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人型の災厄(1)

「どうかしたのかね、レジナルド。具合でも悪いのか?」  そっと声を掛けられて顔を上げると、アンソニーが心配そうにこちらを見ていた。 「午後はずっと浮かない顔をしていたようだが…」 「心配を掛けてすみません、アンソニー。少し疲れているようです。――でもそれが顔に出るようでは、私もまだまだということですね」  一日の業務報告を終え帰り支度をしていたアンソニーは、ずっと声を掛けるタイミングを見計らっていたようだ。内心の動揺を押し隠し苦笑したレジナルドを、気遣うように続ける。 「そういえば君は、今まで長期の休みを取ることもなく、働き通しだったな。君に甘え過ぎてしまった私の責任だが…。今はそう忙しい時期でもないし、寒くなる前に休みを取ってしばらく気分転換でもしたらどうだね」 「お気遣いはありがたいのですが、心配には及びませんよ。一晩ぐっすり眠れば、疲れも取れるでしょう。――では、また明日」  まだ何か言いたそうなアンソニーを事務室に残し、通用階段を下りて地下階の自室へ向かう。廊下の突き当たり、パーク・レーンに面した南端の小部屋を住居に定めて以来、毎日通っている短い通勤路だ。目を閉じても歩けるほど慣れた廊下が、今日に限って大変な難路に感じられる。  理由はわかっている。 (ジェイムズ…一体どうしてしまったんだ?)  もともと型破りな男ではあった。他人の思惑などまったく意に介さず我が道を行く型(タイプ)の人間であることも知っていた。学生時代、その突拍子もない言動に振り回されたことは何度もある。  だが今回は、彼の奇矯な言動に慣れたレジナルドにとっても青天の霹靂だった。  敏腕フロントマネージャーとして、時に非常識な客の要求も誘いも動じることなく捌いてきた実績、それに支えられた自負がまるで役に立たない。どこから手をつけてこの問題に対処すればいいのか、それさえも思い浮かばない。  正直、心底途方に暮れていた。  自室へ辿り着き着替えを済ませると、崩れるようにベッドに倒れ込む。 (…今日は、本当に、疲れた…)  超弩級の爆弾発言の後。  気がつけば、手籠を提げザ・ジャロルズに戻っていた。どうやって帰り着いたのか記憶にないが、食器類がすべて手籠内に揃っていたところをみると、日課として植え付けられた行動様式が脊髄反射したらしい。それに叩き込まれた職業意識とはすごいもので、職場に戻れば自然に背筋は通り、何事もなかったように仕事に集中していた。  それでも突如抱え込むことになった厄介事への不安がにじみ出てしまったのだろう。人の好い上司に気を遣わせるような失態を演じてしまったことが、仕事至上主義のレジナルドの誇りを傷つける。  従僕(ヴァレット)として働いていた頃も、学生の腰掛け仕事と口さがない同業者に陰口を叩かれることがあっても、勤めを疎かにしたことは一度もなかった。一日単位で従僕を雇う顧客は、体面を保ちたい没落貴族、上流階級を気取りたい新興富裕層や外国人が殆どだ。一日限りの雇用主達は生まれも懐具合も千差万別、しかし皆レジナルドのいかにも従僕然とした落ち着いた物腰を気に入り、必要な時は紹介所を通して何度も指名してくれた。気前の良い何人かのお得意様は、仕事中に着るようにと手渡したスーツをそのままプレゼントしてくれたりもした。  エリオットに会ったのも、従僕として雇用主に随行した夜会の会場、ロンドンの外れに建つ城館の召使部屋だ。その若さゆえに自分同様に浮いていた彼に、ウィズリーの監督生時代を思い出しレジナルドから声を掛けた。幼さの残る可愛らしい顔にわずかばかりの驚きをにじませ、はにかむように返事をしたのが印象に残っている。  夜会好きらしいエリオットの主人のおかげで、その後もちょくちょく顔を合わせる機会があった。少しずつお互いの話もするようになり、まだ十五、六だった彼の仕事に対する姿勢に感銘を受け、仕事に一層力が入るようになったのもこの頃だ。  しかし大学を卒業し、従僕という仕事に愛着を感じつつも選んだのは、従僕とは似て非なるホテルマンとしての道だった。いつも指名してくれていたお得意様からレジナルドの話を聞いた総支配人が、開業直前のザ・ジャロルズにスカウトしてくれたのが、そのきっかけだった。  大学で磨きを掛けた語学と、従僕として培った接客のノウハウを活かすことができる。自分が世界を巡る代わりに、帝都ロンドンで世界の賓客を迎えることで、その扉を開けることができる。ホテルマンとはレジナルドにとって、願ってもない職業だった。  その誕生から見守り続けているザ・ジャロルズには、我が子のような格別の愛着があり、これからも同僚達と力を合わせて大事に育てていこうと思っている。他の有名ホテルから引き抜きの話が来たことも何度かあったが、ザ・ジャロルズにいることで得られる充足感を捨てて他の職場に移るには、高額な俸給だけでは釣り合わなかった。  従僕や執事(バトラー)の誘いも同様だ。生きていく上で金は大切な要素だが、それだけで生きていけるわけでもない。  では何故、自分はジェイムズの誘いを断ったのか。  ジェイムズが人型の暴風と化した今では再考の余地もないが、彼の提示した条件は心引かれる点が多かった。破格の俸給、勤務形態の自由度、そして子供の頃夢に見た世界を巡る日々。ジェイムズが学生時代の自分の読書傾向を覚えていたのは驚きだったが、そこを突いてこれ以上何が不満なのだと詰め寄られた時には、さすがに返答に詰まった。  不満などない。――では、何故?  ジェイムズに、他のホテルのスカウトに、従僕もしくは執事にと望んでくれた人々に足りないもの。  破格の条件でもレジナルドに転職を断らせ、レジナルドをザ・ジャロルズに縛るもの。  自嘲の形に歪んだ唇を噛み締めても、ぽっかりと開いた胸の空洞は消えない。寝返りを打っても、その空洞に沈澱する孤独はごまかせない。  一年の半分以上を海外で過ごすと言っていたジェイムズ。それは彼に帰る家があるからできることだ。器としての家ではなく、帰れば親しい誰かがいて「お帰り」と迎えてくれる場所。  母と二人で暮らした小さなコテージ、重厚なケイリー伯爵邸、ウィズリーの『(カレッジ)』、大学の寮。  レジナルドがかつて家と呼んだ場所は、すべて思い出の中の遺物になってしまった。  父母は亡くなり、異母兄姉達の消息も知れない。学友達はそれぞれの人生を歩み、時々手紙の遣り取りをするくらいで何年も顔を合わせていない者も多い。生涯の伴侶を見つけて家庭を持たなければ、家と呼べるほど愛着があり、また自分の居場所があるところはザ・ジャロルズしかないのだ。  理解ある上司、気持ちの良い同僚達。家族ではないが、かつての同寮生のように近しい人々。  彼らと自分によって支えられ、成長していくザ・ジャロルズ。そこで職を得て、その中に住まう自分。  勤務先に固執する理由は至って簡単、呆れるほど子供じみている。やっと手に入れたゆっくり休める場所を、期限付きではない家を、手放したくないだけなのだ。 (…我ながら女々しいな)  今まで一身に仕事に打ち込んできたため自分のことを云々する余裕もなかったが、妄執にも似たザ・ジャロルズに対する姿勢が勤務に悪影響を与える前に、何か手を打った方がいいのかもしれない。これまで仕事を理由に断ってきたが、心配性のアンソニーがこれまで何人か紹介してくれようとした彼の知人の娘さんと、一度会ってみるのもいいかもしれない。今度同僚のナイジェルに誘われたら、その手のパーティに出てみるのもいいかもしれない。  半分真面目に、半分捨て鉢な気持ちでそう思った時、忘れ去っていた問題児が思考の内に怒鳴り込んできたが、もちろん無視だ。パブリックスクールを出ているからといって、全員がその道を好むわけではない。  郊外の一軒家。気立ての良い妻に、子供は家計が許す限りたくさん。飼い犬は大型犬を二頭。  夢のスイートホームで人型の暴風の幻影を駆逐してはみたものの、現実に待ち受けているのは後者だ。伴侶探しについては明日にでもアンソニーとナイジェルに声を掛けてみることにして、先に片付けなければならない未曾有の人型大災厄に、レジナルドは胸の底からため息を洩らした。

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