14 / 21

幻の家

 洗濯物を手に、レジナルドは寝室を出た。  台所は、調理器具を備えた家事室となっており、下階のエリオットは一日の大半をここで過ごすのだろうと想像できる。階は違うが、その部屋に今自分がいることを奇妙に思いながら、レジナルドは洗濯物を片付け、鍋と食器を洗った。  台所を出て懐中時計で確認すると、十一時。ジェイムズには事後承諾で電話を借りることにする。  時間は昼前、しかもデュシュッド氏の一日の予定は不規則のため、捕まるだろうかと心配したが、運良く玄関ホールに降りてきたところをアンソニーが見つけ、電話口まで連れてきてくれた。  開口一番、レジナルドは謝罪の言葉を口にした。 「誠に申し訳ございません、ムッシュウ・デュシュッド。人命に関わる緊急の用件ができまして、今日のお約束を果たすことがかないません。このお詫びは後ほどいかようにもいたしますが――(わたくし)の代わりに宿泊支配人を伺わせることも可能でございますが、いかがいたしましょうか」 「人命とは、ジェイムズ・アスター卿のことかい?」  飄々とした調子で、デュシュッド氏は意外な切り返しでレジナルドを驚かせた。 「さっき、君がいつもの手籠を持って外に出るのを見掛けたのでね」  質問しているものの、氏の中では既に答えが出ていたようだ。レジナルドが答える前に、デュシュッド氏は探るような声で、静かに切り出した。 「私の話が、旧ケイリー伯爵邸を買い取りホテルに改装する計画について――であっても、君は私のテーブルにつくことなく、人命救助を優先するかい?」 (ケイリー伯爵邸…?)  受話器を握る手が震えた。  ケイリー伯爵邸は過去の遺物だ。何年も前に売却され、マーシャル家のものでなくなって久しい。レジナルドの家と呼べる場所ではない。そう割り切り、とうに訣別した場所のはずなのに、その名を聞かされ、意外なほど衝撃を受けている自分がいる。  動揺した隙を突くように、甘い囁きが重ねて誘惑する。 「伯爵邸をよく知る君に、その責任者になってほしいと言っても?」 (――あの家に、戻る?)  伯爵夫人となった母と共に移り、ウィズリー(カレッジ)に入学するまでの二年間を過ごしたあの場所に?  そう思った瞬間、レジナルドの中から一切の動揺は消滅した。 「…私に帰るべき家があって」  感情の抜け落ちた、乾いた口調で続ける。 「それを勝手に他人にいじられたなら、きっと私は冷静ではいられないでしょう」  何か感じるものがあったのか、デュシュッド氏は無言で先を促す。 「よく知った場所ではありますが、ケイリー伯爵邸が私の帰るべき家だったことは一度もないのです」  前妻の死後、十数年続いた愛人としての日々に終止符を打ち、母は正式にマーシャル家に迎えられた。レジナルドもその一員となったが、ウィズリーへ入るまでの日々は重苦しく、冷ややかな視線と無言の侮蔑に満ちていた。  ――妾の子。  新しい弟を空気のように扱う年の離れた異母兄姉、彼らに同調する心無い使用人の中傷。  レジナルドを深く傷つけ萎縮させたケイリー伯爵邸から、逃げるように入学した寄宿学校での生活は、粗末な寝具に冬は凍え、厳しい規則に縛られていても、心安らぐ天国のように思えた。長い休みが近づくと、帰省に浮かれる級友達とは反対に憂鬱になった。またあの、暗い海の底のように冷たい場所に帰らなければならないのか、と。  父母以外でレジナルドを可愛がってくれたのは、老齢の執事だけだった。執事らしく口数は少なかったが、邸内で暇を持て余すレジナルドを図書室に案内して司書のような蔵書の知識を披露してくれたり、彼を慕う邸内の飼い犬達を紹介してくれたりもした。従僕という執事に近い仕事に抵抗を感じなかったのは、彼からもらった温かい労わりの記憶のせいかもしれない。  執事の気遣いのおかげで、ケイリー伯爵邸の滞在中、レジナルドの居場所は図書室となった。重厚で黴臭い蔵書の森で、異国の旅行記を読み耽ったのも、逃避の現れだ。この場所から逃げ出したい、自分を傷つける人間のいない『家』が欲しい、そう思いながら頁を繰った。  伯爵夫人となり幸せそうな母に、自分の受けている仕打ちも、二人で暮らしたコテージに帰りたいとも、伝えることはできない。長年二人きりで暮らしてきたレジナルドにとって、母はこの世で一番大切な人であり、幸せになってほしい人だったからだ。  ウィズリーを卒業しケンブリッジに進んでも、レジナルドを取り巻く状況は変わらなかった。だから、大学在学中に父が病死し、母と共に伯爵家を追い出された時も、さほど驚くことはなかった。母を愛していた父のことは好きだったが、自分が伯爵家の一員であるという自覚は持てず、大学卒業後も距離を置いて付き合おうと思っていただけに、父の死後の人生の変転について、今も特別な感慨はない。  ただ、父の看病に疲れ、家を追い出された精神的な打撃で後を追うように亡くなった母が、死の間際まで懐かしく思い出していたのは、小さなコテージの二人きりの生活ではなく、伯爵邸での日々だった。その事実は、レジナルドを深く傷つけ、そして(おそ)れさせた。  父と母が出会ったのは、病死した前伯爵夫人がまだ病の床に就く前のことだった。妻子ある伯爵と恋に落ち、その子を産んだ母は、その事実だけを見れば、ふしだらな悪女と蔑まれても仕方がない。実際は、純粋でやさしく儚げな少女のような人で、それゆえにひたむきに愛する人を愛した。彼女には、それが正しいことだったのだ。  対する父も、分別盛りで名門伯爵家の家長であるにもかかわらず、母との恋に溺れた。年若い愛人が息子を産んでからは、二人をコテージに囲い、時々をそこを訪れてはもう一つの小さな家族を愛した。家の事情を理解できなかった幼い頃、何故父はいつも家にいないのか、たまにしか帰ってこないのか、レジナルドは何度も訊ねて母を困らせたものだ。  二人は本当に、お互いがいればそれで世界が完結していた。もちろんレジナルドのことは目に入れても痛くないほど可愛がり、濃やかな愛情を注いだが、それでも二人が微笑み見つめ合う時、そこには外界を――息子をも隔てる見えない壁があった。愛する人の瞳に映るのは自分だけ――その閉じた世界は、しかし二人以外には通用しないものでもあった。  前伯爵夫人が病に倒れ死の床に就いた時、彼女の子供たち――レジナルドの異母兄姉は、それでも妾宅通いをやめない父伯爵を糾弾した。愛人には金を渡して縁を切り、正妻である母の側にいるようにという彼らの要求は、至極当然と言える。夫婦の関係は随分前から冷え切っていたが、それでも病床の妻を置いて愛人にかまけるなど、伯爵家の体面を考えても許されることではない。さすがに伯爵も、子供たちの要求の半分は受け入れたが、半分は無視した。コテージを訪れることはやめ、代わりに頻繁に手紙を送って変わらぬ愛を伝え続けた。  そのような経緯があり、前伯爵夫人の死後、母が正式にマーシャル家の女主人に収まったことで、レジナルドに対する屋敷の人間の態度は決まったも同然だった。そしてレジナルド自身、それは仕方のないことだと諦めていた。  父も母も、お互いだけが必要で、他は何も目に入らない。最愛の人が側にいれば、他のことはどうでもいい些末なことなのだ。それが前妻の子供たちの悲憤であっても、使用人たちの侮蔑であっても、愛する末息子が置かれた窒息しそうな境遇であっても。人をそれほどまでに盲目にする強い感情を、レジナルドは懼れた。  書物の中に現れる愛は、もっと思慮があり、時に情熱的だが、穏やかに互いを求め認めあうものだった。父母のそれには思慮がなく、表面上は穏やかだがその内は爛熟しており、かすかに腐臭すら漂うようだった。その美しくあやうい狂気はひたひたと伯爵邸を覆い、そこに暮らす者すべてを不幸にした――ただ二人を除いて。  ゆえに父が亡くなった時、新伯爵となった異母兄は早々に母とレジナルドを追い出した。  また昔のような穏やかな暮らしに戻れる。大学を卒業したら、堅い職業に就いて母と暮らそう。むしろ希望を持ってレジナルドが用意した新しい家――新伯爵からわずかに渡された金で借りた二階建ての長屋(テラスハウス)は、しかし数ヵ月の後に解約することになる。  レジナルドの懼れた父母の愛は、母の命を奪い、母のいる場所――レジナルドの帰るべき『家』も奪った。  どうぞお好きなように、と呟いて受話器を置いた。  あらためて、自分には何も――真に誰かに必要とされたことすらもないのだと知った。  心の底に澱のように溜まり続けるその事実に、何年も蓋をしてきたものに、意外なほど消耗していることも。

ともだちにシェアしよう!