104 / 142

呼び水をさす

 あれから一週間後。再び訪れた空きコマだが、今日はやらなければならないことがある。数学の課題が、終わっていない。嫌すぎて逃げている間に時間だけが無常に過ぎ、提出期限が三日後に迫っている。  正直めちゃくちゃやばい、理数が苦手で文学部にしたのに、理数が必修になるの、意味が分からん。そして課題の内容もちんぷんかんぷんだ。翔太はこの講義取ってないから聞きづらいし、七星なら分かりそうだけど、聞くのは癪。ネットで調べても余計分からないから、図書館で分かりやすい本でも見ながらやるか、と本棚を漁って本を開いても分からん。詰んだ……  本を棚に戻しながらため息をつくと、隣に人が並んだ。 「何か悩んでいるのかな?」  聞き覚えのある声に、顔をあげる。その人は、長谷川教授の研究室で会った…… 「あ……三谷さん!」 「うん、当たり。名前覚えていてくれてありがとう、尾瀬由宇くん」 「三谷さんも覚えてくれてるじゃないですか」  三谷さんはふふ、と笑う。 「それで、重いため息をついているようだったけど、どうしたの?」 「えーと……課題がわからなくて」 「数学の?」 「えっ! なんでそれを!」 「数学の図書の前だからね」  本棚をつんつんと指さして、見透かしたように微笑まれる。バレバレすぎて恥ずかしい…… 「僕でよければ教えようか?」 「え、そんな! 悪いです」 「全然迷惑なんかじゃないよ。だって専門分野だしね」  そういえば、数学コースって言ってたか。正直マジで詰んでるから救いの手だけど……でもやっぱりほとんど話したことない人を頼るのは申し訳なさが勝つ……でも、あの課題をひとりでできるのか……? うう、どうしよう。  迷って答えが出せないでいると、 「尾瀬くん、甘いもの好きだよね?」 「好きですけど……」  え、そんなこと言ったっけ。あの日は猫の話ぐらいしかしてないよな……?  首を捻ると、俺の疑問を察してか、三谷さんはにこりと笑った。 「長谷川教授の研究室でお菓子を食べてたから。そう思って」 「ああ、なるほど!」 「それで、貰い物のシュークリームが僕の研究室にあるんだけど、よければ君が食べてくれないかな?」 「え?」  思ってもみない提案に、目を見開く。三谷さんは困ったようだけど優しく笑った。 「実は僕、甘いものが苦手なんだ。捨てるのも勿体無いし、あげる相手もいなくて……だから協力してほしいな。そのついでに、課題をやらない?」 「あの、でも俺ばっかり得していませんか? 課題教えてもらって、お菓子までいただいて……」 「そんなことないよ。君と話せるし、俺のほうが得してしまっているかもね」  俺が来やすいように、気を使ってくれたのか。そうまで言われてしまっては、この好意を断れない。 「じゃあ、よろしくお願いします!」  理学部4号館と書かれた建物。ここは数学コースの建物らしい。その5階にある三谷さんの研究室に到着した。 「お邪魔します」 「どうぞ、座って。飲み物いれるから少し待ってて」 「ありがとうございます」  真ん中に置かれた大きい机。そこにあるパイプ椅子に腰をかける。どうも落ち着かなくてキョロキョロと周りを見渡す。 (勢いで来ちゃったけど、何喋ればいいんだろ……気まずい……) 「えと、研究室広いですね」  沈黙を破るべく、備え付けの小さな水道とガスコンロの前に立ち、湯をわかしている三谷さんの背中に話しかける。 「数学コースの院生の部屋なんだけど、今は僕ひとりでね。ゆったり使わせてもらっているよ」 「へえ……」  奥の机にはパソコンが4台迎え合わせで並んでいる。元は4人用なのか。本棚もたくさんあるし、さらに奥には隣の部屋に続いていそうな扉も見える。確かにひとりじゃスペースを持て余しそうだ。  見渡していると、ファイルや本が詰められた棚の中に、腕におさまるサイズの黒猫のぬいぐるみがあった。 「あのぬいぐるみ、かわいいですね」  三谷さんは振り向き、俺の指さす方向を見て困ったように笑った。 「それは……作ったんだ」 「え、三谷さんが?」 「まあ……ね」 「へー!すごい! 近くで見てもいいですか?」  抱っこしてもいいよ、と言ってもらえたので棚まで近づいて手に持った。柔らかくて肌触りも心地いい。水色の宝石みたいな目も綺麗だ。 「すげーかわいい! 俺、裁縫とか全然できないので尊敬します!」 「すごいかな……?」 「すごいですよ! 売り物みたい!」  歯切れが悪かったが、やがて自然な微笑みになっていく。すごいすごいって同じ言葉連呼しすぎてバカっぽいって思われたかな。三谷さん大人っぽいし…… 「ふふ、可愛いね。ありがとう」 「……ははは」  やっぱバカっぽいって思われてるな。 「紅茶入ったよ。おいで」 「あ、はい」 「わ、これすっごい美味いです!」  三谷さんが備え付けの冷蔵庫から取り出したケーキの箱の中には、ミニシューが入っていた。けっこうたくさんの量だが、甘すぎず食べやすい味で、いくらでも食べれそうだ。紅茶もいいやつを入れてくれたのかな、美味しい。  箱に貼ってあるシールにケーキ屋の名前が書いてある。そういえばここのシュークリームが美味しいって、玲依に聞いたことあるような。 「尾瀬くんは美味しそうに食べるね」 「それよく言われるんですよね。自分ではわかんないですけど……あの、これほんとに全部食べていいんですか?」 「もちろん。君のために用意したんだから。でもそろそろ課題に手をつけないとね。食べながらやろっか」 「あ、忘れるところだった……はい、お願いします!」  机にプリントを広げると、正面に座っていた三谷さんは見やすいように俺の隣に座り直した。 「どこが分からないの?」 「……えと、言いづらいんですがほぼ全部……」  クスリと笑われる。 「いいよ。少しずつ順番にやっていこう」 * 「それで合ってるよ。そこにこの公式を使って……」 「はい……」 「これで完成」 「え、ほんとに? できた?んですかね?」 「うん、できてるよ」 「やったー! なんとか解けた!」  途中マジで公式の意味がわからなかったけど、すげえ丁寧に教えたくれたから、ギリギリ理解できた! これでようやく1問だ。あと9問もあるけど、三谷さんに教えてもらうならいけるかも! 「ねえ尾瀬くん。君、隙が多いってよく言われない?」 「え?」  突然声色が変わった。プリントから顔をあげると、三谷さんは微笑んでいた。目が、笑っていない。 「30分……そろそろ効いてくるころかな」  何が効いてくるのか。言葉の意味を考えているうちに、だんだんと視界が歪みだす。急にすごく眠い。目を開けていられない。頭もぐらぐらしてきて、机に突っ伏した。 「一目見たときから、君は僕の理想にぴったりだったよ。今までは遠くから見ているだけだったけど、ようやく近づくことができた。反応もいちいち可愛くて構ってあげたくなるんだよなあ。君は人に好意を抱かれやすい。なのに、そのことに自分自身で気づいていない。こんなに可愛らしいのに……危ないよ」  何を言っているんだこの人は。もう頭が回らない。三谷さんの手が頰をするりと撫でた。ここで気を失ったら絶対まずいのに、無理だ…… 「汚れた世界から、純粋な君を守ってあげる。僕だけの……」  俺の意識はそこで途切れ、最後の言葉は聞こえなかった。

ともだちにシェアしよう!