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16−11:海の底でふたりきり 11

 意識がぷかりと浮かび上がった。夜の海の底から海面へと浮上するように。  薄く目を開けると、そこは見慣れない部屋だった。  モノトーンのデスクの傍にある小窓から、薄く朝日が差し込んでいる。横を向いていた体を緩慢な動作で仰向けに転がすと、これまた見慣れない天井があった。シーリングライトは消灯したままだった。 「あ、起きた」  さらに顔を右に向けると、同じベッドに御子柴が半身を起こして座っていた。  すぐ横の窓によりかかってスマホを触っている。ちらりと見えたのはメッセージアプリの画面で、誰かとやりとりしているようだった。  それも一区切りついたのか、御子柴はベッドサイドにスマホを置いて、カーテンを勢いよく開けた。  しゃっという音と共に、待ち構えていたように日の光がなだれ込んでくる。 「まぶしっ」  俺はとっさに頭まで布団をかぶった。 「はい、もう起きる」 「んー……!」  布団を剥ぎ取られそうになるのに、なんとか抵抗する。御子柴は意外と諦めが早かった。「はぁ、もう」などと溜息を吐いている。  しばらくダンゴムシのように丸まっていた俺は、布団からちらりと目だけを覗かせた。御子柴は可笑しそうに肩を振るわせていた。 「前から思ってたけど、水無瀬ってよく寝るよな」 「悪いかよ」 「いや、いいんじゃん。ぐーすか寝てるの可愛いし。三歳の甥っ子に似てる」 「子供扱いすんな……」 「誤解だって。——俺、ガキにはあんなことしねーよ?」  にやりと吊り上げられた唇を見て、呆気に取られていたのは一瞬だった。  こいつの思惑通りだということは分かっているのに、顔がぼんっと沸騰した。一拍遅れて、昨夜のあれやこれやが津波のように襲ってくる。  俺はがばっと上半身を起こすと、手近にあった枕で何度も御子柴を叩いた。 「うるさいばかっ、お前はっ、朝からっ、何言ってんだ!」 「痛いって。暴れるな、ステイステイ」  俺はクロードじゃない! 大きく振りかぶった枕を掴まれ、強引に引き寄せられる。  体勢を崩した俺を難なく受け止めて、御子柴は音もなく口づけてきた。 「——おはよう、水無瀬」  鼻先が触れるほど近くで、にっこりと微笑まれる。  俺はぐっと言葉に詰まって、枕に顔を埋めた。  ……完っ全に分かっててやってる、こいつ。自分の顔がいいって知ってるし、それに弱い俺のことも分かってる。それを俺も分かってる。なのに逆らえない。 「汗かいたろ、シャワー浴びてきたら?」 「ん……」  穏やかにそう促され、俺はもぞもぞと枕から身を離した。御子柴のことを睨んだままベッドを降りて、部屋のドアに向かう。 「あ、一緒に入る?」  言うと思った、このばか。 「入らないっ」  俺はわざと音を立てて、ドアを開閉した。  一人、廊下に出ると、途端に朝の静寂が身に染みこんでくる。  俺はまずリビングに向かって着替えを取ると、昨日も使わせてもらった洗面所兼脱衣所に向かった。  その間中、頭を過るのはもちろん昨夜のことだった。いちいち具体的に思い出しては、その度に立ち止まって頭を抱えた。  何を……なんてことをしてしまったんだ。下手に思考に囚われると叫び出しそうになる。  脱衣所に入った俺はさっさと熱いシャワーで諸々を流してしまおうと、服を脱いだ。洗面台の鏡に自分の姿が映る。  保健室でのことを思い出し、はっとして肌をくまなくチェックした。首に、肩に、胸、それから背中—— 「あれ……」  鏡に映る自分の上半身は綺麗なものだった。いや、綺麗ではないけれど……少なくとも、あの時のような鬱血の跡はなかった。  そういえば、昨夜は強く吸い上げられるようなことはされなかったような気がする。必死すぎて細かいことまでは覚えてないけれど、この跡のない体が証拠だろう。 「そっか……」  俯いて呟いた自分の声が、思った以上にか細いのに驚く。  い、いやいやいや。別に残念なんて思ってないし。大体、あの感覚ちょっと苦手なんだよ。痛いとかそういうんじゃないけど、なんかこういてもたってもいられなくなるっていうか。  でも……一回ぐらいは。一個ぐらいは…… 「——あーもう!」  俺はぶんぶんと大きく首を振った。そして今度こそ服を綺麗さっぱり脱ぎ捨てて、頭からシャワーを浴びた。最初は冷たい水が出ることを失念していて、悲鳴を上げたけれど。 *  俺と入れ替わるように、御子柴もシャワーを浴びに来た。  冷水と温水に翻弄された俺は、すでにちょっと疲れていた。パーカーとジーンズに着替えた俺がよろよろしていると、御子柴が小首を傾げた。 「だいじょぶ?」 「おう……。あ、そうだ。朝飯どうする?」 「んー、なんも考えてなかった」 「キッチン使ってもいいなら、またなんか作るよ」 「え? ほんと?」  御子柴の瞳が輝く。それを見て少し元気を取り戻した俺は俺で、現金なものだった。  俺は早速リビングに向かった。  キッチンを見ると、食パンが一斤置いてあった。  誰もいなかったけど、一応「失礼します」と断って冷蔵庫を開ける。ジャムにバター、卵にベーコン、野菜室にはレタスとトマトがあった。うん、それなりの朝食が作れそうだ。  まずはサラダを作る。トマトを切って、レタスをちぎっていると、御子柴がリビングに現れた。リネンシャツにネイビーのニットカーディガンを着ている。カラスの行水もいいところだ、と俺は苦笑した。  トーストを焼いて、ベーコンエッグを作る。御子柴は昨日と同じように、俺の作業を見守っていた。正直言って、ちょっとやりにくい。困ったように見やると、無邪気な笑みを返された。……くそ、やっぱりずるい。 「水無瀬は、いつも朝なに飲むの?」  電気ケトルで湯を沸かしながら、御子柴が尋ねてくる。 「紅茶かな」 「おっけー」  御子柴は上の戸棚からティーパックを取り出している。背伸びすらせずに届いてしまうのはさすがだ。春日井先輩が見たら怒るだろうな、と思った。  すぐにお湯が沸く。ティーパックを入れたマグカップにお湯を注ぐ手つきを、俺ははらはらと見やった。 「指、火傷するなよ」 「お前って結構、過保護だよな……」  朝食を用意し終え、向かい合ってテーブルにつく。  俺はマグカップに口をつけた。トーストを頬張っている御子柴をちらりと見やる。  朝から早食いは健在で、すでにトーストは半分以下に減っている。いつも思うけど、特にがっつくような動作ではないのに、魔法のように食べ物がなくなっていくのは、どういう仕組みになっているのだろう。 「あ……あのさ」 「うん?」  指についたジャムを舐め取りながら、御子柴が言う。俺は瑪瑙色の紅茶に視線を落とし、口ごもった。 「昨日は、あの、なんていうか……ごめん」 「え、何が?」 「いや、だって。俺、その——」  紅茶の水面に映った自分の顔に、朱が差している気がする。俺はしばらく言い淀んでいたが、やがてぼそぼそと続けた。 「ああいうこと、えっと……は、初めてというか。色々、迷惑かけたし、やっぱ、あんま、うまくできなかったかな、って……。それに、中途半端だったかも、だし——」  今気づいたけど、これ、食事中にする話か? やっぱやめよう、と提案しようとしたが、御子柴は一向に気にすることなく、ベーコンエッグを箸で突いていた。  俺も紅茶を飲んで落ち着こうと、再びカップを持ち上げたところで、御子柴は何気なく言った。 「中途半端って、入れなかったから?」 「ぶッ——」  熱っ、熱い! 淹れ立ての紅茶を飲んでる時にぶっこむな! 涙目になる俺を意にも介さず、御子柴は続けた。 「別にいいんじゃね。俺だって初めてだし、あんなもんだろ」  俺は一瞬、唇がひりひりするのも忘れて、御子柴を見つめた。  御子柴はベーコンエッグを一口で食べ、もぐもぐと咀嚼している。そしてのんびり「んー、うまい」などと呟いていた。  ぽかんとしていた俺は、我に返る。 「あ……ああ、その、男と——ってこと?」 「いや、人生通して」 「嘘じゃん」  俺は即座に真顔で返した。 「嘘すぎんだろ。え、気ぃ使ってる?」 「なんでだよ、嘘ついてどうすんだよ」 「彼女、いたことあるだろ」 「それは、まぁ」 「じゃあやっぱ嘘じゃねーか」 「誰ともそこまでいかなかったんだよ」 「嘘だ」 「俺、告られるのにすぐフラれるタイプだから」 「嘘つき」 「それにそういう気分にもなれなかったんだよな。淡泊なのかなーってちょっと悩んだり」 「ホラ吹き」 「なので、水無瀬くんと同じ身綺麗な童貞だから、安心してください」 「大嘘つきッ!」  思わず立ち上がると、御子柴もまた応じるようにゆっくりと腰を上げた。  その表情には凄みのある笑みが張り付いている。 「しつけーな、お前も。ほんとだって言ってんだろ」  言うなり、パーカーの襟元をぐいっと引っ張られた。  御子柴がテーブルの上に身を乗り出して、俺の首筋に唇を当てがう。あっ、と思う間もなく、皮膚を強く吸われる。 「うぁっ……」  血が吸い上げられる感覚に、ぞわっと全身が粟立つ。慌てて椅子に腰を下ろした俺を見下ろしながら、御子柴は口端を吊り上げた。 「そう焦んなよ。——俺はお前のもんだし、お前は俺のもんなんだから」  俺はへなへなとテーブルに突っ伏し、首をさすった。さっき洗面所の鏡には映っていなかった——鬱血の跡がついていると確信して。 「さ、ご飯はお行儀良く食べましょーね」  何事もなかったかのように椅子に座り、優雅な仕草で紅茶を飲む御子柴に、俺は小さな声で「はい……」と返した。

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