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ハイド・パークの昼食、あるいはデート(2)

 珈琲碗(コーヒーカップ)、皿、銀器類とナプキン、それにワイングラスをそれぞれ二組。  食堂から拝借したそれらをティータオルで包み、水の瓶、珈琲の詰まったポットと共に手籠(バスケット)の中に並べる。ここ最近で日課となってしまった昼の準備だ。  もう一度手籠の中を確認すると、レジナルドは事務室に顔を出し、先に昼を済ませて戻った宿泊支配人に声を掛けた。 「では昼休みをいただきます」 「今日もデートかね、随分とお熱いようだが」  レジナルドの新しい日課を、久しぶりに再会した同窓生と旧交を温める微笑ましい交流だと思っているアンソニーは、茶化して訊ねる。 「だといいんですが。残念ながら、だだっ子の子守ですよ」  苦笑して、レジナルドはザ・ジャロルズの通用口を出た。  時間に正確であることは、ホテルマンの基本として骨の髄まで叩き込んでいる。賓客相手だろうがだだっ子相手だろうが、レジナルドの体内時計は変わらず正確に時を刻むが、ジェイムズもまた計ったように時間通りに約束の場所へ現れる。気ままに好き勝手に行動する印象が強いので、その常識人ぶりを最初は意外に思ったが、考えてみればジェイムズは一流商社の社長なのだ。取引先と接する機会の多い経営者であれば、それも当然のことだろう。  苦労人の副社長が知ったら唾を飛ばして口汚く反論するようなことを考えつつ、パーク・レーンを渡り、いつものベンチに目を遣ると、ジェイムズは先に来て腰掛けていた。手にした(ステッキ)を足の間に立て、伸ばした両手で支える姿勢がいかにも偉そうだ。  黄金の木漏れ日の中、明らかに上流階級の身なりの良い紳士が、微動だにせず玉座に座るような威圧感を撒き散らしながら、公園の木のベンチに鎮座ましましている――その横に弁当入りの手籠を置いて。  昼下がりの公園、そのベンチのまわりだけ、空気が渦を巻き歪んでいるように見える。 「無理を言って呼び出すのだから、昼食はこちらで用意する。だがもちろん監督生(プリフェクト)は珈琲を持参してくれたまえよ」  男二人の不毛なピクニックに同意した時にそう言われ、昼食としてジェイムズが何を持ってくるのかわからないながらも珈琲と水、そして食器類を携えて出向いた初日。  右手に杖、左手に庶民が使う買い物籠を持ち、赤絨毯を進むがごとくこちらへ近づいてくるジェイムズを見て、冗談ではなく一瞬目眩がしたものだ。  ――銀の(スプーン)を咥えて生まれてきたような男の手に、買い物籠!  しかもその中味がお手製のサンドウィッチだと知った時、レジナルドは殆ど気絶せんばかりに驚いた。 (やんごとない生まれの君が、どうしてこんなことまでできるんだ、ジェイムズ…)  なるほど彼には従僕(ヴァレット)が必要だ、と妙に納得したものだ。手製の弁当を携えて王者のように、しかしいそいそとやって来るジェイムズは、善良な一般市民にとって視覚の暴力以外の何物でもない。  今日も今日とて場違いなオーラを撒き散らしているジェイムズの姿に内心ため息をつきながら、レジナルドは片手を上げて挨拶した。 「やあ、ジェイムズ」 「秒針レベルで時間通りだな、監督生」  眩しいものを見るように目を細めて応えるジェイムズに、肩を竦めてみせる。 「でも君を待たせたみたいだ」 「監督生に会うためなら、十年百年待たされてもかまわない」 「…それはどうも」  隣りに座ったところを覗き込むように囁かれて、一瞬言葉に詰まる。その言動で周囲を絶句させるのはジェイムズの得意とするところだが、今日のそれは今までと微妙に違うような気がする――いや、明らかに違う。 「…ジェイムズ、その、わたしの顔に何かついているのかな?」  ひたりと視線を据えたまま見つめてくるジェイムズに、居心地の悪さを堪えきれずに訊ねた。無言のまま、何かを確認するように右手で頬を包まれ、やはり塵でもついていたのかと肩の力を抜いたところで、 「この麗しい顔で私の目を釘付けにしておきながら、自覚がないとは罪作りなことだ」 「ジェイムズ!」 目を細めて耳元に吹き込まれた囁きのあまりの威力に、レジナルドは悲鳴を上げた。 「わたしが悪かった!…って何が悪いのかわからないが、とにかく謝る。謝るから、そのふざけた物言いは頼むからやめてくれ」  鳥肌を立てながら訴える。  おかしい。絶対におかしい。  そもそもジェイムズは常識で計れる男ではないが、それにしても今日の彼は常軌を逸している。もう随分涼しいのに嫌な汗をかきながら、警戒を隠せず身構えていると、ふいに視線を外してジェイムズは言った。 「…では昼食にするか、腹が空いているだろう」  自分の手籠から二人分の弁当を取り出すジェイムズに、レジナルドも急いで食器を並べた。とりあえず何か口に入っていれば、喋ることはできない。手っ取り早く口を封じ、食事を済ませて、可及的速やかに自陣へ退却するのが肝要だ。 (一体どうしたんだ、今日のジェイムズは…何か悪いものでも食べたのか?)  何にせよ猛獣使い(エリオット)ではない凡人の身では、どう足掻いたところで手に余る。   戦々恐々としながらクラレットの栓を開け、グラスに注いでジェイムズに手渡す。礼を言って受け取ったジェイムズはサンドウィッチを皿に取り分け、チーズとリンゴを添えてレジナルドに差し出した。 「…ありがとう」 「どういたしまして」  優雅な仕草でワイングラスを手にする様は、いつもと変わらない貴族のそれだ。だが気は抜けない。それとなく目を遣りつつ自分のグラスに水を満たし、クラレットを飲まない代わりに珈琲も(カップ)に注いだ。  受け取ったサンドウィッチを口に運べば、相変わらずの美味だ。だが、なかなか喉を通らない。緊張で口の中が乾いているせいだ。グラスに手を伸ばし水で喉を湿らせていると、それまで黙っていたジェイムズが声を掛けてくる。 「さっきから落ち着かないようだが?」 (誰のせいだ、誰の!)  詰め寄りたいのをぐっと堪え、何事もないように答える。 「気のせいじゃないか?」 「こちらを窺っているようだが…私に見惚れているなら、好きなだけそうするといい」 「ぐっ…!!」  液体であるはずの水が固体となって喉に詰まった。どうにか飲み込んだが、派手に咳き込んでしまう。  涙を浮かべて苦しい呼吸を繰り返すレジナルドの背中を撫でてやりながら、諸悪の根源はしみじみとその感想を述べた。 「相変わらず随分と細いな、監督生。もう少し肉を付けないと、抱き心地が悪そうだ」 「ジェイムズ!!」 「これも駄目か、監督生の気に入るように話すのは難しい」  やれやれと肩を竦めるジェイムズが、母語を話す異星人に見えてくる。一昨日までは普通に会話していたのに、突然意思の疎通ができなくなってしまった。  ――そう、一昨日までは普通だったのだ。 「今日はロックフォールにしてみた。口に合うといいが」  硬直したまま動けずにいるレジナルドを気にもせず、英国人風異星人は呑気にチーズを勧めてくる。 「スティルトンが好きだと言っていただろう?きっと気に入る。勤務中でクラレットを飲めないのは残念だが…今度休みの時に食事に行こう。上質のチーズを出す店を知っている」 「ジェイムズ」  レジナルドは意を決してジェイムズを遮った。 「単刀直入に聞く。昨日、一体何があったんだ?」 「それはこちらが聞きたいことだ」  穏やかな顔つきでチーズやらチーズの美味い店やらについて話していたジェイムズは、突然表情を険しくすると、地雷を踏んでしまったらしいレジナルドを睨み上げた。心の奥底まで探るようなその眼差しは、偽りを許さない鋭さに満ちている。 「ザ・ジャロルズに勤める君が、何故ライバルであるザ・リッツなどにいた」 「なんだ、君も来ていたのか。声を掛けてくれればよかったのに」 「声を掛けてもよかったのか?」  皮肉な声の調子に不快感を覚えたが、相手は異星人なのだからと自分を抑える。 「もちろんだ。昨日は同業者の会合があって出向いただけだ」 「一緒にいた男は誰だ」 「うちのお客様だよ。たまたま取引先とザ・リッツでお会いになる約束があるからといって、ご一緒したんだ」 「本当にたまたまだったのか怪しいものだな」 「…さっきから何を言いたいんだ、ジェイムズ」  手にしたグラスをベンチに置き、相手が異星人だということもとりあえず横に置いて、レジナルドはジェイムズに向き直った。 「今日の君は何だかおかしい。言わなくていいことを言うし、言うべきことを言わない。一体どうしたというんだ、まったく君らしくないよ」 「ではご希望通り、私らしく言うべきことを言い、すべきことをしよう」  言うなりジェイムズはレジナルドの手を取り捧げ持つと、唇を寄せた。  恭しく触れるだけの口づけ。  次には歯を立て、痛みを与える愛咬。  そしてその痕を癒すように肉厚の舌が舐め、吸い上げる。  ――目の前で起こった出来事を、脳が理解することを拒否している。  身を竦ませて目の前で起こった信じ難い光景を凝視するしかなかったレジナルドは、しかし己を取り戻した時、手を振り払い怒りに声を低くして絞り出すように詰問した。 「…冗談にしては度が過ぎると思わないか」 「冗談ではないし度が過ぎているとも思わない。私の決意を伝える手段としては、むしろ穏便すぎるくらいだ」 「君の決意?」  ろくなものではあるまいと訝しむレジナルドの予想は、悲しいまでに当たった。 「君は前に私を『ある種の天才』と言ったな。その天才がすべての状況を鑑み分析し導いた、考え得る最良の未来を教えよう」 「何のことだ?」 「恋に落ちたまえ、私と」 「…は?」  立ちこめた怒りを一掃する、値千金の爆弾発言。  張りつめた気を挫かれた時点で、この場でのレジナルドの敗北は確定したも同然だった。 「あらかじめ言っておくが、君に拒否権はない。嫌だと言っても引きずり込んでやる、この私に。それが私の決意だ」 「…それのどこが最良の未来なのか、まったく理解できないんだが」 「天才の思考を理解しろとは言わない。だが私を本気にさせたツケは払ってもらうぞ、監督生」  底光りする眼を眇めてレジナルドを見据えるジェイムズは、獣。貴族の優雅さの中に隠し持った牙を剥き、今にも獲物に飛びかからんばかりに飢えた野生の獣が、ジェイムズの双眼の奥にうずくまってこちらを見ているような錯覚に陥り混乱する。  しかしレジナルドには獲物に選ばれる理由がない。ツケと言われても、その心当たりもないのだ。 「ツケって、一体…」 「君は私から、芽生えてもいなかった恋情を根こそぎ奪った。嵐のように、テロリストのように。だから私も同じものを同じようにもらう。私の辞書に『諦める』などという惨めな言葉はない。よって君に逃げ道はない」  畳み掛けるようにお得意の唯我独尊三段論法で反論を封じ、言いたいことがありすぎて声も出ないレジナルドに強烈な流し目を送ると、ワイングラス片手にジェイムズは不敵な笑みを――ウィズリーの悪童時代と変わらない笑みを浮かべ、傲慢に言い放った。 「無駄な抵抗はせず、とっとと私へ落ちてくることだ」

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