13 / 21

有能なる従僕の手法

 アルバート・シェリングフォード氏の従僕(ヴァレット)、エリオット・グレイは、その有能さで賞賛の声を恣(ほしいまま)にしてきたが、十数年の従僕歴において初めてその職分を逸脱する決意をした。  一介の従僕ではあるが、アーラム子爵シェリングフォード家の問題児、一族の悩みの種だったアルバートを御し得る稀有な人材として、エリオットはシェリングフォードの人間から一目も二目も置かれている。職務以上の働きを強要されたことも何度かあり、子爵家に対する貸しも山積していた。このあたりで少し取り返すのもいいだろう。従僕の身で主家に頼み事をするのは気が引けるが、兄のように親しく思っているレジナルドのためであれば、些末な事にかまっている暇などない。  心を決めて連絡を取ったのは、個人的に面識のあるアルバートの姉だった。伯爵家に嫁ぎ、その華麗なる女主人としてあちこちに顔が利く彼女は、エリオットの頼みを快諾してくれた。  そうしてすべての準備が整った今、勤務中である相手の都合を無視して、ザ・ジャロルズのレジナルドに電話を掛けている。 「お仕事中申し訳ありません」 電話口で驚く相手にかまわず、すかさず用件を述べる。 「実はジェイムズ卿が早朝から大変な高熱を出して寝込まれまして。毎年この季節にそういう風邪を引き込むそうなのですが、かつて同じ寮で過ごされたあなたならご存知でしょうか」 一瞬息を呑み、肯定を伝えてくるレジナルドに、 「看病を頼まれたのですが、生憎本日わたしは手が離せない用事がありまして卿のお世話ができません。どなたか代役をと思案したところで、あなたのことを思い出した次第です。ザ・ジャロルズのオーナー様には承諾をいただいていますので、本日あなたにはフロントマネージャーと卿の看護人、二つの選択肢が存在することになります」 一気に告げると、 「選択権はあなたにあります。では、ごきげんよう」 相手の返事を待たずに電話を切るという、生まれて初めての暴挙を働いて肩で息をついた。 (受け入れるにしろ断ち切るにしろ、卿と同じ世界に立てるあなたはためらう必要などないのですよ、レジィ)  初めて出会った時から何くれと気に掛け面倒を見てくれる、心やさしい敬愛する『兄』。彼の心の平穏のためなら、信条に反して多少無礼に振る舞うこともかまわない。乱暴な策を仕掛けた自覚はあるが、今のままでは遠からず、彼はそのやさしさゆえに追いつめられることになるだろう。  レジナルドの望む形で事態が決着するように、エリオットは心から祈った。  レジナルドは心の底から呆然としていた。  今の電話は、その声は、明らかにエリオットのものだった。なのにまるでジェイムズと話しているような、あの勝手な口の利き方は何なのだろう。 (昨日の夜までは普通だったのに…)  あまりの変貌に、自分の作ったクランブルに(あた)ったのかと心配になる――それにしても毒が脳に回るとはただごとではないが。それにその内容がまた、大いにレジナルドの頭痛を誘発するものだった。 (確かにウィズリーでも、ジェイムズは毎年この時期に寝込んでいたけれど…何故わたしが看病を?しかもエリィから指名されるんだ?)  混乱しつつ受話器を置くと、別の電話に出ていたアンソニーが首を傾げながら声を掛けてきた。 「レジナルド、たった今オーナーからお電話があって、君がジェイムズ卿の看護に行ってもそれは勤務の内だから止めないようにと言われたよ。何のことだかさっぱりわからないんだが…卿はご病気なのかね?」 「どうも、そのようなのですが…」  どうやってかエリオットは、オーナーにまで手を回してこの状況をお膳立てしたらしい。昨日の今日で一体どういうつもりなのか、彼の思惑がまったくわからない。  しかし高熱にうなされているだろうジェイムズを放っておく訳にもいかず、とりあえず様子を見に行くことにした。彼の家に従僕はいないが、掃除婦と料理人を雇っていると言っていた。自分の出る幕はないだろうが、一度でも顔を出しておけば、後で何か言われたとしてもオーナーとエリオットに言い訳は立つ。  今日は午後に、デュシュッド氏から仕事の打ち合わせを申し込まれている。ホテル事業に関することらしく、フロントマネージャーではなく総支配人の方が適任ではと辞退したが、まずはレジナルドに相談したいことがあると言いくるめられてしまったのだ。  その約束の時間が十四時。ジェイムズの様子を見て帰って昼食を取っても、十分に時間はある。  アンソニーに状況を説明して備え付けの救急箱から解熱剤を取り出し、厨房から果物をいくつか失敬していつもの手籠(バスケット)に収めると、外套に腕を通してレジナルドはザ・ジャロルズを出た。  ジェイムズの部屋は、マールボロ・ハウス最上階のH号室。  入口の守衛に会釈し、エレベーターで最上階まで上がる。四階で降りてエリオットに声を掛けようかとも思ったが、不在の可能性もあることを思い出し、病人を優先することにした。  H号室の前に立ち、呼び鈴を押しては待つこと三回。 「…監督生(プリフェクト)」  ようやく現れたジェイムズは見るからに機嫌が悪く、明らかに具合も悪そうだった。 「具合が悪いところを邪魔してすまない。エリィから電話をもらって様子を見に来たんだが…思ったより重症みたいだね。ほら、早く寝台(ベッド)に戻って」  熊のように立ちはだかる大きな図体を押し退けるように中に入り、台所に直行する。昨夜同じ構造の下階を訪問したばかりだから大まかな間取りは理解しているし、台所に置いてある物はどの家も大体同じだ。外套と上着を脱ぎ、さして苦労することもなく水盥(ボウル)を見つけて水を溜め台所を出ると、病人は玄関ホールに立ち尽くしたままだった。 「何をしてるんだ、ジェイムズ。早く横にならないと」  追い立てるように寝室へ押し遣り、自分もその後に続いた。タオルはおそらく続きの浴室の棚にある。適当に開いてちょうどいい大きさのタオルを探し出し、水盥の水に浸してよく絞ると、大人しく寝台に入ったジェイムズの額に置いてやる。  気持ち良さそうに息をつくジェイムズの前髪をすき上げてやると、その瞳がゆっくりと閉じられた。いつもはその尊大な輝きで周囲を威圧しているだけに、目を閉じてしまうと幾分印象が和らいで見える。 「薬は飲んだのか?」 「切れてた」 「朝食は?」 「まだだ」 「食欲は?オートミールを煮たら食べられそうかい?」 「君が私のために作るものなら何でも」 「…そんなふざけた口がきけるなら大丈夫なようだね」  熱が高くて苦しいだろうに、ジェイムズ節は健在だ。精神的にももう少し衰弱して大人しくなればいいのにと、看護人にあるまじきことを思う。 「わたしは今から食事を作る。君はそれを食べて、薬を飲んでしばらく眠る。目が覚めたらよくなってる。以上。――異議はあるか?」 「もちろんないとも、監督生」  議事を進行するかのようなレジナルドの口調に、ジェイムズは熱のせいで赤い目元を和らげた。 「誰も、この私ですらも、君の決定に逆うことなど一度もなかったはずだ」 「…そんなに恐れられるような、鬼の監督生だっただろうか?」 「誰もが恐れていた、君に嫌われることを」 「そのわりには、性懲りもなく悪戯を繰り返す問題児もいたようだけれどね」  反論しようとした病人を監督生の一瞥で黙らせ、首元まで上掛けを引き上げてやると、レジナルドは寝室を出た。  いつもと変わらない人型暴風ぶりに誤魔化されそうになるが、ジェイムズの容態は思わしくない。食事と薬を与えて休ませれば明日にも回復するだろうことは、かつて五年間を共に過ごした同寮生としてよくわかっている。  だからといって放置したままザ・ジャロルズに戻ったら、様子が気になって仕事に身が入らないだろう。クランブルに中って様子がおかしいエリオットの策略に嵌ったようで多少不愉快な気がしないでもないが、ここに残るのは自らの意志だ。  いくら傲岸不遜なジェイムズでも、ふらつくほどに具合が悪ければ心細いはずだ。誰かが側にいれば、多少なりとも安心を覚えるかもしれない。  先ほど水盥を探した時に、料理に必要な物の場所は把握していた。手際よく病人食を調えながら、今日のデュシュッド氏との打ち合わせは延期してもらうか、アンソニーに代わってもらおうと算段する。 (まずはジェイムズに食事をさせて、その後ザ・ジャロルズに電話をしなければ)  すんなり氏が捕まればいいが、最悪の場合、伝言でこの非礼を詫びなければならない。  リンゴとオレンジを食べやすいよう切り分けて皿に盛る。解熱剤、水差し(ピッチャー)、湯気を立てているオートミールの(ボウル)と共に(トレイ)に載せ、寝室の扉を開けると、じっと扉の方を見ていたらしいジェイムズと目が合った。 「何だ、そんなに腹が空いていたのか」  小卓に盆を載せ、身を起こしたジェイムズの前に寝台卓(ベッドテーブル)をセットしてから食事を並べる。(スプーン)を渡してやり、グラスに水を注いで促すと、ジェイムズは無言のまま食べ始めた。 「食べながらでいいから聞いてくれ。今日はわたしがついているから、ゆっくり寝むといい。掃除婦と料理人を雇っていると言っていたけれど、掃除婦は今日来るのか?」 「いや」 「料理人は何時頃ここへ?」 「今日は休みを取っていて来ない」  このことをエリオットは知っていたのだろうか?  猛獣使いの手の平の上で転がされている気がしてならないが、何にせよ、随分と都合よく自分はここに残ったものだ。 「じゃあ、今日の夕食はわたしが作るよ。君の料理人には負けるだろうけど、料理はそれなりにできるから安心してくれ」  食事を終えて薬を飲んだジェイムズに場所を確認して新しいパジャマと下着を用意し、浴室からタオルを持って来る。熱と出来たてのオートミールのせいで噴き出したジェイムズの汗を丁寧に拭ってやり、着替えを手渡した。寝台卓を片付けて食器を手に台所に戻る。着替え終えたジェイムズが大人しく再び横になるのを確認し、水盥のタオルを固く絞ると額に載せてやった。  これで今すべきことは、すべて終えた。あとは薬とジェイムズの体力次第だ。 「よく(やす)むんだよ。目が覚めたら、きっとよくなってる」  同じことを、監督生時代、体調を崩して寝込んだ寮生を見舞うたびに言っていたなと思い出して、少し可笑しくなった。  何か言いたそうにジェイムズは口を開きかけたが、彼らしくもなく逡巡し、しばらくして呟いた。 「…少し寝む」 「おやすみ、ジェイムズ」

ともだちにシェアしよう!