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英国紳士の恋の作法(1)

 ザ・ジャロルズ、四〇一号室。  快適に整えられた寝室に豪奢な応接間、重厚な書斎を備えたこの部屋はロイヤルスイートで、主に賓客の宿として利用されてきた。しかし最近、ろくに顔出しもしないくせに帝都ロンドンの社交界の噂の中心である青年実業家、ジェイムズ・アスター卿の執務室として借り上げられ、その予約は「とりあえず」半年先まで押さえられている。  大英博物館に近いからという理由でニュー・オックスフォード・ストリートに事務所を構え、今回新たに社長室をザ・ジャロルズに設置すると言い出したジェイムズに、J&M商会の副社長マイケル・トムソンは当然猛反対した。高級ホテルのロイヤルスイートは安くない。経費節減をモットーとするマイケルに、ジェイムズの提案は許し難い浪費だったのだ。  しかし、いつものことながら久しぶりに出社してきたジェイムズが「とりあえず半年でいい」と一応の期限を示し、それでも「浪費反対!」と頭から湯気を立てるマイケルに、 「ザ・ジャロルズに部屋を押さえている限り、私は毎日そこにいるし、仕事もする。先方が出向くというなら取引先にも会うし、昼休みに部屋に戻れるなら、くだらない会合に足を運んでやってもいい」 と宣った時には、迷うことなくザ・ジャロルズに予約の電話をかけていた。 「社長として当然のことだろうが、恩着せがましく言うんじゃねぇ」  もちろん、毒づくことも忘れなかったが。  手痛い出費ではあるが、投資した分は確実に回収するのが信条の敏腕副社長は、ここぞとばかりに仕事を回してジェイムズを働かせ、十分に元は取っている。この調子でジェイムズが勤勉な社長を続けるのであれば、四〇一号室を永久に借り上げてもいいと思い始めているマイケルだ。  ジェイムズの想い人がザ・ジャロルズに勤めているらしいことには、薄々気づいていた。彼女の影響でジェイムズが社長の勤めを果たすようになったのであれば、その存在の大きさを無視することはできない。彼の恋路を邪魔するのはJ&M商会の未来にとって得策でない以上、多少の出費には目を瞑らなければならない。  そういう訳で、マイケルは毎朝ザ・ジャロルズに寄り、一流商社を動かす共同経営者としてジェイムズと打ち合わせを行い、それから本社に出社するのが日課となっていた。  それにしても気になるのは、J&M商会の株価同様に社の未来に影響を及ぼす、ジェイムズの恋の行方だ。 「ところであんたとその想い人は、その後どうなってんだ?」  意を決した今朝。  業務報告を終え、机上に広げていた書類をまとめて鞄に突っ込むと、マイケルは何気ない風を装って訊ねた。 「まさかあんたがしくじるわけはないよな、もう落としたか?」 「…半落ちだ」  書斎の椅子に体を預けたジェイムズは、難解なパズルに挑んでいるかのような顔で嘆息する。 「この私に愛されて何を思い悩むことがあるのか。さっぱり理解できん」  傲慢な言い草だが、一理ある。世の人々が羨むすべてを持つ男に愛されたなら、階級差を乗り越える覚悟さえあれば、高水準の生活が保証され人生は安泰だろう。 「その上、仕事があるなら全うしろ、ただ自分に愛を囁くだけの男に興味はないなどと言い出す始末だ。働く男の魅力を見せてみろというから、家から眼と鼻の先のホテルに部屋を取って、朝っぱらから君などと仕事の話をしなければならなくなった。まったく理不尽だ」  ――おお、我が女神よ。  マイケルは、これからの人生、ジェイムズの想い人を女神と崇めていくことを決意した。  彼女がその真っ当な言動でジェイムズを導き、J&M商会に利益をもたらしてくれるなら、万難を排して二人の仲を応援しよう。四〇一号室どころか、必要であればザ・ジャロルズ全館を借り上げてでもその恋を守ろう。 「働く男の魅力、結構じゃねえか」  鞄を手に立ち上がったマイケルの強気な口調に、ジェイムズが片眉を跳ね上げて反応する。社長としては最悪だが、意外にも可愛い男だ。いつもは他人など眼中になく唯我独尊を地で行くくせに、恋に焦れて、他人の言葉にも敏感に反応している。  内心で含み笑いしつつ、マイケルは挑発するように心からの忠告を投げつけた。 「男の色気ってのは、そういうところに見え隠れするものだろ。存分に見せつけて、あんたに溺れさせてやれよ。御託を並べる余裕もなくなるくらいにな」  言いたいことを言ってさっさと退散したマイケルが消えた扉を睨み付けたまま、ジェイムズは行儀悪く頬杖をつく。  実際のところ、ザ・ジャロルズに部屋を持つことをジェイムズに決意させたのは、レジナルドの言葉だけではない。  あの気障なフランス野郎が、旧ケイリー伯爵邸に関する事業で、いまだにレジナルドに言い寄っているらしいのだ。  レジナルドがそのやさしい顔に『哀しみの聖母』と称えられた微笑みをのせ、 「諦めない、と言われてもね…」 困ったようにため息を(ついた時)には、トラファルガー・スクエアの巨柱の上に立つネルソン像を、あのフランス野郎の鼻の穴に突っ込んでやろうかと本気で考えたくらいだ。  ザ・ジャロルズに腰を据え英国での事業を展開させているらしい敵を前に、フロントマネージャーというレジナルドの立場はあまりに無防備に思えた。自分が男の欲望の対象となり得ることを自覚していない子羊は、牙を剥く狼に会っても礼儀正しく挨拶しているのだろう。だからこそ呑気にフランス野郎と歓談し、その結果困ったなどと言っている。自業自得だ。  しかしそもそもは、自分が狙われているとは思っていないレジナルドと、強く注意を促しても受け流されてしまうジェイムズの関係に問題があるのだが。心からの忠告を軽くいなし、「ウィズリーの昔ならともかく、年を取った今そんなことを言うのは君だけだ」と呆れたレジナルドを、ジェイムズが壁際まで追い詰めて、「ウィズリーの昔」について甘く鋭く詰問したのは言うまでもない。  一度は腕の中に捕らえ、手に入れたと思った。寝台(ベッド)の中で存分に抱いて責め抜き、その媚態でジェイムズの理性を蒸発させるほど艶かしく、レジナルドは啼いて乱れた。  初めての相手に一切の手加減をしなかった過度の情交は、ジェイムズの愛を拒む以前に認めようともしない頑なさと、男の欲望に対する無防備さへの仕置きも込めており、当然レジナルドの体に過剰な負担を強いた。翌日は完全に腰が抜けてしまい、またあらぬところが炙られるような感覚に立ち上がることもできないレジナルドは、その次の朝までジェイムズ宅で過ごすことになった。  荒淫のせいで微熱も出し、寝台に撃沈するレジナルドを尻目に、看病に来てもらい全快したが風邪を移してしまった、今日は一日休ませたいと、保護者面でいけしゃあしゃあとザ・ジャロルズに電話する悪童を、レジナルドが顔を赤くして睨みつけていたのは言うまでもない。  その日一日を愛する人と自宅で過ごし、忠実な従僕(ヴァレット)のように何くれと世話を焼きつつ、時に唇を盗んでは怒られる甘い時間を過ごしたジェイムズは幸せだった。夜はさすがに手を出すのを控えたが、緊張する体を抱き寄せて、同じ寝台で安らかな眠りに落ちながら、ジェイムズはこれまで感じたことのない充足を感じていた。レジナルドこそが魂を分かち合う伴侶なのだと、改めて確信した。  それなのに一夜明けて服を着てしまうと、レジナルドは呆れるほどこれまで通り――むしろ監督生(プリフェクト)の迫力を増してジェイムズの愛に切り返してきたのだ。  冷たいわけでもよそよそしいわけでもない。やさしくたおやかな雰囲気も変わらない。  ただ時折言葉の端々に、眼差しの奥に、細く辛辣な針をひそませるようになった。それはまさにウィズリー時代の、レジナルドの監督生としてのやり方だ。力に訴えることはしない代わりに、微笑みと眼差しで『(カレッジ)』の悪童共を仕切っていた頃と同じ――否、その後の人生で辛酸を舐めた分、凄みが増している。 (あれほど愛を告げたのに、何故(なにゆえ)悪童に格下げなのだ!)  その自覚がないだけに、悪童の苦悩は深い。 「君と、ああいうことになってしまったけれど」  事後の、浴室での後始末のあと。  満足に動くことのできない体に自分の寝間着を着せ、ジェイムズは敷布(シーツ)を取り替えた寝台にレジナルドを横たえた。従僕のように寝台卓(ベッドテーブル)を整え、台所で湯を沸かして珈琲を淹れ運んでやる。小さく礼を言って碗を受け取ったレジナルドは、青ざめた顔で、しかし瞳の奥に何らかの決意を固めた様子で口を開いた。 「わたしは男で、これまで男を好きになったこともない。君が男のわたしに抱いている感情は、正直理解し難い」  妙なことを言う。ジェイムズはレジナルドを愛しく思い、「愛している」と何度も告げた。ジェイムズがレジナルドに抱いている感情はそれ以上でも以下でもなく、理解するしないと悩むようなことではない。  愛している。それだけだ。  単純な事実を難解な問題に解釈する複雑怪奇なレジナルドの思考こそが理解し難い、とジェイムズは眉根を寄せる。 「君は大切な友人で…君がくれた言葉を嬉しく思うわたしもいる。でもそれは、君の言う愛というものではないかもしれない。自分の気持ちがよくわからないんだ」 「話の要点がわからん」  俯きがちにぽつりぽつりと言葉を紡ぐ様子は途方に暮れた子供のようで可愛らしかったが、焦れたジェイムズは一蹴した。 「だが察するに、君が恋人としてわたしと向き合うには、理由や言い訳といった小細工が必要ということか?」 「小細工で成立する関係って…それは不自然じゃないか。わたしとしてもこの状況は手に余るんだ。だから、」  ――なかったことにしよう。  ジェイムズの腕の中に閉じ込められている間、何度も吸われて赤く色づいた唇がそう動く前に、ジェイムズはすかさず釘を刺した。 「待ってやる。君が納得できる答えを出すまで。だから今まで通り私と昼食をともにし、休みの日にはデートもするのだ」 (――そして隙を見せて、私の手に落ちてこい)  譲歩してもいい、だが退路は断たせてもらう。  ほっとしたような落胆したような不思議な顔で黙り込んでしまったレジナルドを、それ以上追い詰める気にもなれず、寛大にもジェイムズは持久戦に甘んじることにしたのだ。  だが。  待つと言ったのは自分だった。しかし監督生面で接してくれとは一言も言っていない。  父母の愛がもたらした結末を恐れるあまり、どんな愛にも狂気の一面があり、その狂おしさゆえに己を見失う時もあることを認められないレジナルドに、ジェイムズの強引に奪う愛は受け入れがたい。それでも、そうして距離を置かなければ、すべての禁忌を横においてジェイムズの与える温もりを貪り、自らの抱える傷を癒すために利用してしまいそうな自分を、レジナルドが何よりも恐れていることを、唯我独尊の天才は知らない。 「理由がなければ天才の愛に応えることもできない。凡人とは哀しい生き物だな」  呟いて、ジェイムズは天才ゆえのため息を吐いた。

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