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人型の災厄(2)

 意外にも日々は穏やかに、しかしところどころでレジナルドの鳥肌を誘発しながら過ぎた。  母語を喋るが意志の疎通は不可能な相手と昼食を共にするのは疲れるが、この日課をやめようと言った時にジェイムズがどんな手に出るのか想像できず、恐ろしくて無下に断れない。ジェイムズにしても昼日中の公園で無体なことはできるはずもないだろうから、猛獣を手懐ける慎重さで昼の日課は続いていた。  ただ、レジナルドが注意深く選び抜いた差し障りのない話題を、その苦労を踏みにじり背筋に悪寒を走らせるほど甘い台詞でジェイムズが返してくるのには閉口した。しかしウィズリーで培った監督生(プリフェクト)体質は今も健在なようで、じきにハイハイと流せるようになってしまった自分に苦笑してしまう。 「男相手に薔薇の花束というのも間抜けな気がするが」  涼しいというには無理がある気候になったのに、レジナルドは薄い外套を羽織っているというのに、三つ揃いのスーツ姿でお手製のサンドウィッチを摘みながら涼しい顔でジェイムズが言う。 「監督生の花の(かんばせ)にはとても似合うと思う。君に薔薇百本を捧げる栄誉を、私に授けてくれるか」 「その台詞をアルバートに真顔で言われて、かつ薔薇百本をもらって君は嬉しいか?」 「…よくもそんな気色悪いことを思いつけるな、監督生!」 「その台詞、そのまま君に返すよ」  大分コツを掴んだな、と内心自画自賛のレジナルドだ。  ジェイムズには黙っているが、明日は一日休みで、アルバート・シェリングフォードに夕食に招かれている。  そもそもの用向きは、エリオットに会うことだった。余計な悶着を避けるため、エリオットの主人であるアルバートを通して彼の従僕(ヴァレット)に面会したい旨を伝えたが、昼間は用事があってエリオットはどうしても都合がつかないという。それなら夕食を一緒に、と快く申し出たのはアルバートだった。  ジェイムズとは殆ど毎日会っているが、アルバートとはあの再会の日以来ご無沙汰している。もう一人の問題児と旧交を温めたいのはもちろんだが、エリオットに個人的な話があるのだと率直に告げたレジナルドに、 「実は私も君に相談したいことがあるんだよ、監督生」 電話の向こうで、アルバートは意外なことを言い出した。 「エリオットは私がいいと言っても、決して一緒に夕食をとらない。給仕するのが彼の仕事だと言ってね。だから食事の間は彼を下がらせて、君と話がしたい。その後は君とエリオットの時間だ。私は書斎に引っ込んで大人しくしているよ。それでいいだろう?」  同じ問題児でも、アルバートの方が昔から常識的に振る舞う術を身につけていた。それは今も変わらないようだ。  断る理由もなく、ただ同じフラットの上階に住んでいるというジェイムズにはくれぐれも悟られないように頼むことは忘れずに、レジナルドはアルバートの招待をありがたく受けることにした。  あのエリオットが管理するシェリングフォード邸。友人宅を訪問するという純粋な楽しみと共に、元従僕としての興味も湧いてくる。ロンドン一の客室の清潔さを誇るザ・ジャロルズの掃除係も驚くほど、完璧に室内を整えていることだろう。参考にできるところはすべて吸収して持って帰り、同僚達と検討しようと思う。  フロントマネージャーとしても好奇心を刺激される、シェリングフォード邸訪問。招いてもらう方の礼儀として、何を持っていこうかと考えていると、 「監督生」 ワイングラスを揺らしながら、何気ない風にジェイムズがまたも言い寄ってくる。 「明日会えないというなら、その代わりに今君を抱きしめてもいいか」  懲りない言い様に軽く頭痛を覚えた。 「…だから、アルバートにだね」 「あいつとはウィズリー時代もオックスフォード時代も、悪戯が成功した暁には抱き合って互いの健闘を称えたものだ。抱擁の一つや二つ、痛くも痒くもないが」 (…そう来たか)  胸を張って応えたジェイムズに、がっくりと肩が落ちる。その問題児っぷりの印象が強くて忘れがちだが、ジェイムズもまたウィズリーの五年間を『(カレッジ)』で過ごし、その後オックスフォードに進んだ秀才だ。起こした会社を短期間で一流に押し上げた手腕といい、その頭脳が明晰であることは明白だが、無駄なことにまでその出来の良いお頭(つむ)を活用しなくていいのにと思う。  どうにか撃退できないものかと焦るレジナルドは、間の悪いことに膝の上にサンドウィッチの皿を載せていて逃げ場がない。対するジェイムズは要領よく皿とグラスをよけ、獲物ににじり寄って来る。 「異論はないようだな」 「いや、異論はあるんだけど…」  説き伏せる術が見つからない。往生際悪く上半身を後ろに反らせて体を遠ざけてみたものの、結局、目の前を覆う広い胸の中に子供のように抱き込まれてしまった。 「息災でいるのだぞ、監督生。私がいなくともちゃんと昼食を取り、夜はしっかり休んで私の夢を見るのだ」 「…たった一日のことだよ、ジェイムズ」  諭すような口調に呆れるしかない。これはもう下手に刺激せず、好きにさせた方が早く終わる。白昼堂々の一方的な抱擁は、公園で散歩を楽しむ善良な市民には目の暴力になるだろうが、妙な噂が立つような不健全さはないだろう。  諦めて力を抜いた体に巻きつく腕に、所有権を主張するように一層の力が込められた。 「その一日が私には千年にも万年にも思えるのだ…明日の夜が明けるまでに、待ち焦がれた私は息絶えているかもしれない」 「あ~それは大変だね~。ところで頬擦りするのはやめてくれないか、勤務中に髪が乱れるのは困る」  熊に襲われているような気分で諦め半分、仕方なくとんとんと背中を叩いてやる。こんな調子で流されていては、この図体の大きな子供につけ込まれるだけだ。後悔にどっぷり染まったため息が、ジェイムズの胸の中で押し潰されていく。  猛獣使いへの道は、遠く険しい。  ジェイムズに別れを告げ、心身共にぐったりとしながらザ・ジャロルズに戻ると、玄関ホールにはデュシュッド氏が立っていた。  ザ・ジャロルズを贔屓にしてくれ、一度の滞在期間が数ヵ月と長く滞在する部屋のクラスも高い氏は、上得意の中でも最重要人物の一人となっている。フランスの実業家で大きな不動産会社を持ち、手広く事業を展開しているという話だった。  デュシュッド氏の靴の爪先が埃をかぶっていることをさりげなく確認し、レジナルドはフロントマネージャーの顔に戻る。 「お帰りなさいませ、ムッシュウ・デュシュッド」 「おや、何故私が今から出掛けるところだと思わないんだい?」 「(わたくし)がムッシュウ・デュシュッドの従僕であれば、埃のついた靴を主人に履かせるようなことはしないでしょうから」  レジナルドの返事に、氏はいかにも愉快そうに笑った。 「だから私は君を従僕に迎えたいんだよ、レジナルド」 「申し訳ありません。体を二つに分けることができれば、片割れをすぐにでも派遣するのですが」 「分身がいようと双子がいようと、私が欲しいのは君だよ」  素直に礼を言って受け流せばいいのだろうが、微妙に返答に困ることを言われて相手の真意を計りかねていると、 「随分と熱い抱擁だったね、レジナルド」 氏はさらりと受け流せないことを、秘密を仄めかすように囁いた。 「覗き見るつもりはなかったんだが、何せ散歩中の公園でのことなのでね。この間は手に口づけを受けていたね。彼は君の何なのか、聞いてもいいかな」  業務用の微笑を顔に貼り付けたまま、レジナルドは突如雪嵐(ブリザード)が吹き荒れる大氷原に放り出されたような感覚を味わった。 (祟りだ…ジェイムズの祟りだ…)  たった一日会わないことの埋め合わせである『熱い抱擁』で心身共に疲弊していたところに、容赦なくとどめを刺された気分だ。すべての元凶である人型大災厄を全身全霊で呪いたくなったが、内心に渦巻く脱力感を表に出すような真似は無論しない。 「お恥ずかしいところを見られてしまいました」  素早く自分を立て直すと、敢えて事務的な調子で返した。  自分の名誉を守るのはもちろんだが、会社社長であるジェイムズに良からぬ噂が立つ可能性は排除しなければならない。デュシュッド氏に悪気はなくても、彼が夜会などで口を滑らせれば、退屈に倦んだ社交界のお喋り雀は喜んで騒ぎ立てるだろう。何せジェイムズは立志伝中の人物にして名門侯爵家の子息、中味はともかく外見は男らしい美形で、醜聞のネタとしては申し分ない。 「彼は寄宿学校の同窓生で、最近久しぶりに再会しまして。身体的接触(スキンシップ)の激しい友人で私としましても戸惑わないではないのですが、昔からそういう男ですから」 「昔から、ねえ」  デュシュッド氏の含みのある口調が気になるが、立場上こちらから問い質すことはできない。 「彼は末っ子ですから、気心の知れた相手にはそういう傾向が強いのでしょう」 「では私が末っ子なら、君は私の口づけを受けて、寂しい時には抱いて慰めてくれるのかい?」 「…それはムッシュウ・デュシュッドの御学友のお役目かと」  今日は妙に絡んでくるなと訝しみながら切り返すと、デュシュッド氏は気障な仕草で肩を竦めてみせた。 「生憎そんなやさしい友人はいなくてね。それに私は長男だ。今言ったことは忘れてくれていいよ」 (もちろんですとも)  これ以上の人型の災厄は、何としてもご免こうむりたい。  言われるまでもなく、昼の日課に始まる一連の出来事を記憶から抹消するつもりのレジナルドだった。

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