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振り返れば、そこに①

「鈴」  澱んだ意識の中に、聞き慣れた声が響く。それは波紋のように広がって、鈴真の閉じかけた心を揺らす。 「鈴、大丈夫?」  今度ははっきりと耳に届いた。ずっと聞きたかった声。  鈴真は声に導かれるまま、うっすらと目を開いた。霞んだ視界が徐々にクリアになり、ただひとりの顔を映し出す。  ──朔月だ。珍しく焦燥を滲ませた顔で、食い入るように鈴真を見ている。 「……大丈夫」  掠れた声で呟くと、朔月はほっとしたように息を吐き出し、鈴真の髪を大切そうに撫でた。 「神牙くん……! どうしてわかってくれないんだ!」  悲痛な叫び声がしたほうに視線をやって、鈴真は目を瞠った。夕桜を押さえつけていた生徒達がボロボロになってその場に倒れ伏している。そして、リーダー格の少年も頬から血を流し、腹を庇いながらこちらを睨みつけていた。  夕桜は呆然と座り込んでいて、鈴真はこの状況から朔月が彼らを痛めつけたのだと判断した。 「鈴、立てる? 保健室行こう」 「あ、ああ……」  朔月は少年の言葉など聞こえていないかのように無視し、鈴真の身体を支えて起き上がらせる。すると、少年がふたりの前に立ちはだかり、なりふり構わないといった様子で唾を飛ばしながら叫んだ。 「君のような優秀なヒトにはそんな下等生物は相応しくない!」 「……うるっせぇな……」  横から舌打ちが聴こえて、見ると朔月は苛立った様子で立ち上がり、少年の胸倉を掴んで思いきり殴り飛ばした。その衝撃で少年の身体が吹き飛ぶ。 「ヒトとかケモノとか、そんなちっせぇことにこだわってるから、てめぇはクズなんだよ」  そう吐き捨ててから、朔月は鬱陶しそうに前髪をかきあげて、今まで見たこともないような表情を浮かべた。迷いのない、何かの覚悟を決めた人間の顔で、誓うように告げた。 「僕は鈴がヒトでもケモノでもどっちだっていい。ただ今は鈴がケモノだからケモノの鈴が好きなだけだ。ヒトよりも劣っているから鈴は努力家で真面目だし、お前が醜いと言った獣耳や尻尾は鈴の気持ちを素直に僕に伝えてくれる。僕はそんな鈴を美しいと思う。僕は鈴がケモノだから愛してるんだ」  そう言った朔月の横顔は、晴れやかで一遍の曇りもない。そこにあるのは、鈴真への純粋な愛情だけだった。  鈴真は、気がつくと涙が止まらなくなっていた。  どうして疑ったりしたのだろう。こんなにも自分を愛してくれる人が、ずっとそばにいてくれたことに、なぜ今まで背を向け続けてきたのだろう。  ただ、誰かに愛されたかった。鈴真の中にはそれしかなかったのに、朔月だって同じはずなのに、彼は鈴真とは違う道を選んだ。  やり方は間違っているし、歪んでいるとも思うけれど、それでも彼はただまっすぐに鈴真への愛を差し出してくれていた。あとは鈴真がそれに気付いて、受け取ればいい。ただそれだけでよかったのだ。 (──もう迷わない。僕は、朔月のことが……)

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