 『共通の話題もないから御子柴くんの話ばっかりしてたよね。……でも、実際の水無瀬くんってとても優しい人だったから。話を聞いてもらった時もすごく心が安らぐっていうか。御子柴くんももしかしたらそういうところが好きになったのかな?』 「そ、それはどうだろう」 『どこが好きとか聞いたことないの? って、ごめんなさい、突っ込んだ話はもっと仲良くなってからだね』  照れたように笑い、天野さんは続けた。 『水無瀬くんといろんな話したいな。私と……友達になってくれる?』 「……もちろん。天野さんがいいなら」  電話口から軽やかな微笑が聞こえた。きっと今、天野さんは花が綻ぶように笑っているのだろうと思った。  翌朝にはすっかり胃の調子が戻っていた。  俺はいつものようにトーストを食べ、紅茶を飲んだ。最初に母さんを、その後に美海を送り出して戸締りを確認していると、インターホンが鳴った。画面には昨日言っていた通り、御子柴の姿が映っていた。  エントランスまで降りると、所在なさげに立っている御子柴がいた。 「あー、おはよ、水無瀬」  声もどことなく覇気がない。俺は適当に挨拶を返すと、先にマンションの自動ドアをくぐった。  朝の住宅街は冷え込んでいた。やにわに吹いた寒風に肩を竦めていると、御子柴が不意に口を開いた。 「その……怒ってるよな、ごめん」  俺は隣をちらりと横目で一瞥し、すぐ前に向き直った。 「何が?」 「こないだの保健室のこと。あ、てか、昨日、天野にさ、なんていうか……」 「知ってるよ、全部本人から聞いてるし」 「あぁ、そっか。水無瀬に許可取ったって言ってたな」  一向に気付く気配がないので、俺は御子柴を睨みつけた。 「保健室のことはいいよ。俺も悪いんだから。けど、お前なんで天野さんにキレたわけ? 女の子ビビらすとか最低だ」  御子柴はきょとんと目を瞬かせた。 「キレた? 俺が? え、何のこと?」 「天野さんがすごい顔して睨まれたって言ってた」 「い、いやいや、んなことしてねーよ。第一、天野は被害者なんだし、悪いのは全面的に俺だし、睨むなんてそんなこと」 「天野さんがそう感じたんだから、そうなんだよ」 「待てって、水無瀬」 「言い訳無用。今日、絶対謝れ」  尚も何か言いたげな御子柴に、俺はきっぱり宣言した。 「謝らないなら、金輪際、一緒に昼メシ食わない」 「謝ります」 「土下座だぞ」 「マジかー……」  御子柴は額に手を添えて、がっくりと肩を落としている。俺はふん、と鼻を鳴らして顔を背けた。

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