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逢瀬(2)
ステファンの匂いがしなくなったシャツを抱えてしくしく泣いていると、バルコニーに面した格子入りのテラス窓をコツコツ叩く音がした。
天井の高い貴族の館のこと、広い庭を前にした二階のバルコニーはとても人が登れるような場所にはない。木の枝もなく風もないのに、いったい何が当たっているのだろうと顔を上げると、硝子の向こうに背の高い人影が立っているのが目に入った。
「あ……」
あまりに恋しすぎて幻を見てしまったのかと、一瞬思った。けれど、むすっとしていても綺麗に整った顔も長い黒髪も、ランプの灯りにはっきりと映し出されている。
長い指がコツコツと硝子を叩いている。
フランは慌てて窓際に飛んでいった。落とし錠を外してテラス窓を開くと、バルコニーに立っているステファンに飛びつくようにしがみついた。
「ステファン!」
フランを受け止めたステファンが軽く笑う。けれど、フランの顔を覗き込むと眉をひそめた。
「泣いていたのか」
フランは首を振った。本当は泣いていたけれど、今はステファンが来てくれたことが嬉しくて、ほんの数秒前の悲しさもどこかに消え去っていた。
広い胸に頬を押し当て、すうっと息を吸いこむ。薬品やインクの匂いに混じってステファンの身体の匂いがした。日向の土や森の草地を思い出させる香ばしい匂いだ。フランの大好きな匂い。
髪を撫でながらステファンがまた笑った。
「フラン、いつまでここにいるんだ」
「え?」
「中に入れてくれないのか」
フランは慌ててステファンの胸から顔を上げた。服の裾をちょっと摘まんで「どうぞ」と部屋に導く。ランプに照らされた明るい室内を眺めたステファンは、軽く目を細めた。
「懐かしいな」
子どもの頃、何度かヘーグマン邸を訪れたことがある。その際に使ったのがいつもこの部屋だったのだと口元を緩めた。
「そうだったんだ……」
子ども時代のこととはいえ、王族であるステファンが泊まる部屋だったのだ。立派なはずである。
しかし、ベッドの上でくしゃくしゃになっているシャツを見ると、ステファンは少し困ったような顔をした。
「手紙を読んだ」
「僕、ちゃんと書けてた?」
「ああ」
嬉しくなって、えへへと笑う。涙の痕が残る頬が少し引きつれたけれど気にしなかった。
ステファンは「フラン……」と名前を呼ぶと、ふいに強く抱きしめた。金色の髪にしばらく鼻を埋め、髪や背中を何度か撫でている。額に軽く口づけ、次にフランの顔を上げさせて唇にもキスを落とした。
驚いて見上げると、もう一度、今度は長くて深いキスが与えられた。
「ん……」
ステファンの服をぎゅっと掴んで口づけに応える。フランの中から再び切ない気持ちがこみあげてきて、涙が睫毛を濡らした。
(ステファン、会いたかった……)
たった二日。けれど、本当に寂しかったのだ。もう決して離れたくないと思う。
しかし、連れて帰ってくれるのかと聞いたフランに、ステファンはまだしばらくここに留まってほしいと言った。
「人を探している。急いで探す必要がある。レンナルトにも手伝ってもらわなければならない」
神官たちがその人物の存在に気づく前に、探さなければならないのだとステファンは言った。その間、フランを城に残しておくことはできない。連れて行くわけにもいかない。だから、あと少しの間、ヘーグマン邸にいてくれと続けた。
大きな青い目が潤むのを見て、ステファンが静かに告げる。
「おまえに何かあったら……」
魔力を抑制しているのは、理性だ。感情を抑えきれないようなことが起きれば、自分でも何をするかわからない。それが怖いのだと囁くように言った。
「おまえは、俺の最大の弱点になる。いずれ、奴らもそれに気づく」
はっきりとではないかもしれない。それでも、その可能性には気づくだろうし、利用するためにフランを捕らえるには十分な理由になる。だから、フランは常に安全な場所に置いておきたいのだと言った。
「いつまで……?」
「アマンダの手紙で、探すべき相手がわかった。あと少しだ」
待てるか? と聞かれて唇を噛んだ。ベッドの上のシャツに視線を向け、匂いの消えたそれを思って顔を歪める。
泣きそうになるのを我慢していたフランは、ふいに思い立ってステファンの服に触れた。きっちりした造りのジレをじっと見つめ、覚えた手順でボタンをはずしてゆく。
「フラン……?」
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