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種族の壁③

 気付けば、教室内には鈴真と朔月、そして夕桜と灰牙しか残っていなかった。四人の間に微妙な空気が流れる。 「……えっと、とりあえず僕らは先帰るね。鈴真くん、また明日」  夕桜は気まずそうに苦笑いして、そっぽを向いている灰牙の手を引き、教室を出た。  ふたりきりになると、朔月がぽつりと呟いた。 「ごめんね、鈴。怒った?」  まさか謝罪されるとは思わなかった。別に彼が悪いわけではないのに。 「……もう、いい」  鈴真は結局それしか言えなかった。怒ってはいたけれど、朔月が代わりに怒ってくれたから、もういい。そう言いたかったのに。 「ふたりとも、今日は気まぐれに僕についてきたんだ。でも、来させるべきじゃなかった」 「もういいって言ってるだろ」  朔月の言葉を遮り、鈴真は握られた手に視線を落とした。朔月の人差し指に、切り傷のようなものが見える。思わず彼の手を引き寄せてその傷を凝視すると、とっくに出血は止まって血が固まっていた。 「どうしたの?」  話しかけられて朔月のほうを見ると、彼は驚いた顔をしている。 「……これ」 「え?」  鈴真が朔月に人差し指を見せると、彼は「ああ」と納得したように頷いた。 「多分、紙で切ったんだ。先生に課題のノート運ばされたから、その時かな」  どうやら朔月は自分の怪我には鈍感らしい。鈴真に対しては過保護すぎるくらいに怪我ひとつで大騒ぎするのに。 「消毒して?」  朔月が怪我をした指先を鈴真の口元に持っていく。彼の意図を察した鈴真は呆れたように溜息をついた。 「もう血止まってるだろ。それか保健室に行け」 「鈴に消毒して欲しいんだよ」  最初からこちらの言うことなど聞く気はないらしく、朔月は嬉しそうににこにこしながら鈴真が動くのを待っている。鈴真も、もとより朔月の「お願い」には逆らえない。  やがて鈴真は朔月の指先を口に含み、かすかに鉄の味がする傷口を舐めた。朔月は満足そうに鈴真を見ている。 「鈴って、あの子達と仲良いの?」  あの子達、と聞いて、夕桜と灰牙の顔が頭に浮かんだ。鈴真は問いに答えるために朔月の指から唇を離すが、朔月に「まだ消毒終わってないよ」と言われて仕方なくもう一度口に含む。 「鈴は、僕以外の人にもこういうことするのかな」  そんなわけない、と言いたかったが、指を含んだままなので答えられない。 「あの子達は、鈴と毎日一緒のクラスで授業受けてるんだね。羨ましいな」 「……」 「でも、こんなことするのは僕にだけだよね? ほかの人にはしないよね」 「……」 「キスも、それ以上のことも、鈴は僕としかしないよね? ねぇ、そうだよね?」  朔月は、鈴真が言葉を発することができない状態なのに、答えを要求する。おそらく、余計なことを言わせないためだろう。鈴真が朔月の問いに答えるには、首を振ってイエスかノーかを伝えるしかない。 「鈴、答えて。僕としかしないよね?」  朔月にもう一度問われて、鈴真は俯きながら首を縦に振った。  この「消毒」も、キスも、それ以上の行為も、朔月以外の人間としたくはない。それは本心だった。 「もういいよ。ありがとう」  朔月はそう言って鈴真の口から指を引き抜き、唾液で濡れた指先をハンカチで軽く拭った。 「遅くなっちゃったね。帰ろうか」  先に教室を出る朔月の背中を見ていたら、もう口は塞がれていないはずなのに、鈴真は喋る気になれなかった。  羨ましいな、と言った朔月の言葉が脳裏に浮かぶ。  鈴真は一宮家にいた頃から、朔月とは別々の学校に通っていた。鈴真は私立の学校、朔月は普通の公立の学校。だから、ふたりが同じクラスで授業を受けたことはない。そして、鈴真がケモノで、朔月がヒトである限り、これからもふたりは絶対に同じクラスにはなれない。  今まで朔月と同じクラスになりたいなんて思ったことはなかったのに、想像してしまった。同じクラスで、少し離れた席から朔月がノートをとっている姿を眺める日常を。ふたりが同じ種族であったなら、きっとそれはありふれた光景だった。  だけど、先程の冬音達の言動が、クラスメイト達の反応が、改めてふたりの──ヒトとケモノの間にある深い溝を、鈴真に見せつけた。そしてそれは、おそらく朔月も感じたのだろう。だから朔月は、鈴真に問いかけたのだ。  僕としかしないよね。  鈴真が頷くまで、何度も。 (……くだらない)  鈴真は廊下を歩きながら、前を行く朔月の背中を見つめた。  手を伸ばせばすぐに届く距離。それなのに、その背中はいつもよりも遠くに感じられた。

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