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逢瀬(1)

 屋敷の中にいるなら自由にしていていいとアマンダが言うので、エミリアにもらった本を抱えて、フランは一度自分の部屋に戻った。ヘーグマン邸に滞在する間使うようにと与えられた立派過ぎる客用寝室である。  大きくてふかふかのベッドと彫刻のある書き物机、模様入りの布が張られた椅子とカウチ、お茶を飲むためのテーブルまである。鏡の前のチェストの中にはフランの持ち物が整理されていた。  シャベルと石板と石筆が一番上の抽斗(ひきだし)に、二番目にはシャツや下着類、三番目と四番目は空っぽで、ステファンがくれた三組の服は別室になっているクローゼットに掛けてあった。朝になるとヘーグマン邸の侍女をしている女の人がそこから服を持ってきて、フランに着せようとした。フランは慌てて、自分でできると断ったのだった。  チェストの上に本を置いて、部屋を見回す。ステファンの城では自分の部屋は自分で掃除していたフランは、本を読む前に掃除をしてしまおうと考えた。掃除道具のある場所を教えてもらおうと、部屋を出て階下にあるノイマン夫人の部屋に向かう。  けれど、ノイマン夫人は「掃除はハウスメイドの仕事ですよ」と言って笑った。 「彼女たちの仕事を奪ってはいけません」  フランはステファンの身内として滞在しているのだから、それなりに扱われていなければいけないと言う。それがフレドリカのためなのだと。  フレドリカからも同じようなことを言われたので、そういうものなのかとフランは諦めた。 「掃除の邪魔になるのが嫌なら、しばらく居間か図書室にいるといいわ」  エミリアは書斎にこもることが多いが、フレドリカはたいてい居間で刺繍をしたり読書をしたりして過ごしている。一人のほうがよければ図書室に行けばいいと教えてくれた。  どの部屋も自由に出入りして構わないと言われていたが、フランは一応居間を覗いてフレドリカに図書室で本を読んでいてもいいかと聞いた。フレドリカはもちろん構わないと微笑んだ。アマンダも居間に入ってきて、フレドリカの近くに腰を下ろしながら軽く頷いていた。  エミリアの本を取りに戻ろうかとも思ったが、この時間はきっと階下にいるほうが邪魔にならないのだろうと考えて、そのまま図書室に向かった。  ヘーグマン邸の図書室は家族向けの部屋といった趣で、子どもでも読みやすい本がたくさん置いてあった。難しい本はエミリアの書斎に集めてあるようだった。  普段はステファンがそばにいて、わからない言葉があれば教えてくれる。だからフランは少し難しい本でも読めるようになっていた。けれど、今は一人なので、絵本よりは文字の多い子ども向けの本をいくつか選んで椅子に腰かけた。  本を読んでいる間は寂しさを忘れていられる。そう思って文字を追っていくけれど、ふとした拍子にステファンを思い出すと、やはり会いたくなってしまうのだった。  悪い魔女やよい魔法使い、その他にも魔法が出てくる話は多くて、そのたびにステファンを思い出す。森や山が出てくれば黒の離宮を思い出すし、アイスクリーム屋さんが出てきても服の仕立屋さんが出てきてもステファンを思い出した。花や薬や笛や石板、勉強の場面や食事の場面、誰かが誰かの髪を撫でる仕草を描いた場面、全部がステファンを思い出させた。  しまいには、書き物用に置かれたインクの黒にもステファンの瞳を思い出して、急に寂しくなってしまうのだった。 (いつ来てくれるかな……)  まだ、たったの二日目だ。ちゃんとわかっている。それでも、寂しかった。  フレドリカたちと昼食を済ませ、午後にはお茶に呼ばれて甘い菓子を一緒に食べた。夕方になると、晩餐の席に着く。お腹を空かせることなど決してない生活。  たくさんの燭台に照らされた明るい食卓には、昔のフランには想像もつかなかったような美味しい料理が何皿も並んでいる。着るものも座る椅子も全部が上等で、誰もフランを叱らない。みんな優しく笑ってくれる。何も不満などないはずだった。  なのに、気を抜くと黙ってうつむいてしまいそうになる。  笑っていなくてはと思うのに、泣きそうになってしまう。それを我慢するのが大変だった。  それでも、どうにか二日目が終わった。アマンダは一週間もすればステファンからの返事が来るだろうと言っていた。 (あと五日……)  今夜もステファンの匂いを嗅いで眠ろう。そうしたら、明日になる。明日が過ぎればあと四日になる。  そう思いながら部屋に戻ったフランは、ドアを開けたところで足を止めた。枕の間に隠しておいたはずのステファンのシャツが、きちんと畳まれてベッドの上に置かれているのが見えたからだ。  急いで駆け寄って匂いを嗅ぐ。 「あ……」  シャツからは石鹸の匂いしかしなかった。 (そんな……) 「ステファン……」  恋しい名前を口にしたとたん、我慢していた涙が青い瞳から溢れだした。涙は頬を伝ってポロポロと零れ落ち、洗濯したばかりの白いシャツをみるみる濡らしていった。

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