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17−1:明日、世界が終わっても 1

 ——春が、やってくる。  授業中だった。換気のために教室の窓が薄く開けられている。そこから暖かい風が入り込み、季節の変わり目の揺らぐような匂いを残して、廊下へと通り抜けた。  俺はつい窓の外に目をやった。  空は青く澄み渡り、雲一つなかった。正午前の太陽は随分と高くなっていて、燦々とした光が街に降り注いでいる。砂っぽい校庭も、正門から真っ直ぐ伸びる通学路も、見慣れた街並みも、全てが輝いている。  長く寒い冬が終わって、ようやく訪れた芽吹きの春を、目一杯享受している。そんな風に見えた。 「……というわけで、今年度の私の授業を終わります」  数学の一条先生が言った。  同時に、四時間目の終了を報せるチャイムが鳴り響いたので、慌てて教壇に視線を戻すと、なんと一条先生はずびずびと鼻を鳴らして泣いていた。 「み、みなさん、ありがとうございましたっ……。これでっ、私はっ、産休に入ります。みんなのこと忘れないからねっ——!」 「えっ、一条ちゃん辞めちゃうの?」  クラスの女子が声を上げる。一条先生は目元を拭いながら言った。 「辞めないけど。でも寂しいよおお」 「先生……うちらのクラスが初めてなんだね。最後の授業するの」 「ううん、これで五回目……」 「——嘘でしょ、いい加減慣れない!?」 「だって何度やっても寂しいんだもん。う゛おおおおおん!」  教壇に突っ伏して、おっさんのような野太い声で泣き始めた一条先生を、どんな感情で見ればいいのか俺は完全に見失った。  授業は一応終わったので、女子数人が困惑しながら慰めに行く。一条先生はいつまで経っても帰らない。寂しいのは分かる、生徒思いの先生なのも。  ただちょっともう出てってくれないかな、飯食いづらいな、という雰囲気が教室中を包み始めた。 「屋上行こうぜ」  くるっとこちらを振り向いたのは御子柴だ。その手に購買のビニール袋はない。  代わりに俺が大きめのランチトートを持ってきていた。なんだか女子っぽくて恥ずかしいが、母さんに借りたものだからしょうがない。 「おう」  と、何気ない風を装って立ち上がる。  連れ立って廊下を歩く御子柴の足取りは軽かった。反面、俺はランチトートの持ち手を固く握って、その一歩後ろをついていく。  御子柴が屋上への扉を開けると、ぶわりと風が押し寄せた。教室に流れ込んできていた風とは、強さも濃度も全然違う。匂いや、温度が。  外に出るとそれがもっと顕著になる。頭上には青空が広がっていて、太陽が惜しみなく輝いていた。  真っ白な屋上の床に影を落としながら、俺達はフェンス際まで進む。何故か、足元がふわふわと浮ついておぼつかない。まるで雲の上にいるようだった。 「早く早く」  御子柴に手首を掴まれ、フェンスを背に座る。子供のような顔をして、期待を隠そうともしない御子柴に根負けし、俺はランチトートの中身を取り出した。  弁当箱が二つ、入っていた。その片方を御子柴に手渡すと、仰々しく頭を下げられた。 「ごちになります!」  その仕草がおかしくて、俺は思わず苦笑した。  二人同時に弁当箱の蓋をぱかっと開ける。  中身はまったく同じだ。  しゃけのふりかけが乗った白飯が半分を占めている。もう半分はおかずだ。ひじきと豆の煮物に、甘い卵焼き、ポテトサラダ、彩りにプチトマトが二つ。  それから——御子柴のリクエストであるハンバーグ。弁当用に小ぶりな作りだ。 「いただきます」  俺は箸を箱から取り出して、ひじきの煮物をぱくりとつまんだ。  しかしどうしても隣が気になって視線を動かすと、御子柴は未だ手も着けず、じっと弁当を見つめていた。 「え……なんか、苦手なもの入ってた?」  一応、事前に聞いておいたんだけど……。こいつ、別に嫌いな食べ物ないって言ってなかったっけ?  俺が眉を曇らせていると、御子柴ははっと目を瞬かせた。 「ああ、いや、だいじょぶだけど」  珍しく歯切れが悪い。もしかしてもっと豪勢なものを想像されていたんだろうか。運動会でお母さんが張り切って作る重箱のような。  俺は不安ごと白米を口に押し込んだ。 「言っとくけど、俺が作れるのなんてそんなもんだぞ」 「違うって。感動してんの」 「え?」  御子柴は弁当を持ち上げたり、違う角度から見たりして、矯めつ眇めつしている。 「これが水無瀬が俺のために作った弁当かー」 「お、俺のためってなんだよ」 「違うの?」 「ち……がわないけど。つーか、早く食べろよ」 「えー、もったいない」  どうやら本気でそう思っているらしく、御子柴は弁当の中身を眺めて、上機嫌に目を細めていた。  俺はもう見ていられなくて、御子柴の手から弁当を奪い取ると、箸でハンバーグを持ち上げ、御子柴の口に突っ込んだ。 「もがっ」  と、呻きつつも、御子柴はもぐもぐとハンバーグを咀嚼する。いつもは早食いのくせに、まるで見せ付けるかのようによく噛んで食べていた。  ようやくごくんと喉元が上下する。 「めちゃくちゃうまい」 「……そりゃどーも」  俺は御子柴の手に弁当箱を押しつけると、自分の分を再び食べ始めた。御子柴も観念したか、箸を動かし始める。 「あー、卵焼き甘いの好き」 「良かったな」 「ポテサラのじゃがいも具合ちょうどいい」 「じゃがいも具合ってなんだよ」 「ひじきもおいしい」 「……そう」 「飯、冷えてもうまいなー。ふりかけいいねー」 「いや、その……」 「うーん、プチトマト」 「——うるさいな、もう黙って食えよっ」  俺は箸を折れんばかりに握り締めた。プチトマトのへたを指で摘まんだまま、御子柴はにっこりと微笑んだ。 「ありがとな、水無瀬」  慌てて、顔を背けた。だが隠しきれなかったらしく、御子柴の指が俺の耳殻に触れる。 「耳、真っ赤」 「触るな、ばか」  払いのける前に、御子柴の手は逃げるように離れていく。  俺は誤魔化すように弁当をかきこんだ。結果、いつもとは反対に俺の方が早く食べ終えてしまった。 「ごちそーさまでした」  俺に遅れること少し、隣の弁当もようやく空になる。昼飯を食うだけなのになんでこんなに疲れるのだろう。俺は溜息交じりに呟いた。 「……おそまつさまでした」

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