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第11話

 お兄さんもいない。  誰もいない。  いや、そこじゃない。  何もない。  そこには、床も、壁も、何もかも。  ゾワりと全身の産毛が立つのがわかる。これが、悪寒というのかと思うほど。  これが、どれ程異常かという事が、頭の悪い俺でもわかる。 「……夢?」  何も見えない。そんな事、あり得ない。何の影も見えないのだから。  思わず、夢かと願い事の様にか細く呟けば、呟く側から何もない暗闇に吸い込まれていく。  まるで底なし沼。  昔テレビで見た、海の底の様に。  ただただ単純な恐怖が俺を後ろに下がらせる。  その時だ。  何が。  何かが背中に当たる。  そんな所に何も無かったはずなのに。 「人間の子供か?」  萎びた声が後ろから聞こえてきた。  お兄さんと俺しか居なかった部屋に。聞き覚えのない萎びた声が。  誰?  最早、そんな言葉すら喉の奥に引っかかって出てこない。  後ろを振り向けば、髭の長い随分と歳を取ったお爺さんが居る。  いつの間に?  先程までは俺一人だったはずなのに。 「ヘムロックの餌か?」  ヘム、ロック? お兄さんの、名前? 「何故、人間の子供がここに? どういう事だ?」  何を言っているんだ?  俺がいちゃ、駄目なの?  そんな簡単な言葉すらも、出てこない。  何故だろうか。  何故、こんなにも俺は怯えているんだ? 怖いんだ? この老人が何で? 「おい、小僧よ。何か言わぬか」 「っ!?」  伸ばされた手が、俺の首に食い込む。 「がっ!」 「何だ。はっきりと喋ってみよ。それとも、言葉も知らぬのか?」  どれだけもがいても、暴れても、小枝みたいな手の筈なのに離してくれない。 「……弱い。本当に、人間の子供か。あの低級淫魔の手先かと思ったが、当てが外れたな」 「があっ!」 「これだけの力で直ぐに死にかける。儚い事だな」  そう言うと、老人は俺を床に叩きつけた。 「ぐっ!」  漸く解き放たれた首を空気が必死に通っていく。 「あ、くっ! あ、アンタ、何なんだよっ!」  行成……っ。 「ふむ。貴様こそ、何者だ? ヘムロックの部屋に何故いる?」 「アンタこそ、いつの間に入ってきたんだよ!」 「貴様が招き入れてくれたではないか。我々は招き入れて貰えねば入れぬ。で、貴様は何者だ?」 「俺は……、お兄さんの犬だけど……」  招き入れた覚えなんてない。  何言ってんだ?  ヤバい、奴だよな? 急に襲いかかってくるし、さっきは絶対殺そうとした。 「犬ぅ? ヘムロックが? 何故?」 「何故って、俺も知らないしっ!」  老人は、俺をギロリと睨みつける。  何だよ。  また、殺す気か?  しかし、老人は俺の首にへは手を伸ばさずに、皺が降りた目を大きく見開いた。 「……まさか、月血の持ち主か?」 「月、血?」  何それ?  初めて聞く単語。テレビでも聞いた事がない。 「成る程。ならば納得だ。ヘムロックがわざわざ人間の、それも小僧を飼う理由に足りるっ!」 「痛っ!」  無理矢理、老人に頭を掴まれる。  信じられないぐらいの怪力だ。  そのまま、俺を持ち上げれるだなんて。 「ああっ! これが月血っ! 月血の人間っ! これが在れば、我々はあの悪魔に勝つ事が出来るっ!」 「離せっ! 離せよっ! 何を……っ!」  何とか逃げ出そうともがく中、俺は思わず手を止める。  だって……。 「アンタ、目が……」  金色に輝いていたはずの老人の目が、次第に赤く染まっていくのだから。  お兄さんと同じだ。  あの時のお兄さんと。 「ふむ。ヘムロックに啜られた痕はないさそうだな」 「お兄さんが?」  何を啜るって? 「貴様も喜ぶがいい。ヘムロックに啜られる前に我々に喰われる事を。あの悪魔は何も残さなければ、最も簡単にお前を苦痛の海を与え沈め尽くす。しかし、我々は餌にも寛容だ。痛みを与えん。直ぐに殺してやろうではないか。それに、感謝を!」 「何を……、何言ってんのか全然わかんねぇけど、お兄さんはそんな酷い事しねぇよっ!」  俺を殺さないと約束してくれた!  ビンタは痛いけど、ひどい事はなにもしなかった! 「お兄さんは……っ!」  お兄さんは……。 「俺に優しかったっ! お前らに感謝する事なんてなんもねぇよ!」  一緒に飯食ってくれなかったけど!  キスされたら知らんけど、突き飛ばされたけど!  それでもっ!  お兄さんは、優しかった!  犬とは言え、俺に居場所をくれた!  ビンタはするけど、本当に殺そうとなんてしなかったし、俺が気持ち悪いと思う事もしなかったし、心配もしてくれるし、頭なぜてくれるし……っ!  一緒にいて楽しかった!  産まれて初めて、人に優しくされた。  褒められた。  心配された。  一瞬一瞬、普通の人間みたいで幸せだって、思わせてくれたっ!  それを知らんクソジジイなんかに否定されてたまるかっ! 「煩いっ」 「んがっ!」  腹を殴られる。 「忌々しい。餌の分際で我らに何と言う口の効き方をするゴミだ。まるで、ヘムロックの様だっ!」  何度も何度も殴られ、胃の中の物が喉を通って戻っていく。  痛い。  気持ち悪い。 「ゴミが囲うのはゴミしかないっ!」  でも。 「うっ、せぇっ! アンタはその、ゴミ以下の癖にっ!」  その瞬間、俺は勢いよく壁に投げつけられる。 「が……っ!」  ヤベェ。頭、打った?  意識が段々と途切れていく。  俺、何でこう、啖呵切っちゃうと決まらないんだろうな。  もう、笑うしかない。  はは。  起きたら、お兄さん、帰ってきてないかな……。 「月血とは言え、餌の分際で我らを侮辱するとはっ! 何と忌々しいっ! ヘムロックに瓜二つではないかっ!」  老人はハチの頭を踏みつけ唾を吐く。 「チェスタロス卿、それぐらいに」  開いた玄関から、黒い手袋にサングラスを掛けた銀色の髪の男がぬるりと現れる。 「ロザンっ! これが落ち着いていられる物かっ! 我々を侮辱したのだぞ!? 此処で全ての血を出してくれるわっ!」 「しかし、月血の持ち主であれば、ここで血を流す事は良しとしません。ヘムロックに嗅ぎ付けられる」 「ロザンっ! 貴様までもあの若造に屈するのか!?」  チェスタロスと呼ばれた老人は声を荒げ、ロザンと呼ばれた銀髪の男に詰め寄った。 「まさか。その為に、こんな辺鄙な島国まで我らは出向いたのではないですか。あの化け物を退治する為には、我々は最新の注意を払う必要があるのです。それは、チェスタロス卿。貴方がよくお分かりですよね?」  何一つ表情を変えずに段々と話すロザンの赤い瞳が、チェスタロスの口を閉ざさせる。 「……お前がそこまで言うのならば……」 「流石、チェスタロス卿。素晴らしき考えでございます。それにしても、初めて月血を持つ人間を見ました。ただの伝説ではなかったのですね」 「……我々も初めて見る。しかし、これで合点が行くな」 「ふむ。それは何の?」 「ヘムロックの強さの理由だ。彼奴は、月血を独占しておったのだ。どうせ、この小僧だけではないだろうに。あの男は、我々には黙ってその血を貪り続けていたのだっ!」 「成る程。月血は我々の力を何倍にも増幅する力があるといいますからね。我等の王は、その為あれ程お強いと?」 「ああ! 出なければ、あり得ぬだろうっ! あの男一人に、我等の血盟五家、全てを滅ぼす事など……っ!」  チェスタロスの怒りは収まる事を知らずにロザンを睨みつける。  赤く染まった目は、紛れもなくロザンではなくヘムを写して憎しみを宿していた。 「あり得ぬ事だっ!」 「チェスタロス卿、お気持ち痛み入りますが……。まだ、終わった訳ではございません。血盟五家の血族は、まだ我々が残っております。チェスタロス卿のロゴフト家。我が一族ヴィルク家、メイディリアのヴィステール家。そして、ドーマ家当主がヘムロック公が」 「しかし、既に血盟五家であるスパーダルの血は途絶えておるっ!」 「まあまあ、チェスタロス卿。五家の一つなど、また我々が当主となれば作り上げれば良いのです。勿論、ドーマの血族も」  ロザンの口は三日月の様に支那って歪む。 「ヘムロックさえ、いなければ。我々にはその力があります故に」 「……そうだ。我等は、誇り高き血族……っ! この誇りが胸にある限り、我等血盟の誓いは滅びたりはせぬっ!」 「ええ。その通りでございます、チェスタロス卿っ! 皆、貴方様の有志に支えられて今日迄聞いております。どうか、暴君ヘムロックに裁きをっ! その為に、今はこの月血を持ち帰りましょう。残響はお任せを」 「……ふんっ。良かろう。残響はお前に任せる。我等はこの餌を持って先に戻る」 「ええ。お気を付けて」  ロザンは暗闇に姿を消すチェスタロスに手を振りながら見送った。  彼が完全に闇の中へ消えると、ロザンは周りを見渡し、首を捻りながらため息を吐く。 「ふぅ。頭の悪いゴミの相手は相変わらず疲れるよ」  しかし、それも些か時間の問題だろう。  夢見がちな老人は、己を過信するあまり聳える山を見上げる事すら出来ないようだ。  それでいい。  血盟五家など、遠の昔に使命を終えた悪しき旧体制。  ヘムロックが滅さなくても、時期に滅んでいた事だろうに。 「さーて。ヘムロック公は何処に隠してるかなぁ……。多少荒らしても、あの子供のせいに出来るし、今回の仕事、楽っちゃ楽だね」  ロザンは欠伸をしながら家探しを始める。  でも、多分何も出てこない。お目当てのものなど最初からないのだ。  全く。集団とは実に不自由な物だ。  哀れな老人達がデカい顔をして、全てを知っているかの様に唆す。  ヘムロックが何故我々の恐怖の上に立っているのか、受け止めようとも理解しようともしない。  心底イカれてる。 「それにしても、あの子供の方が気になるな……」  棚にしまってある絵本を見て、ロザンは目を細める。  月血の持ち主。  確かに、月血の持ち主ならばヘムロックが囲っているのはおかしくない。  おかしくは無いが、それがおかしい。  キッチンの戸棚を開ければ、調理器具に犬の餌箱。 「ヘムロックが?」  料理などあの男が出来るわけがない。  そもそも、料理を食べると言う必要が何もないだろうに。  そう考えると、どう見てもあの子供のためだと言う事は明白である。  絵本まで用意して。  あの男が? 「月血を啜れば、我等血族の力は月夜の様に巨大化する……」  ならば、啜れば済む話。  誰一人、近くに置く事を良しとしなかった男が、人間の子供をわざわざ手元に置く意味は何だ?  人間如きがヘムロック相手にリコリスの様に、利害関係が一致するわけもない。 「あの子供、何者なんだろう?」    月血以外に、何かあるのだろうか? 「……調べる必要、あるね?」  どうせ何も無いのだ。  違う物を調べても許されるだろう。  退屈な老人達の相手には飽き飽きして来たところなのだ。 「ん……?」  手足に違和感を覚えて俺は目を覚ます。  あれ? 俺……。 「ここ、何処……?」  お兄さんの部屋じゃない?  薄暗い光はぼんやりと何もない部屋を灯すが、見慣れたベッドも家具も何処にもない。  あれ?  そう言えば俺……。  はっと気付いて自分の頭に手を伸ばそうとするが、何かに引っ張られそれが叶わない事を知る。 「えっ!? 何っ!?」  何が!?  そう思って目を向ければ、俺の手は壁に拘束されている。  手だけじゃない足もだ。  一ミリも余裕なく、貼り付けられているじゃないか。 「……な、何で?」  そう言えば、あのクソジジイに吹っ飛ばされてからの記憶がない。  まさか、あの後、俺、攫われた感じ……? 「マジかよ……」  どれだけ力んでも手足の拘束が取れる事はない。  お兄さんの家に最初に連れてこられた時もマジかと思ったが、今ならお兄さんのロープの方がマシだと心底思う。 「……」  そして、この状況も。  漸く、この重大さに気付いた俺は、顔から血の気が引くのを感じた。  何故なら、俺の頭の中には最悪な結果しか描かれてないのだから。  それは、殺される事。  間違いなく、あの老人は俺を何の躊躇もなく殺せれる。  そして、殺す気が有り余ってる事も。  だが、今の俺は逃げる術すらない。  ヤバい、ヤバい、ヤバいっ!  このままは本当に殺されるっ!  けど、俺に何が出来る?  ゾワリと背筋が凍っていく。  だけど……。このまま怯えて泣くのはもっとヤバい。  それだけは、ヤバい。   「おや、起きたのか。小僧」 「……クソジジイっ!」  薄暗い光の中から、あの白髭の老人が現れる。 「口の聞き方には気を付けた方がいい。我々はあの男よりは気長だが、お前ら人間よりは随分と気が短いのだ」 「どうせ殺すなら一緒だろ!」 「何。そう怯えるな。直ぐには殺さん。月血を持つ者の血は貴重だからな。我々の協議の元、お前の血を吸い尽くす者を決めてから出ないと。新鮮味が落ちた血など犬の餌だ」  何を言ってるんだ?  血を飲む?  どんな健康法だよ。けど……。  このジジイにはいつ殺されてもおかしく無いのが、殺されない理由ができたって事でいいんだよな?  でも、多分、ここで心が折れてる事がバレたら事態は悪化するのは決まっている。  いつだってそうだ。  心が折れた所を見せれば、誰もがそれにつけ込んで手綱を付けようとする。  それだけは、回避しなきゃ! 「……だから、その月血って何だよ! 俺、月血なんて知らんのだけど?」 「ヘムロックから何も聞いておらんのか?」 「……何も聞いてないけど、お前らがお兄さんの敵だってのはわかる!」 「はは。敵? まさか。我々はヘムロックの同士だ。あの男が選んだ子供達だ」 「子供?」  そういえば、お兄さんは部下を子供と呼ぶんだっけ? 「そう。あの男の子供だよ。あの最悪の吸血鬼、ヘムロックのなっ!」  吸血鬼?  俺は信じられない者を見る様な目でジジイを見る。 「……はぁ? 何言ってんの?」  俺は思わず笑い出した。  だってそうだろ?  吸血鬼だって? 「吸血鬼なんて、架空の生き物じゃん。そんなもん、マジで信じてるの? ないわー」  流石に、頭がおかしいだろ。  しかも、お兄さんが吸血鬼?  あり得ない。  吸血鬼って、血を飲むんだろ?  俺、お兄さんが血を飲んでる姿なんて見た事ないし。  羽だって、マントだってしてないし。  棺桶じゃなくて俺の隣でデカいベッドで寝てるし。  タブレット使って仕事してたし。そんな吸血鬼いる?  あり得ない。 「ばっかじゃねぇーの?」  俺が吐き捨てると、ジジイは大きな口を開き笑い出した。 「なんともまあ、無知の塊か! ヘムロックが囲っていたと言うのに、何一つ知らんのか!」 「メルヘンジジイに笑われる筋合い、ねぇよ!」 「メルヘン? お前の頭がか? 良い。知らぬなら、今教えてやろう。人間を餌に生きる我らが上級種族を」 「……は? そんなもの……」  その瞬間だ。  俺はヒュッと喉を鳴らす。  見てはならないものを、見てしまった。 「見るが良い。我等血族を」  ジジイの背中から、メキメキと音が鳴り響き蝙蝠のような羽が生える。 「……え?」  長い赤い爪を出し、白色の髭が靡くとともに、萎れた肉体が、膨れあがり若返って行く。 「見よ! これが我等の血族。吸血鬼の姿をっ!」  そこにいたのは、白い髭の老人ではなかった。  白い髭を生やす恰幅の良い男が一人。  背中から蝙蝠のような羽が生えて、赤い長い爪を俺に向かって振り上げる。 「我等の名はチェスタロス。吸血鬼血盟五家の一つ、ロゴフトの長だっ!」  それは粉うことなき、化け物の姿だった。

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