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J&M商会

 ニュー・オックスフォード・ストリートに本社を構えるJ&M商会は、ここ数年で急成長した貿易を主軸とする総合商社である。  五年前にロンドンの片隅で若者二人が始めた異国の家具雑貨の輸入会社は、年々商材と規模を拡大し、今では世界七ヵ国に十三支社を数えるまでになった。設立した当初は侯爵家の坊々の道楽と馬鹿にされていたが、今やジェイムズは立志伝中の人となりつつある。しかしその実態は、侯爵家の坊々が旅先で気に入るままに買っては本国に送りつけた大量のガラクタの処理に困り、数字に強い知人をまき込んでそれらを処分するための――つまりは売り払うための――会社を立ち上げただけの話だ。 「あんたのいい加減さが発端で自分の庭を荒らされたと知った日にゃ、老舗のライバル会社の奴ら、悔しさのあまり鼻血も尽きるだろうよ」  J&M商会の縁の下の力持ち、事務方を統括する共同経営者のマイケル・トムソンは、有能だが口の悪い男だった。  ジェイムズは世界を回って新規拠点の立ち上げ、仕入先と販路の開拓を担当、マイケルは本国に残って事業の基盤固めを担当。生まれも育ちも異なる二人だが、事業に関する歯車はぴたりと合い、J&M商会は順調に業績を伸ばしている。一癖も二癖もある変人だとお互いを斬り付け合う仲だが、それぞれの領域には一切口出しせず、全幅の信頼を置いているからだろう。 「黙って立ってりゃ、いかにもなお貴族様面のあんたは、金持ち連中向けのいい看板にもなるしな」  生まれるべくして貴族に生まれたような男なのに、ジェイムズは堅苦しい上流社会というものがまったく肌に合わない。表面上は進取の気風に富んでいるように見えて、根底では呆れるほどに保守的で黴臭い母国にも執着がない。ひとところに落ち着くことを好まず、新しい土地、見知らぬ地平で出会う人々、見たこともない品々を求めて放浪しているうちに月日は過ぎ、半分冗談で始めたような会社は英国でも屈指の商社になっていた。 「当分ロンドンにいるんだろうな、ジェイムズ」  滅多にその主を迎えることのない社長室の自席にどっかりと座り込んで、マイケルの報告を聞いているのかいないのか、珍しくジェイムズは黙り込んだままだ。  ここで「人の話を聞け!」と怒鳴るほどマイケルは短慮ではないし、二人の付き合いも短くはない。  仕事をしていないように見えて、実は洩らさず報告を聞いており、積まれた書類も素早く目を通して吟味し、必要であれば指示を飛ばす。それが一々適切で、時に突拍子がないと思えても結果的に奏功するあたり、ジェイムズの経営者としての手腕は一流だった。深考せずとも最適解を導く頭脳と勘所は、天才的と言っても差し支えない。誰もが認める敏腕社長ではあるが、仕事をしているように見えて興味のあることを追求しているに過ぎない問題児を社長に据えていることが、J&M商会の最大の泣きどころだった。  気がつくと根無し草のようにふらりと異国へ消えている社長を、今回こそロンドンに縛り付けておかなければ。  これまで幾度も辛酸を舐めてきた副社長の声は低く鋭く、鼻息は荒い。 「もう海外を飛び回ることもないだろう?あっちこっちと支社を立ち上げて、仕入も販売も活動網(ネットワーク)を確立して、これからは手堅く守る時期だ。これ以上手を広げても、手間が掛かるだけで大した実入りは見込めないぜ。このへんでいい加減腰を落ち着けろよ。てか落ち着け。落ち着いて、あんたが世界中に蒔いた種を刈り取るのに日々奔走してる俺を手伝え」  度重なる過去の逃走劇とその後の悲惨な尻拭いを思い出したのか、マイケルの顔は険しくなる一方だ。殺気すらにじませる副社長の勢いを、ハエを追い払うようにジェイムズは軽くいなした。 「言われるまでもなく、当分ロンドンにいるつもりだ」 「そりゃめでたいが…どういう風の吹き回しだ?」 「口説いてる相手に、持久戦に持ち込まれたんでね」  ――好機到来。  マイケルの眼がキラリと光る。  爵位も財産も厳格な長子相続制を取るこの国の貴族社会では、次男以下(ヤンガーサン)に一切の分け前はない。よって結婚相手としての魅力は薄く、社交界でも妙齢の令嬢には相手にされないことが多かった。そんな中、地位、血筋、容姿、財産と、その精神構造を除けば完璧な青年実業家であるジェイムズには、侯爵の三男坊であっても良家の息女との縁談が降るようにあった。しかし、一流の女優や歌手と浮名を流すことはあっても、基本的に彼が興味を持ち関係を持つのは自宅にお持ち帰りできる女であって、黴の生えた因習に凝り固まった上流階級の人間ではない。  堅苦しい道徳観で雁字搦めだったヴィクトリア女王の治世は三十年ほど前に終わったが、何せあのバア様はやたらと長生きだった。彼女の在位中に確立されてしまった重苦しい社会通念は、世が変わり国王も何人か変わった今も色濃く残っている。  それでも過去とまったく同じわけではない。それにジェイムズに常識は通用しない。彼がロンドンに留まってでも口説き落としたいと思う相手など、長い付き合いのマイケルが知る限り今まで一人もいなかった。彼の恋が見事成就した暁には、階級の差など鼻にも掛けないジェイムズが、彼女の出身を云々することなく身を固める可能性は高い。というか、固めて落ち着いてもらわなければ困る。  J&M商会全社員の生活がかかっている以上、マイケルとしてはジェイムズの恋を応援しないわけにはいかない。 「まあ、その(つら)と金があれば相手が落ちるのも時間の問題だろうよ。焦らずいけよ」  盛り立てるように肩を叩いて、マイケルはすかさず続ける。 「あのフラットも引き払って、どーんと屋敷の一軒でも買ったらどうだ。不動産探しは早く始めた方がいいんだぜ、何なら俺が探してやろうか。俺は有能な上に小回りも利くからな、条件通りの物件を見つけてやるよ。場所はどこがいい?チェルシーか?ケンジントンか?それとも郊外の広い城館(マナーハウス)か?」 「そんなものは実家で間に合っている」 「実家が立派だってあんたが主人じゃなきゃ意味がないだろ、二人の愛の巣だぞ…って、それなら二人で探すのが筋ってもんだな。こりゃ失礼しました。でも相談ならいつでも乗るぜ、何せ俺は有能で小回りが利く上に、親切な男だからな」  『愛の巣』という言葉にぴくりと反応したジェイムズに内心ほくそ笑み、手応えを掴みつつ今はこの辺りで切り上げる。珍しく焦れているところを下手に突(つつ)いて、火を噴く事態を招くのは得策ではない。  興味なさげに仕事の相棒の熱い忠告を聞き流していたジェイムズは、ふと壁に掛かった時計を見遣ると席を立った。 「昼食に出てくる」 「出るのはいいが帰って来いよ。久しぶりに出社したんだから、逃げるんじゃねえぞ…何だよ、その手籠(バスケット)は」 「今日の昼食だ」  中を覗き込むと、藤製のサンドウィッチ容器、リンゴ、チーズ、クラレットの瓶が行儀良く鎮座ましましている。 「昼間っからボルドーなんて飲んでんじゃねえよ、このお貴族野郎が。しかし妙な奴だな、弁当を持ってきたならここで食えばいいじゃねえか」 「誰が自分のために弁当を作るなどという面倒なことをするか」  いかにも心外と言わんばかりに、ジェイムズは片眉を跳ね上げた。 「話をしたいと言っても、仕事仕事でろくに時間も取れない。だから昼休みに勤め先近くで昼食を一緒にする以外、あいつに会う手段がないのだ。まったく忌々しい。そんな仕事はすぐに辞めて、私の元に来るのが一番いいのだと何故あいつにはわからない!」  ――おお、我が神よ。  マイケルはろくに信じてもいない神に心から感謝を捧げそうになった。  この馬鹿にもとうとう本気の相手ができて、やっとロンドンに落ち着くことになりそうです――。  本気も本気、大本命だ。標準から大きく逸脱しているにしろ、結局のところはお貴族様のジェイムズが、意中の相手に会うために手ずから弁当を作るなど! (その相手、絶対にモノにしてもらわなければJ&M商会の存亡に関わる!)  口にしたせいで憤懣に火がついたのか、足音も荒く部屋を出るジェイムズの背に、マイケルは努めて重々しい調子で声を掛けた。 「そういうことなら仕方がない。ジェイムズ、今日はもう戻らなくていいぞ」

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