7 / 21

ハイド・パークの昼食、あるいはデート(1)

 待ち合わせ場所はハイド・パーク。パーク・レーン沿いの、ザ・ジャロルズから一番近いベンチ。  秋の陽光に照らされた楢の並木は黄金に輝き、そこから降り注ぐ木漏れ日が、約束の場所をやさしく照らしている。  無理矢理約束させたにもかかわらず、律儀なレジナルドは約束の五分前に珈琲を詰めたポットを手にぴたりと現れる。相変わらずの監督生(プリフェクト)体質だとジェイムズは思う。  会社からハイド・パークまで歩いて三十分。歩くことは気にならないので、この程度の移動に車を使うことはない。時間に余裕を見て出てきたが、自然とジェイムズの歩調は速くなる。本来なら職場の事務室で過ごすところを、こちらが頼んで貴重な昼休みの中を出て来てもらっているのに、待たせるわけにはいかない。マイケルは口を開けば人のことを常識外れだの無礼の権化だのと罵るが、これぐらいのことはジェイムズにも考えつくのだ。  昼食を共にとる約束を取り付け、悪天の日以外はハイド・パークに日参してかれこれ二週間。  諦めるつもりはないが、レジナルドも大概頑固だ。  従僕(ヴァレット)になれという申し出を鼻先で叩き落とし、それでもレジナルドが昼食に付き合うことには渋々同意した時、彼が頷くのも時間の問題だとジェイムズは高を括っていた。提示した俸給は破格のその上をいくもので、勤務時間もホテルマンのそれより随分融通が利く。それにマイケルが何を言おうと、ロンドンに飽きたら理由をこじつけて英国を脱出し海外を気ままに放浪するつもりのジェイムズの暮らしは、ウィズリー時代にまだ見ぬ異国に夢を馳せて旅行記を読み漁っていたレジナルドには、魅力溢れるもののはずなのだ。  再会した時には名前も思い出せなかったジェイムズの脳味噌は今、レジナルドに関する記憶再生に絶好調だった。 (これほどの好条件はそうないのに、何故監督生はこうも頑強に拒むのだ?)  従僕として他人に仕えることに抵抗を感じているからではない、それはわかっている。  彼は黴臭い貴族の矜持などにしがみつく、旧い狭量な男ではない。その証拠に、実家の伯爵家が破産し離散しても、慌てず騒がず学を修め職を得て、誰にも寄り掛かることなく自分の足で立っている。世界の賓客を魅了する、一流ホテルのフロントマネージャーとして。  あらゆる客の要求に応え、最上級のサービスを提供することに仕事のやりがいを感じ満足を覚えると言い切った、一流の仕事人。その一流の男が、これまた一流である自分に仕えることを、至上の喜びと思わない訳がないのだ。  自分と一緒に来れば、隣りに立てば、同じ風景を見せてやれる。海の果て、遠い異国の地平さえも。それは若き日、レジナルドが強い憧れをもって語っていた世界だ。海外にいくつも支社を持つ商社の経営者であるジェイムズの目に狂いはない。レジナルドは自分の側にいるべきだ。  数日前にそう力説したところ、レジナルドは呆気に取られたように目を見開き、それからはんなりと笑って言った。 「君はある種の天才なんだね。ひらめきだけですべてを知り、行動できる。そして事業を成功させている。でも残念ながら凡百の身では、結論に至る理由、その経過がわからなければ動くことはできないんだよ」  面倒臭いことだ。だが周到にその『理由』を拵えなければ、今の仕事に誇りを持ち、また愛着を抱いている強敵を説き伏せることはできないだろう。持参した珈琲を注いでくれながら、レジナルドは理解に苦しむと言った風に問い掛けてきたのだ。 「何故わたしでなければならないんだ?新聞に広告を出せばいい。エリィほどではないにしろ、有能な従僕はたくさんいるよ」  これまでに何度もそうしてきた、しかし誰も勤めを全うできなかったのだと答えた。それはレジナルドに対する答えだ。  だが自分に対しては?  ――何故レジナルドでなければならないのか。  考えるまでもなくジェイムズの中では、レジナルドが側にいるのは当然のこととして確定済だ。空気がなければ生きていけないのと同じ、疑問を差し挟む余地もない。しかし敵を説得するためにも、少し掘り下げてみる必要があるかもしれない。  きっかけは、珈琲を入れる腕前だった。文句の付けどころのない、ぴたりとジェイムズの好みに合ったその風味もさることながら、給仕する所作の美しさも大変に気に入ったのだ。  それ以外にも、レジナルドについて好ましいと思っているところを挙げてみる。  眼に心地よい整った顔、しなやかな体つき、聞く者を癒す声、柔らかな微笑み。  ユーモアを解する知性と機知、美しい立ち居振る舞い、何者にも汚されない品格、慈母のような分け隔てのないやさしさ。  そして切り崩すことのできない芯の強さ。  好みではないところは何もない。  結論に辿り着き、己の間抜けさにジェイムズは舌打ちしたくなる。  思いつく、行動する、結果を出す。それで今まで問題なかったから、思いついた時点で自分の状態、感情を分析したことなどなかった。何かを手に入れるのに苦労したこともなかったから、それも仕方のないことなのだが。 (何故昔は気づかなかったんだ?)  気づかなかったわけではない。今も昔もレジナルドの美点は変わらず、少しも損なわれていない。ただあの頃は、あの状態が心地よかったのだ。  同級生、同寮生、問題児と監督生。悪童と聖母。  木漏れ日の中にきらきらと光るような、穏やかで温かいものに満ちた関係に身を浸していれば、それでよかった。 (だが、今は違う)  昨日見た光景が、ジェイムズの中に馴染みのない焦燥と飢餓を掻き立てる。  その前日に、仕事の都合で昼食を共にできないことをあらかじめレジナルドから聞かされていたジェイムズは、ふと自分が会社経営者であることを思い出し、久しぶりに顔を出すことにした。ニュー・オックスフォード・ストリートの本社は大英博物館から程近く、マイケルをからかってから暇潰しに行こうと思ったのだ。  昼前にフラットを出てハイド・パーク沿いを南下、すっかり日課となっている道程を歩く。空っぽのいつものベンチへ道路越しに視線を遣り、今日はレジナルドに会えないということをあらためて実感する。  思い立ったら即行動がモットーのジェイムズに、そもそも日課というものは存在しない。それがいつのまにか出来上がり、一日とはいえ途切れたことに違和感を感じる。そして、そんな自分の有り様に居心地の悪さを覚えた。 (何か物足りない気がするのは…あの珈琲に餌付けされたのか?)  文字通りの重役出勤の途中、気分転換にピカデリーのインド料理屋で昼食を取ることに決めた。好物の北部風煮込みを堪能し空腹が満たされたことで、レジナルドの不在で乱調気味の気分が多少晴れる。満足して店を出たところで、目に飛び込んできた光景にジェイムズは足を止めた。  大通りの向こう、ロンドンの最高級ホテルとして名高いザ・リッツの前に、レジナルドがいた。一人ではなく、身なりの良い長身の紳士と共に。  その男はレジナルドの腰に手を回すようにして彼を促し、二人の姿はホテルの中に消えた。 (私との約束を反古にして、何故あんな気障男と会っている!)  一瞬で頭が沸騰した。それでもザ・リッツに怒鳴り込んで肩を掴み詰問しなかったのは、レジナルドが男に向けていた微笑みが、仕事用のそれだったからだ。  自分には見せたことがない、慇懃さの中に明確に一線を引いてあちらとこちらを分けている壁。少なくともジェイムズは、あの壁の内側にいる。だがジェイムズが今いるところからレジナルドのやわらかい芯の部分まで、あとどれだけの壁があるのだろう。  誰が、どれだけの人間が、自分より前に、レジナルドに近いところに立っているのだろうか。  これまで、付き合っている相手の周囲に誰がいようと、気にしたことはなかった。他に男を作り、別れを告げられても何とも思わなかった。  でも今は駄目だ。  学生時代のような、ただの問題児と監督生の付き合いでは物足りない。ぬるま湯に浸るような心地よさでは満たされない。独り占めしたいと思っている、あの聖母の微笑みを。いつでも望む時にその姿を見て声を聞き、手を伸ばせば触れることができる距離、つまりは手元に置いておきたい。だからこそ自分はレジナルドを従僕にと望み、固執するのだ。  あのたおやかな笑顔の奥を知りたい。昼も夜も知り尽くしたい。  夜――思い掛けない熱が、体の奥からゆらりと鎌首をもたげる。レジナルドを求めて咆哮する。  もう迷うことはない。間違えることもない。  堂々と告げて、堂々と奪う。それが最良の二人の形だとジェイムズが決めた以上、レジナルドに選択肢はないのだ。

ともだちにシェアしよう!