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傷痕②
鈴真の視界に、無造作に置かれたハサミが映る。次の瞬間、それを掴んで自分の頭から生えているケモノの耳を切りつけていた。
こんな醜いもの、今すぐ切り落としてしまいたい。両親に必要とされない自分なんか、生きる価値もない。
腕を赤黒い血が伝い、ぽたぽたと床に落ちる。耳が焼けるように痛い。それでも鈴真は耳を切りつけるのをやめない。
「……何してるの」
いつの間にか、ドアのところに朔月が立っていた。朔月は素早く鈴真に駆け寄り、彼の手からハサミを取り上げた。
「返せ……返せよ……!」
鈴真は朔月からハサミを奪おうと手を伸ばす。だが、朔月はハサミを床に投げ捨て、血で真っ赤に染まったハサミが甲高い音を立てて遠くの床に転がる。
鈴真はハサミから滴り落ちた血で床板が汚れるのをぼんやりと見ていた。そんな鈴真の身体を朔月が引き寄せて、きつく抱きしめる。
「鈴……大丈夫だよ。大丈夫だから落ち着いて」
朔月は鈴真の背中を優しく撫でながら、冷静な声で語りかける。
鈴真はしばらく呆然と朔月に抱かれていたが、やがて腹の底から怒りが湧いてきて、朔月の腕の中から逃れようとめちゃくちゃに暴れた。その拍子に鈴真の爪の先が朔月の頬をガリッと嫌な音を立てて引っ掻いたが、それでも朔月は鈴真を離そうとしない。
「なんで……なんでだよ。なんで僕じゃなくてお前なんだ……なんで、なんで……!」
なんで、と繰り返しながら、行き場のない怒りを朔月にぶつける。切りつけた耳から伝い落ちた血が、朔月の髪や頬を濡らしていく。
「鈴」
その時、突然ふたりの唇が重なった。朔月に口付けられているのだと理解した鈴真は、驚いて動きを止める。朔月の唇は温かく、鈴真を労るように優しく触れてくる。気付くと、鈴真の瞳からはぼろぼろと涙がこぼれ落ちていた。
「僕はどこにも行かないよ。ずっとここにいる。僕が鈴を守る。だから、泣いていいんだよ。もう我慢しなくていい」
朔月は鈴真の額に自分の額をくっつけて、涙で濡れた頬を両手で包み込み、安心させるように微笑んだ。
鈴真の脳裏に、幼い頃の記憶が蘇る。寂しさで息ができなくなった時、朔月だけが気付いていつの間にかそばにいてくれた。
「朔月……朔月……っ」
自分でもよくわからないまま、すがるように朔月の名前を呼んで、彼にしがみついて思いきり泣いた。声が嗄れるまで泣き続けて、そのうち身体から力が抜けて床にへたり込む。朔月はそんな鈴真の身体を支えながら、ずっと抱きしめていてくれた。
その夜は朔月が作ったお粥を食べて、ひとつのベッドでぴったりとくっついて眠った。
それから数日後、鈴真はようやくベッドから起き上がり、普通の生活を送れるようになった。
鈴真が自分の身体を傷つけることを朔月が極端に嫌うのは、おそらくこの時のことが原因だろう。
鈴真の中から、両親に捨てられた心の傷が消えることはない。耳の傷は癒えても、未だに鈴真の心は深い哀しみと孤独に満ちている。
あの時朔月に慰められたのは確かだが、それでも鈴真はまだ朔月を許すことはできない。それなのに朔月に従ってしまうのは、血の契約のせいだけではないことを、鈴真はどこかで気がついている。だけど、まだそんな自分を受け入れられずに、見て見ぬふりをしていた。
朔月が自分の孤独を少しずつ癒していっていることを、今の鈴真には認められなかった。
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