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シェリングフォード家の主従(1)

 結局シェリングフォード邸での夕食には、リンゴのクランブルを持っていくことにした。  細かく千切ったバターを小麦粉と砂糖を混ぜたボウルの中で細かく擦り合わせ、ポロポロの上掛け(クランブル)を作る。焼き皿に薄切りにしたリンゴを並べてカルヴァドスを振り掛け、なじんだところにクランブルをたっぷりと掛けてオーブンで軽く焼き上げる。  素朴だが、レジナルドの記憶に残る家庭の味だ。二人で暮らしていた頃、よく母が焼いてくれたものだった。生粋の貴族であるアルバートの舌には合わないかもしれないと思ったが、逆に新鮮に感じてくれるかもしれないと考え直した。ジェイムズ同様、アルバートも階級の壁を薙ぎ倒し踏みつける型の人間だ。だからこそエリオットに執心できるのだろう。  そして何より、クランブルはエリオットの好物だ。一緒に食事を取ることはできないようだが、自室で楽しんでくれたらと思う。  六時ちょうど、手製のクランブルと昼に買っておいたクラレットを手籠(バスケット)に入れ、ジャロルズから目と鼻の距離にあるブルック・ストリート六十七番地の高級フラット、マールボロ・ハウスを訪ねた。エレベーターを四階で降りF号室の呼び鈴を押すと、来客を迎えるに相応しい燕尾服(テイルコート)のエリオットが扉を開けて迎え入れてくれる。 「こんばんは、エリィ。元気だったかい」 「おかげさまで、マーシャル様。お久しぶりでございます」  なるほど、アルバートの友人としてシェリングフォード邸を訪問した以上、今のレジナルドはエリオットにとって『御主人様の御友人』ということらしい。一緒に食事を取らないところなど、アルバートには融通が利かないように見えているようだが、使用人としては必要なけじめだ。  シェリングフォード邸は、独身には贅沢な広々としたフラットだった。  玄関ホールから続く応接間には、重厚華美ではないが趣味の良い調度品が置かれ、それらは壁に飾られた額の一つ一つまで丁寧に磨き上げられている。アルバートの軽快な人柄を表す品々を、エリオットの完璧主義が見事に管理し、最高の状態に維持されていることが見て取れた。  玄関脇の、半月型の小卓に置かれた花瓶の花々も、来客を喜ぶように咲き誇っている。秋の冷え込みを和らげるような暖色の色合いに、それを選んだ者の心遣いが窺える。もちろん卓上には埃一つ見当たらない。  おそらく、快適な寝室とそれに続く浴室、食事室に書斎も備えているのだろう。アルバートの職業はまだ聞いていないが、ロンドン随一の高級住宅街であるメイフェアにこのような居宅を構えていることで、ジェイムズ同様、懐に余裕のある青年貴族であることは間違いないと思われた。 「よく来てくれたね、監督生(プリフェクト)。外は冷えたんじゃないか?」  外套と帽子を預かってもらっているところに、アルバートもやって来てレジナルドを迎えた。 「今夜はお招きありがとう、アルバート。とても楽しみにしていたんだよ」 「我が家の使用人は、従僕(ヴァレット)だけでなく料理人も腕がいい。君の期待を裏切ることはないと思うよ」 「それは素晴らしい」  挨拶を交わしながら食事室へ通された。  席に案内し、寄り添うように背後に立ったアルバートは、自然な仕草で椅子を引いてくれる。さすがに生まれながらの紳士だと感心させられる優雅さだ。  同じ問題児でもアルバートはガキ大将型、昔から周囲に気配りのできる人間だった。人の上に立つ者の資質を、荒削りの原石から成熟した男の魅力に昇華させたアルバートは、エリオットにとっても誇りとする主人だろう。この見目麗しい主従の間に流れる感情の種類は不明だし、知ったところで手に余るので知ろうとも思わないが、単に主従というのであれば、二人の関係は非常に上手く機能しているように見えた。  対するもう一人の問題児は唯我独尊独立独歩型、有無を言わせぬ実力と突拍子もない行動で威圧しつつ、その特異な存在感が放つ引力で周囲を巻き込み魅了するという(たち)の悪さだった。彼が何をしても、ジェイムズだから仕方がないと苦笑しつつも許してしまう天真爛漫さは、天からの贈り物。努力したところで凡人には持ち得ないものだ。  だからといって自分がジェイムズを甘やかす必要はない、と昨日の災厄を思い出しレジナルドは気を引き締める。  純白のクロスが掛けられたテーブルには、コースではなく、レジナルドには懐かしい庶民の家庭料理の皿が次々と並べられていく。レジナルドが持参したクラレットも栓を抜かれ、ワインクーラーに入った白の瓶と共にテーブルの端に置かれ、晩餐の用意は整った。  一通り卓上を調えたエリオットは一言、 「ごゆっくりお楽しみください、マーシャル様」 慇懃に挨拶すると空の(トレイ)を脇に抱え、台所に下がった。ワインを注ぐ前の退場は、主人にそう言い付けられていたからだろう。 「堅苦しいコースよりも、こういう方が寛げるんじゃないかと思ってね」  レジナルドのグラスにクラレットを注いでくれながら、アルバートが説明してくれる。 「それに給仕が要るような食事では、わざわざ君にご足労いただいた目的を果たせない。エリオットのようにはいかないが、私もワインぐらいは注げるしね」  しばらくは差し障りのない会話を交わしながら、食事は進んだ。  ウィズリー(カレッジ)の思い出話、卒業後に進んだ道、そして近況など。五年間を共に過ごし、その後十年間疎遠になっていた元同寮生同士、話すことはいくらでもあった。自慢するだけあって料理の味も素晴らしく、互いにグラスを重ねながら、ゆっくりと十年間の空白を埋めるように和やかで贅沢な時間を心ゆくまで堪能した。  そろそろ食後のチーズに移ろうかという頃、 「例の相談の件なんだが」 アルバートが切り出した時、いよいよかとレジナルドは姿勢を正した。 「お役に立てるといいのだけれど」 「もちろんだよ、監督生…って、君は十年経っても監督生のままだな」  再会してからも元監督生を当時の呼称で呼んでおきながら、そんなことを言ってアルバートは懐かしいものを見るようにレジナルドを眺める。 「困った時には君が何とかしてくれると思っていたから、ジェイムズも私も最後の一年は好き勝手にやらせてもらったものだよ」 「そんな都合のいい思い込みでわたしを振り回していたのか、君達は」  苦笑しつつも、振り返ってみればすべていい思い出だ。アルバートもつられたように微笑んだが、ふいに表情を改め、真摯な面持ちで心の底から言葉を取り出して並べるように答えた。 「頼りにしていたのさ、君を。我々に限らず『館』の全員がね。だからまた力を貸してもらいたい。というか、君の意見を聞かせてほしいんだ」 「一体何についての話だい?」  こうまで言われては監督生に徹するしかない。手にしていたグラスを置いてじっくり話を聞く態勢を整えたレジナルドに、アルバートは静かに切り出す。 「エリオットのことなんだが」 「エリィの?」  嫌な予感がする。  心ひそかに警戒しつつ、レジナルドは相手の出方を待つ。 「こういう言い方をしていいのかわからないが…君は貴族でありながら使用人の世界を知る人間だ。私の流儀とエリオットの流儀を知っている。だから教えてくれないか」  予想に反して淡々と、アルバートは言葉を続けた。 「エリオットは完璧な従僕だ。彼以上に有能な従僕などこの世にいないと断言できるくらいに。私は彼を信用しているし、彼も私を主人と認めてくれていると思う。でもそれだけなんだ」 「それだけ、とは?」 「あの再会の日、君とエリオットがお互いを愛称で呼び合いながら親しげに話をするのを見て衝撃を受けたよ。彼はいつでも無表情で寡黙、主人といえども馴れ合おうとしない。それが生来のエリオットだと思っていたから、これまで気にすることもなかった」  羨むような眼差しに、ザ・ジャロルズでの再会に感じた違和感を思い出す。『従僕』ではないエリオットの姿を初めて垣間見て、アルバートには自分の知る彼が幻のように思えたのかもしれない。 「彼が心根の優しい人間だということは十二分に理解している。私はこの世で一番幸運な主人であることもわかっている。だが私は、エリオットと幸せになりたいと思う。主人と従僕というだけでなく、伴侶としてこの先も共に生きていきたいんだ」  胸の内を紡ぐように語られる言葉には、アルバートの真剣な想いがにじんでいた。 「だがエリオットはいつも、自分は『従僕』だからと言う。そして私は彼の『主人』だと。それはそんなに重要なことなのか?」  エリオットらしい。レジナルドは思う。  心やさしき有能なるエリオット。アルバートに対する彼の言葉は、彼の精一杯なのだ。 「わたしに言えることは三つある」  アルバートの視界に入った体のすべての部分に、食い入るような視線を感じた。跳ね返すのではなく受け止めるように、レジナルドは肩の力を抜く。 「第一に、君には酷かもしれないが、エリオットが君を恋愛の対象として見ていない場合、主人に対する直截な物言いは、優秀な従僕として好ましいことではない。君が彼にとって良い主人であればあるほど、彼の舌は鈍るだろう。冷たいように見えて、とても優しい子だから」  「優しい子」と言った瞬間、アルバートの瞳の奥に嫉妬の炎が揺らめいた。弟のように思っている年下の友人を「優しい子」と言って何が悪い、と眼差しで黙らせる。 「第二に、エリオットは従僕という仕事に誇りを持っている。だからこそあの若さで、わたしと出会った十五の頃から、大城館の老執事にも比肩する品格を備えていた。その誇りに反する振る舞いを彼がするとは考えにくい。主人とのけじめのない付き合いは、その最たるものなんだよ」 「――私は気にしない、むしろそうしてほしいと願っても?」 「それは従僕の職分に含まれず、むしろ反する要求だ。主人の我が儘として受け流す以外、彼にできることはないだろう」  少々言い過ぎかと思いながらも事実を曲げるわけにはいかず、早口で言い切ると、 「…私の気持ちは」 すっかり表情を無くしたアルバートは沈痛な声音で呟いた。 「エリオットにとって、ただの主人の我が儘に過ぎないのか…?」 「第三に、もしエリオットが君を恋愛の対象として見ている場合」  背中を丸めて落ち込んでいるアルバートに内心では天を仰ぎながら、レジナルドは急いで付け足した。 「やはり主人とのけじめのない付き合いを嫌う彼は、自分の気持ちを決して表に出すことはないだろう。彼の無言のサインを読み取るのは君であって、わたしではない。これ以上何も言えることはないよ」 (頼む、これ以上この問題に巻き込まないでくれ!)  心の叫びが通じたのか、アルバートはそれ以上何も言わなかった。鈴を鳴らしてエリオットを呼び、卓上を片付けるよう指示を出す。その様子は『相談』を始める前と変わらず、レジナルドはほっと胸を撫で下ろした。自分の言葉は何の参考にもならなかっただろうが、アルバートの中で何らかの区切りがついたのなら喜ばしいことだ。  やがて片づけを終えたエリオットが、切り分けたクランブルとハーブ茶を盆に載せて現れた。それと同時に、アルバートが席を立つ。 「ありがとうレジナルド、とても参考になった。私はこれでこの場をエリオットに譲るから、後は二人でゆっくりするといい」

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