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【番外】七星が風邪を引いたら①
七星はその日、いつも通りスマホのアラームとともに、朝6時に自室のベッドで目を覚ました。日課である縁結び神社に通うため、毎日早起きをしている……が、違和感があった。のどが痛くて、体が異常に重くて、寒い。明らかに自分の体に異常を感じた。起き上がろうとしてもうまく動かないのだ。
「……さむ……なにこれ……風邪……?」
横向きの体をゆっくりとした動作でさらに縮めると、チリン、と鈴の音が聞こえた。閉じかけた目を開くと、黒い物体――七星の飼い猫である黒猫のリリィが七星を覗き込んでいた。一足早く起床していたリリィは飼い主が目を覚ましたことに気づいてベッドに飛び乗ってきた。
「リリィ……あっためて……」
首をかしげるような動作のあと、にゃあ、とひと鳴きしたリリィは軟体動物のごとく、布団の少しの隙間から七星の胸もとに滑り込んで丸まった。リリィが賢くてよかった、とぼんやりと思いながら丸まったあたたかな猫を抱きしめた。
(あったかい……けど、リリィのいる部分だけだ……肩も、背中も、足も、全部寒い……)
悪寒に耐えながら、重い瞼をもう一度閉じた。
次に目を覚ましたときには、リリィはベッドの中からいなくなっていた。スマホの画面は昼前を映し出している。カーテンの隙間から清々しい日光が降り注いでいたが、残念ながらカーテンを開ける余裕など全くない。
そういえば2コマからあった講義が終わる時間だ。まあ、一回休んだところで支障はないだろう。七星はそっちのことを考えるのをやめた。今はこの現状をどうするかの方が大事だ。
(寒くはなくなったけど……体だるい……)
おそらく熱は上がりきった、でも一人暮らしで風邪もほとんど引いたことのない七星の家には体温計も風邪薬も常備されていない。寝て治すしか方法はなかった。
喉も渇いたことだし、水でも飲んでおこうとゆっくりと体を起こす。ぐらぐら揺れながらなんとか冷蔵庫までたどり着き、ペットボトルの水を流し込む。冷たい水が喉を通り、少しだけすっきりとした。
(朝からなんも食べてない……食欲ないけどお腹すいた……)
棚を開けるが、あっさりとした食べ物は当然のごとく存在しなかった。あるのはインスタント食品、レトルト食品、コンビニの冷凍食品……そんな味の濃いものばかり。
「風邪の時に食べたくないものランキング一位タイ独占かよ……これ食べたら吐くな」
自分の怠惰な生活に今日だけは腹が立った。
そのとき、リリィが玄関の前でしきりに泣き始めた。
「外、出たいの? リリィ……」
七星はふらふらとした足取りでリリィのもとに向かう。
「外行くならなにか食べやすいもの買ってきてほしいな……レトルトの雑炊とか、果物とか……なんて、猫に言っても買い物できないのにね……いってらしゃい、車には気をつけてね……」
ドアを少しだけ開けた隙間から、リリィはするっと抜け出した。
「夜には帰ってくるんだよ」
「にゃあ」
(ま……水飲んでたらしばらくは生きれるかな……)
半ば諦めで七星は再びベッドに戻り、ペットボトルを枕元に転がした。布団をかぶり、天井を見つめながら、一人ぼっちの部屋で何故かどうしようもない不安感に襲われた。
(あー……リリィを外に出さなきゃよかった。急に寂しくなってきた。なんで風邪なんか引いたんだろ……意味わかんない。……苦しい、助けて、由宇くん……でも、どうせそんなメッセージ送ったところで、相手にされるわけないよね。今無視されたらほんとに泣きそうだから、由宇くんにはなにも言わないでおこう……)
寂しさを覆い隠すように、布団を深く被りなおして再び目を閉じた。
*
「起きたか?」
「ゆう、くん……?」
愛しい人の声にゆっくり目を開ける。ぼやける視界の中に映ったのは思い描いていた由宇の顔。なんで俺の家に? 自分は嫌われてるはずなのに、まさか、目の前にいるなんて。その事実が信じられず、七星は熱で回らなくなった思考を必死で回転させた。
「あのなあ、鍵開いてたぞ。危ないから気をつけろよ。お前顔は綺麗なんだから、泥棒とかに襲われるかもだし……」
由宇の注意を聞くのもそぞろに、七星は考える。
そして、結論にたどり着いた。
「あ、夢かぁ……」
「は?」
「リリィ、ついに人間になれるようになったんだ……俺がさみしいのわかって、人間になってくれたんだ……ほんとにゆうくんそっくりだね……」
「何言ってんだ。リリィはここにいるぞ」
由宇の隣から、リリィもひょこ、と顔を覗かせて七星の赤いほっぺを舐めた。
「あれ、猫のままだ」
「当たり前だろ」
「……え、それじゃあ……」
夢じゃない。これは現実だ、と理解した七星は勢いよく飛び起きた。
「うそ、ほんものの由宇くん!?」
「ちょっ……熱すげーんだから、バタバタすんな!」
熱で火照った体はその勢いに耐えきれず、頭はさらにぐるぐると回りだし、七星はバタンとベッドに倒れこんだ。
「ほら、言わんこっちゃない。静かに寝てろよ」
「うん……」
文句を言いながらも布団をかけ直してくれ、額の汗を拭いてくれる由宇の姿に、七星の心臓はドキドキと音を鳴らした。
(ほんとに、由宇くんが俺の部屋にいる……!? でも俺の家教えてないし、こんなに優しくしてくれるなんて、そんなこと現実じゃありえないよね、じゃあやっぱりこれは俺の願望が見せてる夢だ……夢だったら、少しぐらい甘えても、こたえてくれるよね)
七星は布団の中から腕を伸ばし、縋るように目を潤ませながら由宇の手を取った。
「由宇くん、ぎゅってして、ちゅーして……さみしいよ……」
「え、やだ」
「なんで!? 夢なら俺の言うとおりになってよ、夢のばかぁ……!」
「だから、夢じゃないんだって!」
どんどん潤んでいく緑の瞳。見たことのない態度の七星に由宇も戸惑い、手を離すタイミングを失った。
「なんでこんな頑なに夢だと勘違いしてるんだ……? どうしよ翔太」
それまで一言も話さず、由宇の後ろで事を見守っていた翔太も顔を覗かせる。大嫌いな恋敵の姿が視界に入り、七星は一瞬で顔色を変えた。
「だからなんで夢なのに翔太くんがいるの!? 由宇くんと二人きりにしてよ、空気読んで、夢のくせに……」
翔太は、わんわんと騒ぐ七星の赤くなった両頬をつねった。
「って、いったぁ!!」
「痛いなら現実だ。わかったか?」
「わー……痛そう」
「病人だから一応手加減はしたぞ」
「した? まじで?」
由宇から手を離し、頬を覆って涙を浮かべる七星。由宇はさすがに気の毒に思ってしまった。
「いたい、夢じゃない。じゃあ、ほんとに由宇くん、俺を心配してきてくれたの……?」
七星は布団を鼻までかぶり、まんまるの目でじっと由宇を見つめると、由宇は微妙な顔つきで首を捻った。
「心配……というか、大学にいたら、リリィが俺のところに来たんだよ。そしたらずっと鳴いてるし、俺のズボンを噛んで引っ張ってきて……そんなに必死になるほど異常事態なのかとついていったら、お前が寝込んでたってわけだ。翔太も一緒にいたから来てもらった」
「リリィが……」
返事をするように、にゃあん、と鳴いたあとリリィはまた七星の胸もとで丸まった。
「由宇くんを呼びにいってくれたんだね。ありがとう……」
一人じゃなくなった。七星はリリィをぎゅっと抱きしめた。さっきよりも心が温まったのを感じた。
「しっかり食べて、寝たら治るから。心配しなくても大丈夫」
「……朝からなにも食べてない……」
「えっ、食べれないほどしんどいのか!?」
「この家に、今食べれそうな食べ物がなかったの……」
由宇と翔太は顔を見合わせ、ひとつも使いこまれていないキッチンの方へ向かう。冷蔵庫には水とお茶のペットボトルが冷やしてあり、冷凍スペースにはコンビニの冷凍食品。棚にはインスタント食品のみ。
由宇は唖然として、七星のところに戻る。
「体に良さそうなものがないじゃねーか。普段からインスタントばっか食べてんのかお前」
「うん……お腹が満たされればなんでもいいから……」
「というか、体温計も薬も探したけどなかったし、冷えピタも氷まくらもしてないし……」
「そんなのない。風邪なんて何年もひいたことないもん……」
自分の生活に無頓着すぎる七星に、由宇は驚きと呆れが止まらなかった。
「俺たちが来なかったら、どうするつもりだったんだ」
「寝てればなんとかなるかなって……水飲んでおけばすぐには死なないしね……」
声を震わせながらぎゅっと布団を握った。
「由宇くんの顔見たら、元気でた。来てくれただけでうれしい。がんばって治すから、治ったらまた会おうね」
悲しくて寂しい。そばにいて欲しいのに、相手にされないのがわかっていたから、七星は強がっていた。精一杯を振り絞って笑い、由宇に背を向けてリリィを抱えて丸まった。
「なんか食べないと、治るもんも治らない。食べたいもん買ってきてやる。何がいいんだ?」
「え……」
七星は由宇の言葉が信じられず、ゴソゴソともう一度由宇の方へ体を向ける。
「買ってきてくれるの……? なんで……?」
「なんでって……こんな状態なのに放って帰れないだろ。一人暮らしなら、悪化しても誰も気づけないし。で、何がいいんだ?」
由宇の心配が、七星のからっぽになった心に広がっていく。嬉しくて、嬉しくて、たまらない。ぽうっと見つめながら七星はゆっくり口を動かした。
「由宇くんの手料理……」
「え?」
「あの、ダメなら、果物がいい……さっぱりしたやつ」
つい口にしてしまった願望に、すぐさま保険をかけた。風邪で弱ったメンタルでは断られたときに立ち直れない。七星は不安になりながら由宇の顔色を伺った。
「おかゆか雑炊、どっちがいいんだ。それともうどんとかか?」
「!」
ため息をつきながらも聞き入れてくれたことに安堵した七星は気持ちを舞い上がらせて、ガバッと体を起こした。
「ぞうすいがいい! たまご入ってるやつ!」
「わかった、わかった。材料買ってくるから寝てろ!」
目を輝かせる七星をたしなめて寝かせ、由宇は立ち上がってリュックを背負った。
「翔太、七星の様子見ててくれ」
「わかった」
「由宇くん、行っちゃうの……? 翔太くんが買ってきてよ……」
「ダメだ。由宇と二人きりにしたら、お前が何するかわからないからな」
七星は明らかににショックを受けていた。いつもなら負けじと捻くれた言い返しがくるのに、眉を下げたまましょんぼりと黙ってしまった。
翔太は決まり悪く顔をしかめた。
「……珍しく弱気で調子が狂う」
「だよなあ。熱の影響かもな。なんか子どもみたいに泣き出しそうだし……」
黙ったまま不安げにじっと由宇だけを見つめる瞳。
由宇は仕方ないなと、七星の頭を撫でた。
「買い物してくるだけだ。すぐ戻るから、待っとけ。大人しくしてるんだぞ」
熱で赤くなった頬はさらに赤くなった。しょぼくれていた表情も由宇に触れられただけですぐに笑顔を取り戻した。
「うん。さみしいけど、待ってる。早くかえってきてね、由宇くん」
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