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【番外】それぞれのバレンタイン②
そして日は傾き、夕暮れが差し込む調理室。
約3時間に及ぶ調理実習を終えた学生たちが疲れた顔で調理室を出ていく中、髙月玲依はいまだに焦っていた。
調理室内の業務用冷蔵庫を開ける。片隅には由宇のために丹精込めて作ったチョコレートケーキが入っている。
(やばい。もうバレンタインが終わる。由宇にチョコ渡せてないんだけど!)
結局朝は由宇のもとに辿り着けず、昼からは調理実習。今日の時間割的には、由宇も同じ時間に講義を終えているはずだ。でも調理実習は片付けもあるため少し長引く。現在、講義終了時刻からは30分が経過していた。
「髙月、今日調子悪かったよなー」
「な。いつもはこっちが胸焼けしそうなほど甘ったるい空気丸出しなのに」
「本命にチョコもらえなかったとか。でも相手男なんだっけ?」
「そもそも、振られたんじゃない? 重すぎて」
「それだ」「それだ」「それだ」
玲依と同じ調理実習班の男女が集まってそんなことを話していた。
「まだ振られてないよ!! 俺のバレンタインはまだ終わってない!はず!」
「はず、って……大丈夫なの?」
「まー頑張れよ」
人がどんどん少なくなっていく中、玲依は急いで電話をかけた。お願い、まだ終わらないで俺のバレンタイン……と念じながら。
『もしもし』
「あ、由宇!よかった出てくれて! あのですね、渡したいものがありまして」
『……チョコか?』
「えっ バレてる!?」
『お前なら用意してんだろうなって思ってただけ』
(由宇、もしかして待ってくれてた……!?)
期待されているのかもしれない。スマホの向こう、耳もとで聞こえる由宇の声にドキドキと胸を鳴らして、玲依は電話の向こうの由宇に向かって頭を下げた。
「由宇……めちゃくちゃ申し訳ないんだけど、調理室まで来てほしい……お願いします!」
外に出ると、また女の子に声をかけられるかもしれない。せっかくの由宇とのバレンタインを邪魔されたくない。幸い、調理室からは人がいなくなった。今ここで渡すのがベストだと玲依は考えた。
祈りをこめてスマホを握りしめ、由宇からの返答を待つ。
『……わかった。その調理室の場所教えろ』
「いいの!? まだ帰ってない!?」
『先生のとこ行ってて、今から帰ろうとしてたところだから、大丈夫』
「じゃあっ、場所はね……」
玲依はソワソワと由宇を待った。
少しして、開いた調理室の扉に飛びつくように、由宇を出迎えた。
「由宇! 来てくれてありがとう!」
「こんぐらい別にいい。……お前のその格好、はじめて見た。調理服?」
「そうです!」
着替える暇もなかったため、いつもの調理実習用の服である、白の調理服に赤のコックタイ姿。まじまじと見る由宇に、玲依は得意げに胸を張った。
「へえ、違和感ないな」
「似合ってるってことだよね!」
嬉しそうに広げた笑顔を前に、照れくさくなった由宇は話を切り出した。
「で、チョコだろ」
「うん! こっち来て」
たくさん並んだ調理台のひとつ、玲依の班がいつも使っている調理台に由宇を案内して、イスを用意する。それから玲依は冷蔵庫から取り出したケーキ箱を由宇の前に置いた。
「由宇のために作ったんだ。ハッピーバレンタイン!」
箱から取り出されたのは、ザッハトルテ。4号サイズのケーキは、鏡みたいに顔が映りそうなほど、艶めいている。それにうっすらかかった金箔が上品さを感じさせる。
由宇は目を見開いた。
「なんこれ!? ツヤッツヤ!すげえ!」
「ザッハトルテです! このツヤを出すのにめちゃくちゃ頑張ったよ。持って帰る?ここで食べていく?」
「食べたい! 腹減った!」
キラキラと瞳を輝かせる由宇の表情がたまらなく愛おしい。
「ワンホールいく?」
「お前ずっと見てくるから食べづらいんだよ。一緒に食べようぜ」
「うん! じゃあ紅茶も淹れるね」
「紅茶まであるのか」
「もしものために今日は持参したんだ。座って待ってて」
「持参……」
玲依は鍋で湯を沸かし始める。その間に手際よくティータイム用の食器を戸棚から取ってきた。二人分を並べながら、心の端では由宇に申し訳なさを感じていた。そして自信なさそうに謝った。
「本当は俺があげる側なのに、俺が由宇のところに行かなきゃだったのに、わざわざ来てもらってごめん」
「別にいいって言ったろ。芽依から聞いた、玲依はすっげえチョコもらうから忙しいって。だからここに呼んだんだろ?」
言い訳するつもりはなかったけど、由宇が理由をわかってくれていたことが玲依は嬉しかった。
「うん。ありがとう……」
「どんくらいもらったんだ?」
「今年もすごい量で……ロッカーにも入りきらなくて、ダンボールにまとめて更衣室の端っこに置いてる。一日じゃ持って帰れそうにないんだよね」
七星とおんなじことになってる……モテる男はそうなるのか……と、由宇はモテ男の顔面に心底驚いた。
「でも安心して!告白は全部お断りしたから! 俺は由宇一筋!」
「ふーん……」
由宇はまんざらでもなさそうに、玲依の真っ直ぐな視線からそらして、ケーキを見つめた。
(なにその反応……めちゃくちゃかわいい……っ! やっぱり俺のこと意識してくれてる……? くれてるよね!?)
さらに思い上がりながら、玲依には今日一日ずっと気になっていたことがあった。
(由宇は、俺以外からチョコをもらったのかな……聞きたい、すごい聞きたいけど重いって思われるかも……いや今さらか)
玲依はヤキモチを焼いていた。聞くか聞くまいか、ずっと迷っていたが、やっぱり嫉妬心には逆らえず、意を決した。
(自然に、さりげなく、聞く! 爽やかな感じで聞けば……っ!)
「えっとあの、由宇は、誰かからチョコ、もらった?」
カタコトだった。沸いた湯をティーポットに入れるだけの動作もぎこちがない。話の流れで聞こう作戦は大失敗に終わった。
由宇は一瞬呆れた表情をしたが、いつものことか、と流して話した。
「まあ……もらったけど完全に義理だぞ。友達からコンビニのチョコとか、女子が全員に配ってるやつとか。芽依からももらったけど」
「ゔう……っ」
滲み出ていくポットの中の紅茶を眺めながら話していた由宇は、玲依の悲嘆な声に顔を上げる。美形が台無しになるほど、玲依は苦い表情をしていた。
「俺がいちばんに由宇にチョコ渡したかったっ……!! ましてや芽依にも先を越されるなんて……!! ってかあのブラウニー、女子だけじゃなかったのか、由宇にもあげてたのか……っ!!」
「俺だけじゃなくて、翔太にも渡してたぞ。玲依が世話になってるからって。まあ、いちばんにもらったのは翔太の母さんだけど」
玲依はさらにショックを受けた。
「母!? 親とも仲良いの!? 親公認の仲なの!?」
「幼なじみだからだって! てか早くこのケーキ切ってくれよ!食わせろ!」
「すみません……取り乱しました」
「いっつも取り乱してるだろ。俺のことに関しては」
由宇のことになると、冷静になれない。それだけ玲依は本気で恋をしている。いちばんには渡せなかったけど、何気ない会話をするだけで、胸が躍る。玲依は再び笑顔に戻り、温めた包丁をケーキに入れた。
紅茶を注ぎ、四等分に切られたケーキを一切れずつ取り、向かい合って座った二人は「いただきます」と声を揃えた。
「うん、すっげえ美味い!」
ぱくぱくとケーキを頬張っていく由宇を玲依は優しい眼差しで見つめた。
「ねえ由宇、俺の自惚れかもしれないけど……俺からのチョコ、待ってくれてた?」
由宇はピタリとフォークを止めた。頰がだんだんと赤くなっていく。
「……お前ならこういう行事には気合い入れそうだし、日持ちしないもんなら今日もらっとかないとって思っただけ。それだけ」
「ツンデレ……! はぁ、めっちゃ好き……待っててくれてありがとう……っ」
「だから待ってたわけでは……」
もごもごと口ごもりながら、由宇はケーキを食べ進める。
「……俺も、お前に謝らないとなんだ。……その、お返し用意してなくてごめん」
「え?」
玲依はポカンとして小首を傾げた。
「お返しなんて、考えてなかった。俺は由宇にチョコあげれただけで満足だよ」
「ええ……」
欲望なく笑う玲依に、拍子抜けする。
「俺、好きな人のためにケーキ作るのがすごく楽しい。喜んでもらえるのが嬉しい。その気持ちは由宇がくれたんだ。それで十分だよ。俺の気持ちも由宇に伝わってるみたいだし」
「でもなあ……いつもケーキもらってばっかだし……なんか返さないと悪い」
「じゃ、じゃあ」
玲依はスッと手を挙げた。その瞳はぎらついていた。
この目はやばい、と由宇の頭の中で警報が鳴り出す。こうなったときはロクなものがこない。
「キスでお願いします!! 口に!!」
「欲望丸出しだな!! さっきまでの無欲なお前どこいった!?」
「だって……もらえるものはもらっとこうかと……」
「だめ!無し!やっぱ無し!!」
言わなきゃよかった……と由宇はふてくされながらケーキを頬張る。
「うーん……ハグにしとけばよかったかな」
「そういう問題じゃねえ、けど……」
由宇は手を伸ばし、正面に座る玲依の頭を撫でた。茶色い髪がふわふわと揺れる。
「やっぱ何も返さないのはモヤモヤするからな。とりあえずはこれで。またなんか買うな」
撫でるのおわり!と手を離した瞬間、玲依は真っ赤な顔で立ち上がり、机の反対側に回って由宇に抱きついた。
「うわっ!?」
「好きだ~~!!そんなのずるい、かわいいよ~~!!」
「離れろ離れろ!!」
押しのけても全く離れやしない。
あまりにも嬉しそうに抱きしめてくるので、由宇は諦めて二切れ目のザッハトルテに手をつけた。
「来年は絶対いちばんに渡すから!朝イチで、いやいっそのこと由宇の家にお泊まりして日付け変わってすぐ渡す!」
「重いわ……」
【それぞれのバレンタイン 完】
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