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理学部棟編 エピローグ①

 次の日。バイトに行った由宇は井ノ原と志倉に改めて頭を下げた。自分の無事を笑って喜んでくれた二人には頭が上がらなかった。七星の持っていたマスターキーは誰から預かったのか気になり、聞いたら志倉が長谷川教授からだと教えてくれた。長谷川教授にまで迷惑をかけてしまったと、由宇はその日16時までのバイト終わりに教授の研究室に向かった。  思わずアポ無しで来てしまったが、研究室の明かりはついている。ノックして教授の返事を待ち、ドアを開けると…… 「げっ!」  目の前には、昨日ぶりの三谷がにこにこと微笑んでいた。というか慈しむように見つめてくる。由宇は思いっきり苦い顔で後ずさったが、それより早く腕を掴まれた。 「な、な、なんで!?」 「やあ、尾瀬くん。君なら長谷川教授にお礼を言いに来ると思ってたよ」  ブンブン腕振っても全く離してくれる気配がない。 「こら、三谷くん」  お叱りの声が聞こえたと同時に、教授の膝の上にいたリリィが飛び込んできた。三谷の服に爪を引っ掛けながら登り、顔に張り付く。「ん"ぶっ」と鈍い声があがり、掴まれていた腕は離れた。 「執拗に尾瀬くんを追いかけ回すのはやめなさいと、ついさっき怒ったばかりだろう」 「教授っ……!!」  由宇は教授の助け舟に目を輝かせる。三谷を止められる人がいることがありがたい。  三谷はそのまましばらく固まり、やがてリリィの腹をそっと持って腕に抱いた。 「すみません、教授。やっぱり尾瀬くんを目の前にするとどうも自制がききませんね」 「まったく……」  邪魔をされたのに、三谷は腕に抱いたリリィに顔を近づけてなんだか嬉しそうに撫でている。一方、腕に抱かれたリリィはプニプニの肉球で三谷の頰を叩いていた。 「ふふ……尾瀬くんを諦めたから、リリィたんも僕に懐いてくれてね。可愛いなあ」 「懐いてます?」  引っ掻いてはいないから、リリィに揶揄われているだけだろうと納得したところで、由宇は本来の目的を思い出す。  教授の元まで駆け寄って頭を下げた。 「あの、教授! 昨日はご迷惑をおかけしました! マスターキー貸してくれたみたいで……ほんとにありがとうございました!」 「いやいや、私は何も。音石くんが必死で頭を下げて私を説得したんだ」 「七星が……」 「音石くんなりに精一杯、君を守ろうとしていた。あの子の気持ちは本物だよ。愛の伝え方は少々歪だが……そこも含めて音石くんなんだろう」  そのことは由宇も理解し始めていた。小学校のころのちょっかいから始まり、再会した途端に連れ去られて狂った愛をぶつけられ困惑してどう接していいのかわからなかった。しかし話す回数が増えるにつれて、頭がいいくせに感情表現が一方的で不器用なことや、自分への恋心が本気なこともわかった。  だからこそ今後も同じように接していいものか……  言葉に迷って沈黙していると、再び腕をがしりと掴まれた。 「教授、少し尾瀬くんとお話ししますね」 「ひいい……」  顔を引き攣らせる由宇と機嫌よく笑う三谷を交互に見た教授は息をつき、 「リリィちゃんが一緒ならよろしい。リリィちゃん、尾瀬くんが危なかったらよろしくね」 「にゃあ!」 「はぁ、いっきに信用がなくなってしまったな……自業自得だけど。さ、おいで尾瀬くん」  そのままずるずると由宇は保護猫の部屋へ連れ込まれる。お目付役のリリィは足元をついてきた。 「お、お話とは……」 「そんなに怯えないで。可愛くて唆られるから」 「うわ……」  青ざめる由宇を愛おしみながら、三谷は靴を脱いでしゃがみ、足もとに群がる猫たちを順番に撫でていく。昨日自分を幽閉しようとした恐ろしい人物と二人きりになっているが、猫たちの誘惑には逆らえず、由宇も靴を脱いで集まっている猫を撫でる。  そして三谷は突然切り出した。 「数学の課題の提出期限、明後日になってしまったね」  由宇は身を固めて数秒後、大きな声をあげた。猫たちもビクリと耳を立てて大きな瞳を見開いた。 「……あああっ!? 忘れてたぁ!」 「やっぱり。それが気がかりだったんだ」 「三谷さんがあんなことするから、忘れてたじゃないですか! いやここまで放置した俺も悪いけど、半分くらいは三谷さんのせいにします!」 「あ~~可愛い♡ 怒っても猫ちゃんがにゃんにゃんしているように見える♡」  それどころじゃないのに……!と、眉を吊り上げて三谷を睨みつける。くるくる変わる由宇の表情に胸を打たれ、ひとしきり悶えた三谷はやがて落ちつきを取り戻した。目を伏せ、正座をして肩を窄めた。 「君は僕を頼ってくれたのに、僕は自分の欲のことしか考えていなかった。騙すようなことをしてごめん。これでも本当に反省しているんだ。僕に聞くのはもう嫌だろうと思うし、代わりにななたんに教えてもらうのはどうかな」 「ええ……七星ですか……?」  全力で"嫌"を顔に貼り付けている由宇が可愛らしく、三谷はふふ、と笑う。 「ななたんは僕よりも頭が良いし適任だろう」 「そうだとしても……」 「僕は尾瀬くんとななたん単推し兼カプ推しだから。推しカプの幸せが僕の幸せ……っ!」 「何の話ですか!? あの、というかもう帰ってもいいですか?」 「帰っちゃうの? 残念だな……猫たちはもっと遊びたいみたいだけど」  話に区切りをつけて立ち上がったものの、群がる猫たちが由宇を見上げてにゃあにゃあと甘えている。うるうるの瞳に抗えず、結局ひとしきり遊ぶことになってしまった。それが由宇と少しでも長くいるための三谷の作戦だったとは、由宇は知るよしもない。  猫たちも満足し、部屋を出たところで再び三谷に呼び止められる。 「待って、もうひとつ」 「まだ何か……」 「これ、お詫びのプレゼント」  三谷は机の上に置いていた大きな紙袋を、早く帰りたそうにしている由宇に渡す。きょとんとして袋を覗き込むと、そこには高級そうな柄が描かれた長方形の缶ケースがあった。 「開けてほしいな。尾瀬くんの反応が見たいから」 「んな期待されても開けづらいんですが……」  とはいっても見たことない缶を目の前に、由宇の好奇心がくすぐられる。じろじろ観察されながらも缶の開け口を覆うテープを剥がして、蓋を開けた。  中はクッキーボックスだった。色とりどりのアイシングで飾られたクッキーがきちんと整列して並んでいる。きらきらと光る宝石箱のようだ。 「うわ……!!きれい! こんなの初めて見ました! ほんとに貰ってもいいんですか!?」 「もちろん。君のために買ったんだから」 「わー!ありがとうございます! 弟と一緒に食べますね!」 「ぜひぜひ。今度感想を聞かせてほしいな」  満面の笑みで由宇はペコリと礼をして研究室を後にした。 「はぁ……尾瀬くんの笑顔で白米いける……一生貢ぐ……尊い」  三谷は赤面しながら顔を覆い、由宇の煌めく笑顔に浸る。その姿に、教授はため息をついた。 「……餌付けするつもりだろう」 「バレました?」

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