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15−1:白い彗星 1
——やってしまった。やってしまった、やってしまった!
俺は家の玄関を開けるなり、廊下を走って自室へ転がり込み、そのままベッドへ飛び込んだ。俯せになって枕に強く顔を押しつける。
息は切れ、肩は激しく上下し、肺は懸命に酸素を求めている。けれど、どうしても顔が上げられない。自分の心臓の音がうるさくて、両手で耳を塞ぐ。頬も耳殻も驚くほど熱かった。
いい加減、息が苦しくなって、ごろんと仰向けになる。電気のついていない天井は、カーテンから差し込む外の明かりにぼんやり光っている。月の光と、それからきっと道路にある街灯——さっき、御子柴と別れたところにあるものかもしれない。
——来週末、うち、誰もいないんだけど。泊まりにくる?
うわああああああ、と心の中で叫ぶ。じっとしていられず、俺はベッドの上を右へ左へ転がった。何やってるんだ、馬鹿みたいだ。傍から見たら気でも触れたかと思われるに違いない。
でも、だって。泊まりに行くだなんて、それは、つまり——
「——ハルく〜ん?」
どんどん、と無遠慮にドアがノックされる。俺はびくっと全身を震わせ、無意味な体の動きを止めた。
「入るよ? ……あれ?」
風呂上がりだろう、パジャマに濡れ髪姿の美海が、きょとんと首を傾げる。
「電気もつけずになにやってんの?」
「い、いや……ちょっと疲れて」
「あ、そっか。今日、池袋行ったんだよね? お兄ちゃ〜ん、お土産は?」
甘えた声で言う美海に、俺はゆるゆると首を振った。
「何もないけど……」
「ハルくんのばかっ。かいしょなし!」
大きな音を立てて、ドアが閉められる。再び暗く閉ざされた部屋で、俺はぐったり四肢をベッドに投げ出す。
ああ、そうなんだよ、美海。お兄ちゃんには甲斐性がないんだ……。甲斐性が具体的に何かちょっとよく分かってないけど、でもそれぐらいは分かるんだ……
やってしまった。逃げ出してしまった。
持ち帰って検討させていただきます、なんて大人の方便みたいなことを言い残して、御子柴を置き去りにしてしまった。
言いそびれていたから勢いで言う、と啖呵を切っていた。確かに実際、何度か御子柴はそのことを言い出そうとしていた。今となっては心当たりがある。それにいつもの余裕のある顔じゃなかった。眉間に思いっきり皺を寄せて、頬を少し引きつらせて。でも真摯に俺を見つめていた。
それなのに、俺は。
寂しいとか、離れたくないとか言っておきながら。いざそんな風に手を伸ばされると、尻込みしてしまうなんて最悪だ。
でも、だって、突然そんなことを言われて——
「どうしたらいいんだよ……」
うずくまって頭を抱える。たまらず掻き抱いた枕の柔らかい感触だけが、俺の頼りだった。
月曜日が来なければいいのに、とこんなに強く願ったことはない。
だが時の流れは絶え間なく、俺は濁流に呑み込まれるようにして、気がつけばあっという間にいつもの登校路を歩いていた。
住宅街を抜けると、二車線の道路に面した歩道に出る。冬の冷たい空気をもろともせず、雀の群れが街路樹から街路樹へ渡っていった。
前後には同じ高校へ通う制服姿の生徒が増えてきた。俺は天敵に怯える小動物のように肩を竦め、視線だけでちらちらと道行く生徒の背格好を確認していく。
今のところ、見当たらない……かな。ほっと安堵の息をついてから、自分の身勝手さに気づき、自己嫌悪が胸を刺した。
「——よ。おはよ」
「うわあッ」
背後からぽんと肩を叩かれ、その慣れた声を聞いた瞬間、俺は文字通り飛び上がった。
足を止めて振り返ると、目を丸くした御子柴がいた。突然大声を上げた俺を、周囲にいた生徒達が横目で見てくる。いたたまれなくなって俺はそそくさと歩き出した。御子柴も当然のように隣に並ぶ。
「なんでそんな驚いた?」
「い、いや……ぼーっとしてて」
「ふーん。ところで兼藤 ティーチャーの小論文やった?」
兼藤先生は英語を担当している、中年の男性教師だ。日本語と英語が半分ずつほど混じる独特な喋り方とその個性からか、生徒の間ではもっぱら『兼藤ティーチャー』の愛称で呼ばれている。
俺は足元にうろうろと視線を彷徨わせながら、返した。
「えっと、それ、今日だっけ?」
「いや、今日だよ。思いっきり今日だよ。みんなひーひー言ってたじゃん」
「マジか。してない……」
「一個も?」
「うん……」
「お前なー、もうちょっと焦ったら?」
「あ、焦ってるよ」
だが今の俺を追い立てるのは、決して英語の小論文ではなかった。
呆れ顔でこちらを見つめてくる御子柴に、俺は意を決して言った。
「この前の……」
「ん?」
「いや、その、土曜日のこと。——ごめん」
すると御子柴がふっと苦笑した。
「なんだそれか。何、思い詰めてんのかと思った。別に気にしてねーよ」
俺は今朝、初めて御子柴を見上げた。
「ほんとに?」
「まぁ、急に言い出した俺も悪かったし」
「怒ってない?」
「ない」
「そっか。ごめん、俺、傷つけたかと思って……」
「そんなにヤワじゃありません。ピアニストのメンタル舐めんなよ」
そう、なのかな。なら、どうして御子柴はあんな別れる間際になるまで、言い出さなかったのだろう。一抹の不安と共に御子柴の表情を伺うも、そこにはいつもと変わらない綺麗な微笑みがあるだけだ。
俺は御子柴の真意を測りかねたまま、慌てて付け足した。
「あの、土日、行くから……」
ふと御子柴の口元から笑みが消えた。
校門をくぐって昇降口に入る。御子柴はスニーカーを脱いで、上履きに履き替えながら、淡々と言った。
「別にそんな急がなくてもいいんじゃね」
「え?」
「返事。まだ一週間あるんだし、その間に何か予定が入るかもだろ」
「いや、でも……」
「それにこれが最初で最後ってわけでもなし。んな焦る必要ねーよ」
御子柴は戸惑う俺を置いて、さっさと昇降口を抜けていってしまう。そして肩越しに振り返った。
「職員室に用事あるから。また、後でな」
軽く手を挙げて、御子柴は廊下を曲がっていく。俺は突然親鳥に見放された雛のように、呆然とその背中を見送った。
英語の小論文が終わっていなかったのは、幸いなことに俺だけではなかった。予想はできたが高牧である。兼藤ティーチャーは俺と高牧に居残りを申しつけ、小論文を是が非でも完成させることを誓わせた。
そんな嵐の一時間目が過ぎ、今は二時間目の倫理の授業中である。主要教科でないのをいいことに、俺は真っ白なノートを見つめながら、悶々と考え込んでいた。
俺の頭を悩ませるのは、もちろん前の席に座る男である。黒板を見れば嫌でも目に入るため、こうして俯いているしかないのだった。
今朝の御子柴の言動が、脳裏で幾度も繰り返される。行く、と言ったのに。どうして御子柴は頷いてくれなかったんだろう。やっぱり怒っているとか? それとも一度逃げ出した俺に呆れ返っているのか。
……嫌われた、だろうか。
思考がぐるぐると螺旋を描いて、底の見えない暗がりに落ちていく。
そんな負のスパイラルを遮ったのは、鋭い声音だった。
「——水無瀬」
はっと顔を上げると、銀縁眼鏡の向こうから、厳しい視線が送られていた。教壇に立っている倫理の石田先生だ。細面に吊り上がった目、そして神経質な表情が俺を見ている。俺は慌てて立ち上がった。
「は、はい」
「質問は聞いていたな? 答えろ」
まるで記憶がない。石田先生はそれを見越しているようだった。一時間目のみならず、次の授業までもつるし上げられて、小心者の心臓は早鐘を打つしかない。答えに窮していると、石田先生は聞こえよがしな溜息をついた。やばい、これは相当怒ってる……
そこへ、とんとん、と軽い音がした。俺にしか聞こえないような小さな音だ。見ると、前の席から教科書の端が覗いていた。御子柴がシャーペンで哲学者の自画像と名前を差し示している。俺はとっさに答えた。
「ピコ・デラ・ミランドラ、です」
「なんだ、聞いてたんじゃないか」
石田先生は少し残念そうな声で言った。うう、絶対サディストだ、この人……
なにはともあれ許された俺は、すごすごと椅子に腰掛けた。
前の席をちらりと見やる。石田先生が板書に戻った隙に、お礼の意味を込めて御子柴の背中を突くと、返事の代わりにシャーペンが左右に振られた。
胸の真ん中がきゅっと引き絞られる。何故か泣きたくなるのを、俺は懸命に堪えた。
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