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前触れ

「私が通うようになってから、おまえの背に触れる者はいなくなったな――私以外」  同時に果て、快楽の余韻と背徳の交わりに対する罪悪感に身を苛まれながら荒い呼吸を繰り返していた梟の耳に、背後から満足そうな囁きが送り込まれた。遂情とともに悪霊の呪いは少しずつ薄れていき、けれどたった今まで晒されていた行為に、自由を取り戻しても身動ぎすら億劫だ。    最悪の強姦に引き裂かれた梟の傷が癒えてから、二ヵ月が経とうとしていた。  蜻蛉は殆ど毎夜のように部屋を訪れ、梟がどこに隠れようと見つけ出し、寝台に引き上げてその体を拓くことに深い愉悦を覚えているようだった。こんなことは嫌なのだと、剣を持つ者の矜持を挫くのだと訴える梟に耳を貸すことはなく、快楽に弱い体をあざとくも籠絡して、その反応こそが梟の本心だと宣ってはばからない。  相互不理解の上に成り立つ二人の夜は、呪いが続く以上、梟に逃れる術はない。椿に前を搾られることはあっても後ろを弄られたことはなく、何も知らなかったそこは無垢だっただけに、蜻蛉の愛撫を覚え込むのも早かった。  最初の冷酷無比な強姦以外、蜻蛉が仕掛けてくる行為は濃厚であっても凶暴ではない。気持ちの上では心底嫌で汚らわしい行為だったが、だらしない体は諾々と蜻蛉から与えられる快楽の言いなりになってしまう。そのことも蜻蛉の強気を増長させる一因なのだと思うと、この状況を打開する術がまるで見つからず、梟は暗澹たる日々を過ごしていた。  そんな状況で迎える、帝国最強騎士との試合。 (その相手に、女のように抱かれるなんて…)  結局、帝国騎士団にも公募で集めた剣士にも、先代『青龍』である蜻蛉以上の使い手はいなかったのだ。模擬試合には毎回同行したが、騎士として名乗りを上げることはせず、梟の剣技を見極めるように観戦するだけだったのは、梟を『四神の近衛』に望む皇帝の隠し玉のような存在だったからだろう。梟の記憶にはないが、以前梟に敗れて以来、蜻蛉はその剣技に一層の磨きをかけて雪辱の機会を待っていたに違いない。  明日の試合相手が明かされたのは、今日。  御前試合は夕刻からで、蜻蛉いわく「手加減した」交わりの影響が残るとは思えなかったが、前夜にまで手を出してくる男の神経が信じられない。 「明日の試合でおまえが勝てば、もう言い訳はきかない。おまえは青龍となり陛下のものとなる」  枕を並べて、しかし腕枕で梟を背後から抱き込みながら、蜻蛉は、散々吸われて腫れぼったく赤い梟の胸の突起を指先で悪戯している。立ち上る快感を堪えようとして、しかしかすかな喘ぎ声を洩らす唇を振り向かせて吸い上げてから、蜻蛉は何かを確かめるように告げた。 「私が勝てば、神聖騎士を倒した私は再び青龍に戻れる。その時梟はどうする?」 「扇屋に…」 「帰らせると思っているのか、私が。それにこんなに熟れた体で、元の用心棒に戻れるとでも?私が娼館の主なら、最高級の男娼として値を吊り上げ、大尽どもから大金をせしめるよう差配するぞ」 (椿と強姦魔《おまえ》を一緒にするな)  悪態の一つも吐きたいが、胸をいじっていた手がするすると腰に下がり、ようやくおさまった肌の下の熱を再び熾すように撫でさすられては、息が跳ねて何も言うことができない。 「それに私が邪魔しなくても、おまえは帝都から――いや、この皇宮から出られないかもしれない。そうなると厄介だが…」  不埒な手が不意に悪戯をやめ、梟の体に絡みついた。そのままきつく抱きしめられる。らしくない縋るような仕草は、この傲岸不遜な男には似合わないものだ。 「蜻蛉?」 「この部屋でおまえだけを襲った悪霊について、ずっと考えていた。三年前の事件がお蔵入りになっていることも」  事後の寝物語にしては剣呑な話題に、強引にもたらされた禁断の快楽に霞んでいた頭が瞬時に目覚める。向き合って真面目に聞こうとするのに、力強い腕がそれを許さない。 「神聖騎士ユリウスが斬られた時、少しでも怪しいと思われる者は一人残さず徹底的に調べられ、全員がシロだった。警察と騎士団の総力を挙げての捜査にも関わらず、容疑者一人挙げられなかった」  帝都の大使は、帝国における至聖神教の代表者。そのお付き武官を務める神聖騎士が襲われたのだ。帝国の威信をかけて捜査が行われただろうことは容易に想像できる。それでも容疑者すら見つからなかったのは、確かに不自然といえば不自然だった。  犯行は厳重に警備された、ある意味巨大な密室といえる皇宮で行われた。入るにも出るにも不自由する空間で、どうして犯人は風のように消えることができたのか。 「ただし、宮殿内の帯刀も怪しい行動も咎められない人間が、皇宮に一人だけいる。この部屋に自由に出入りし、衛兵もそれを見なかったことにする人間も」 「それは…」  思わず、絡みつく腕に手を重ねた。信じられない思いで振り返り、背後の男の真剣な眼差しに梟は絶句する。  そんなことが許される人間がいるとしたら、それはこの世にただ一人。皇宮の主――皇帝だ。

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