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15−5:白い彗星 5
すっかり夜の帳が落ちた道を、御子柴と並んで帰る。等間隔に立てられた外灯が、歩道のアスファルトに水たまりのような光を落としていた。
「ありがとな、こんな時間まで手伝ってくれて。おかげで明日にはちゃんと終わりそうだって」
「そっか……」
柔和な笑みを向けてくる御子柴に、しかし俺は気のない返事しかできなかった。慣れない人達に囲まれて疲れたのだろうか、うまく思考がまとまらない。それを知ってか知らずか、御子柴は明るい口調で続けた。
「春日井先輩、お前のこと褒めてたしな。あの人、滅多にあんなこと言わねーよ?」
俺と嶋村先輩で書類整理を終えたと報告した時のことを思い出す。春日井先輩は満足げな表情で俺に言っていた。
「見上げた根性だな、誰かさんと違って」
「先輩、いっつも見上げてますもんね」
「てめー、今にガチでボコるかんな」
付属的に思い出されるのは、春日井先輩と御子柴の会話だ。俺はぎゅっと鞄の持ち手を握りしめる。
「……褒められても、嬉しくない」
「え? 何て?」
「いや、なんでも」
軽く首を振って、とっさに出た小さな呟きを振り払う。外灯が一瞬だけ頭上を照らす。俺は今、どんな表情をしているのだろうか。それが暴かれていないことだけを祈った。
「うまくいけば水無瀬と一緒に作業できると思ったんだけどな。先輩、全然放してくんねーから」
「あの先輩、付き合い長いの?」
「中学の頃、おんなじようなことしてただけ。幽霊部員にしてもらったり。ま、面倒見はいい人なんだよな。ちょっと口うるさいけど」
「ふうん」
「でもからかいがいがあって楽しいぜ? きゃんきゃん吼えてるの、子犬みてーじゃね? うちの犬、大型犬だからそういうのなくってさ。なんか新鮮っていうか可愛いっていうか」
「ふううううん」
「……どした?」
「別に」
そっけなく返した俺に、御子柴は微苦笑を返した。
「水無瀬はああいう人、あんま得意じゃなさそうだもんな」
「そういうわけじゃないけど。ちょっと……御子柴に甘えすぎなんじゃって思っただけ」
「それはねえよ、逆はあるけど」
なんで、春日井先輩の肩持つんだよ。そんな風に文句を言いそうになったのを、すんでのところで呑み込む。
それにどの口が言うんだ。
いつだって——今日だって授業で当てられた時、散々甘えておいて。
あの日、逃げ出したくせに、ずっと許されておいて。
「……ごめん」
「何が?」
いつもの別れ道に差し掛かる。
俺は立ち止まって俯いた。土日の件について話さなければならない。でも感情が散り散りに乱れていて、どうしたらいいか分からない。
「その……」
何か言わなければ。そう思うのに、もごもごと口ごもってばかりの俺の肩を、御子柴が軽く叩いた。
「送ってくわ、手伝ってくれたお礼」
「え、でも」
「いいからいいから」
さっさと歩き出す御子柴の背を小走りに追いかける。
俺にとっては気まずい沈黙がしばらく続く。ただ御子柴はその限りではないようで、不意に肩を揺らして小さく吹き出した。俺は思わず首を傾げる。
「なんだよ?」
「いや、勘違いだったら恥ずいんだけど。——もしかして妬いてる?」
「んなっ」
脳天に雷が落ちたように俺は動けなくなった。ぎくりと歩みを止めてしまった俺に、御子柴は堪えきれないとばかりに笑い始めた。
「ぶっ——あははは、ごめんごめん。お前がそんな風に考えるなんて思わなくて。先輩のこと可愛いとか言っちゃったわ」
「べ、べつに、別にっ……!」
「あー、あとあれ、お姫様抱っこはまずかったよな。とっさに手が出ちゃったっていうか。怒ってる? ごめんな?」
「うるさいばかっ!」
やけに弾んだ声で形式的に謝ってくる御子柴を振り払うように、俺は大股で住宅街を先へと進んだ。それなりの早足だったのだが、リーチの差なのか、御子柴は悠々と追いついてくる。
いよいよ俺の家のマンションが近づいてきたところで、御子柴は苦笑交じりに言った。
「んな心配しなくても、俺はお前のもんだよ」
マンションの入り口の前で立ち止まる。俺は耳まで赤いのを自覚しながら、表情を隠すように俯いた。
視線だけでちらりと御子柴を見やると、柔らかく細められた目と目が合う。
俺は一度強く拳を握ると、ほどいたその手で御子柴の腕を掴んだ。
「何?」
「こっち」
エントランスの脇を通り過ぎ、地下駐車場への入り口を目指す。洞窟のように暗い駐車場には幸いなことに人影は見当たらなかった。
コンクリートで塗り固められた太い柱の陰まで、御子柴を連れて行く。
きょとんとしている御子柴を正面から見つめ、俺は言った。
「——土日、行く」
形の良い眉が少し困ったように下がる。
「勢いで言ってね?」
「お前だって勢いで言ってたろ」
「そうだけど。でも、俺は言うのを迷ってただけで」
「もう決めたんだ」
……どうして、俺なんだろう。
俺はお前のもんだよ、そう言われた時——いや、きっとそれよりもずっと前からそう思っていた。
具体的に聞いたことはない。俺がそうであるように、さしもの御子柴にだってきっと簡単に言葉で表せるものではないと思ったからだ。
それなのにどうしてなんだろう、こんなにも心が揺らぐのは。足元がいつも覚束ないのは。そう易々と形にできないと分かっているのに、いや、だからこそ少しでもその輪郭が知りたい。
「今の関係は居心地がいいよ。でもずっとそれじゃ嫌だ」
恐る恐る、御子柴の手を握る。けどそれじゃ遠すぎる気がして、俺は自然と自分の心臓の上にその手の平を導いた。
「——お前が俺のもんだっていうなら、俺もちゃんとお前のもんにして欲しい」
暗がりの中、非常用扉の光にうっすらと照らされた御子柴の表情から色が抜け落ちる。
大きく見開かれた瞳に、一瞬きらりと光が過る。
それはまるで暗い夜空に輝く、一条の白い流れ星のようだった。
不意に、胸の上から手が離れた。かと思うと、御子柴はずるずるとその場にしゃがみ込んでしまった。
「いや……マジ、どこでそんな言葉覚えてくんの、お前……」
「じ、自分で考えたよ、ちゃんと」
「なお悪いわ」
御子柴は心底疲れたように深々と溜息を吐いた。そうして諸々を吹っ切るように勢いよく立ち上がると、ずいっと俺に顔を近づけた。
「言っとくけど、こればっかりは取り消したら泣くからな」
「と、取り消さねーよ」
「……ん、分かった」
ようやく俺から身を離すと、御子柴は柔らかく微笑んだ。
ふわりと漂ってくるような、紛れもない幸福の匂いがする。こっちが恥ずかしくなってきて、俺は反射的に俯いた。
「しゃーねーから、明日も集計頑張るか。これもあのチビ先輩のおかげだしな」
ここでその名前を出すか。じとっと御子柴を睨むと、全て見透かしたように頭を撫でられた。
「嘘だって、怒るなって。水無瀬が一番可愛いよ」
「嬉しくない」
ぺしっと頭の上の手を払う。俺のつっけんどんな態度を一向に意に介さず、御子柴はへらへらと口元を緩めっぱなしだった。
駐車場を出て、エントランスの前まで戻り、御子柴を見送る。
「じゃ、また明日。んで、週末な」
「うん」
小さく手を振り返す。住宅街の角を曲がっていく背を見送っていると、御子柴がちらりと肩越しにもう一度、手を振ってきた。
改めて一人きりになり、俺はゆっくりと頭上を仰いだ。住宅街の明かりと電線越しに見上げた夜空に、さっき御子柴の瞳の中にあったような、白い彗星を探すように。
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