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ベッテ(4)
「ベッテ……」
懐かしさと、少しの胸の痛みを感じながら、フランもベッテに手を伸ばそうとした。けれど、それをアマンダが止めた。
「フラン」
小さく首を振り、建物の角で大人しく待っている馬を視線で示す。すぐにここを立ち去りたいのだと、その表情が伝えていた。
「私がバカだったわ。店や屋敷に近づけば、誰かに会うに決まってるのに」
アマンダは低い声でそう囁いた。フランが王都にいることは、マットソンたちに知られてはいけないのだ。
フランはあと一歩のところに来ていたベッテに「ごめん」と謝った。
「僕、もう行かなくちゃ……」
「フラン、あんた今、どこにいるの?」
一歩の距離を保ったまま、ベッテが聞く。
「暗黒城から逃げたって噂は本当なの?」
何も言えずにいると、「その人は誰なの?」と、少し怯えたように囁いて、アマンダを見た。フランは「心配しないで」と笑ってみせ、それから少し真剣な顔になってベッテに頼んだ。
「ベッテ、ここで僕に会ったこと、誰にも言わないで」
「どうして?」
「どうしても。お願いだから、約束して」
ベッテは心配そうに眉を寄せた。フランは「大丈夫」と頷いてみせる。
「大丈夫だから。僕、とてもよくしてもらってる」
フランの服や健康そうな肌を確かめるようにゆっくりと眺め、ベッテは「わかったわ」と頷いた。
「本当に、辛い思いはしてないのね?」
「うん」
よかった、と微笑むベッテをフランは泣きそうな気持ちで見つめた。
(ベッテ……)
みんなから虐められているフランを、ベッテはいつも気にかけてくれた。自分も立場が弱いから十分に庇ってやれない、でも泣かないでと頭を撫でてくれて、時々ごめんねとまで言ってくれて……。
フランよりまともな服を着て、給金も食事もきちんと与えられていたベッテを、フランはずっと、しっかりしたお姉さんだと思って頼っていた。けれど……。
(こんなに小さかったの……?)
黒いメイド服はきちんとしているように見えて、ところどころ擦り切れている。編んだだけの髪には艶がなく、身体は痩せていて、顔色も悪い。
フランが十歳の時に、十六歳で奉公に出されてマットソンの屋敷にやってきたベッテは、今年の秋祭りで二十二歳になるはずだ。アマンダやエミリアとそう変わらない年頃なのだ。
貴族と平民が違う服装をしているのは仕方ないとわかっていても、フランはやりきれないような気持ちになった。胸が塞がれる気がした。
ベッテが、ふいに何かを思い出したように「あ」と呟いた。
「そうだ、フラン。あんたに渡したいものがあるんだけど……」
「渡したいもの?」
「旦那様は捨てろって言ったんだけど……」
フランの寝床があった屋根裏の一角に、手のひらに収まるほどの小さい箱が一つ残っていたらしい。中には紙切れが数枚入っているだけで、特に価値はなさそうだったけれど、フランの母親が遺したものだと古い女中のドロテーアおばあさんが言っていたのだという。
「だから、いつか会えたら渡してやりたいと思ってて……」
マットソンには内緒で、こっそり取ってあるのだと言った。
「あたし、今から屋敷に戻るけど、一緒に来る?」
アマンダが小さく「フラン」と囁く。フランはアマンダの顔を見ずに、「ごめん」と言って首を振った。
「今日は、もう行かなくちゃいけないんだ」
「そう……。でも、王都にいるなら、いつか取りに来てね。旦那様やヤーコプに見つかると取られちゃうかもしれないから、なるべく早く渡したいの。今日みたいに、あたしがお使いに出た時に渡せるといいんだけど……」
毎週、木曜日は店の休憩室を掃除しに来る。もし、寄れそうなら、来週の今くらいに、こっそり覗いてみてほしいと言った。
アマンダが「ごめんなさい」と口を開いた。
「フランは、今日、王都を発つの。しばらくここへは来れないと思うわ」
「あ、そうなんですか……」
アマンダに話しかけられたベッテは、気後れしたように一歩下がって「それじゃあ」とフランに笑いかけた。
「もし、また戻ってくることがあったら、箱のこと、思い出してね」
「うん」
「あたしも、もう行かなくちゃ……」
帰りが遅くなるとヤーコプに文句を言われると言って肩をすくめる。
「じゃあ、元気でね」
「うん。ベッテも……」
アマンダが「フランに会ったことは、くれぐれも人に言わないでくださいね」と念を押した。
ベッテは不安そうにアマンダを見つめ、けれど、すぐに「わかりました」と言って丁寧に頭を下げ、背中を向けると、少し急ぎ足になって去っていった。
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