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悪童の流儀(1)
目の前の仕事に没頭し手を動かしていれば、余計なことを考えずに済む。
初めて訪れた友人宅に勝手に手を入れるのは失礼なことだろうが、看病という大義名分の下、レジナルドは思いつく用事を順に片付けていった。何度かジェイムズの額のタオルを取り換えてやりつつ、台所を物色して食材を見繕い、胃にやさしい夕食の仕込みをしたり、今日は来ない掃除婦の代わりに室内を整えたり。ソファのクッションをふっくらさせて元の位置に戻すところまで終えるうちに、日は少しずつ傾いていった。
昨夜招かれたシェリングフォード邸は、調和のとれたモダンな設えで、落ち着いた佇まいの居心地のよい空間だったが、世界を股にかける商社の社長であるジェイムズの居宅は、おそらく彼のお気に入りの品で溢れている。物が多いというわけではないが、脈絡のない異国趣味とでもいうのだろうか。壁には、世界中で買い集めたであろう実に個性的な面がいくつも飾られ、見る者を穴の開いた目で見返してくる。他にも、趣味が良いのか悪いのか判断が難しい人形やオブジェが、棚や小卓の上に並んでおり、そこに一人いることに、レジナルドは少々居心地の悪さを覚えた。
(何だろう…無人の大英博物館かV&Aにいるみたいな…)
さすがに異国趣味を免れている台所に退避し、銀器でも磨こうかと立ち上がったところで、ジェイムズが目を覚ました気配がした。そっと寝室の扉を開けると、ジェイムズは起き上がりながら額のタオルを外しているところだった。
「よく眠れたかい?熱は下がったかな」
額に手を当ててみると、薬が効いたのかジェイムズの熱は下がっていて、レジナルドを安心させた。
寝台の上に身を起こしたジェイムズの顔には高熱の後の窶れが見えたが、顔色は悪くなく気分も良さそうだ。再度体を拭いてやり、着替えをさせたところで、さきほど電話を借りたことを思い出した。
「君が寝ている間に電話を借りたよ。どうしても済ませなければならない用事があったんだ」
「ザ・ジャロルズにか」
「そのお客様だよ。――ああ、君も知っている方だ。前にザ・リッツで見たと言っていただろう?」
「あんな気障男に何の用だ」
「気障男って…」
顔付きを一変させて低く唸るジェイムズの言い草に、呆れ半分苦笑半分といったところだ。
フランス人であるデュシュッド氏の物腰は、軽薄とは言わないまでも、この国でよしとされている紳士の在り方――多くを語らず行動で示す――と比べれば、多少浮ついているのは否めない。彼自身は上流階級の出身だが、階級に拘らず縦横無尽に人々の間を往き来する身軽さは、ジェイムズにも通じるものがあった。そんなデュシュッド氏を気に食わないというのなら、それはおそらく同族嫌悪というものだろう。
睨みつけて返事を迫るジェイムズに、特に隠す必要もないと判断したレジナルドは、新たなスカウトについて教えてやった。
「新しい事業に参画しないかというお誘いがあってね」
「新しい事業?」
「旧ケイリー伯爵邸を改装してホテルにする計画だそうだ。ついてはホテルマンの経験があり、かつマーシャル家の端くれであるわたしに責任者として参加してほしい、と」
「断固反対する!」
突然、起こした体ごと寝台が揺れるほどの勢いでジェイムズは枕を殴り、怒鳴った。
「そのような人の弱みを突くやり方、私は断じて認めない。私の恋敵を気取るなら、正面衝突で堂々と戦い、木っ端微塵に玉砕しろ。それが紳士というものだ!」
――完全復活。
どこからかひらひらと舞い降りたその言葉を、何となく嬉しく思えないのは何故だろう。
自分が看護人失格なのか、ジェイムズが病人失格なのか、もはや考えるのも虚しい。
「誘いに乗っていたら、今ここにいるはずがないだろう。詳細については午後の打ち合わせで話すおつもりだったようだから」
「…君は、それでいいのか」
一瞬前の激情を放り出し、レジナルドの痛みを計るように、秘密を訊ねるように声を潜めたジェイムズは、やはり貴族なのだと思う。
一族の誇りの源、由緒ある地所を奪われ、ホテルに改装されてしまう。その言動は規格外だが真の貴族である彼には、耐え難いことに違いない。
しかしレジナルドにとって、旧ケイリー伯爵邸は痛みと寂寥感を生み出しこそすれ、昔日の面影を偲んで惜しむ対象にはなり得ない。
何でもないという風に首を振ると、ジェイムズは重ねて訊ねてくる。
「何と言って断ったんだ」
「旧ケイリー伯爵邸より君が大事だと言ったんだよ」
デュシュッド氏はジェイムズと旧ケイリー伯爵邸を秤に掛けるような言い方をしていたから、結果的にはそういうことだろう。
何の含みもなく口にしたが、途端にジェイムズの目の色が変わった。身を乗り出すようにしてレジナルドの手首を掴んで引き寄せ、耳元に唇を寄せる。寝台の上に手をついて体を支える不自然な姿勢に、レジナルドは眉をひそめた。
「ではアルバートは?あいつが熱に倒れても、客を放って看病に残ったか?」
「アルバート?彼にはエリィがいる。私の出る幕などないよ」
「エリオットだったら?」
「アルバートが病身の従僕を放っておくような冷血漢とは思えないけれど」
「ではどうして私の看病に来た。ここに残った」
「だって君には面倒を見てくれる人がいないから――」
言い掛けて思い出した。
ジェイムズの実家ブラックウェル侯爵家は、ロンドンにも邸宅を構えている。車を飛ばせばすぐの距離で、屋敷には多数の使用人が働いているはずだ。
「いや、よく考えれば実家に連絡してもらえばよかったんじゃないか。何もわたしが来なくても、誰か寄越してもらえば」
「そうだ、私には君しかいない。君しか要らないのに」
力の抜けたレジナルドのぼやきは、熱風のような乱暴な囁きに押し流された。
「どうして君は私が要らないのだ。まったく不公平だ。何が嫌だ、どこが気に入らない。欠点など私のどこを探しても見当たらないが、もし君が不満に思うところがあるなら――」
「あるなら?」
「そんなものは錯覚だと、納得するまで教えてやる」
いかにもジェイムズらしく、傲慢に言い切った。
追い詰められたような焦れた眼をして、狂おしくレジナルドを求める男。正気の沙汰ではない。高熱で脳をやられてしまったのかと思う。
そう冷静に断じると同時に、胸の中に満ちる歓喜を自覚しないわけにはいかなかった。
最愛の母が思い浮かべた最後の風景に、自分の居場所はなかった。父の死後、二人で生きていくために用意した『家』も必要とされず、振り切るように母は父の元へ行ってしまった。
そんな自分を、欲しいと切望する人がいる。柄にもなく弁当を作って日参し、めくるめく超絶話法でレジナルドを悶絶させて、それでも諦めずに口説き続けている。地位も富も名誉も優れた容姿も、この世のすべてを手にしたような倣岸不遜なこの男が今、自分を求めて身を捩るように苛立っている。
――握り込まれた手首が熱い。
「ジェイムズ…君の手、熱いよ。また熱が上がったんじゃ――」
体温を確かめようと、掴まれていない方の手を額に触れた瞬間、最後まで言葉を終えることを許されず強く体を引かれた。
反転する視界、ジェイムズで覆い尽くされる視界。
「熱のせいではない。欲情しているからだ、君に」
一体何が起こったのか。起きているのか。
呆然と見上げるレジナルドに、その熱を分け与えるようにジェイムズは顔を寄せた。
「この体で、私の熱を冷ましてくれ」
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