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雨の夜④
「……鈴?」
ドアが開き、朔月が部屋に入ってくる。明かりが点き、朔月のベッドの上でうずくまる鈴真の姿が彼の目に晒される。
「どうしたの、こんな時間に電気も点けず……」
心配そうな響きを帯びた声だった。朔月は身動きできない鈴真に近寄り、その背中をそっと撫でた。
「そうか……雨の夜は苦手だもんね。ひとりにしてごめんね。もう大丈夫だよ」
そう言って、朔月は鈴真の身体を優しく抱きしめた。けれど、朔月の服から甘ったるい香水の香りがして、鈴真は思わず朔月の身体を突き飛ばした。
「鈴?」
鈴真がようやく顔を上げると、朔月は困惑を顔に浮かべてこちらを見ていた。やがて鈴真の頬が濡れていることに気付いたのか、静かに目を瞠る。
「……お前、今までどこにいたんだ」
自分でも驚くくらい、平坦で感情のない声が出た。
──間違いない。昼間、朔月と一緒にいた女性の香りだ。鈴真は香水の匂いが苦手で、特に嫌な香りだったからよく覚えている。鈴真のいた車内から女性までは結構な距離があったが、それでも香りを覚えてしまうくらい、ケモノの嗅覚は発達しているのだ。
鈴真の様子がおかしいことに驚きつつ、朔月は答えた。
「縁談がまとまったから、相手の女性の家にいた。義父さんの容態も落ち着いたみたいだし」
縁談の話や女性といたことを平然と告げる朔月に、鈴真はやはりそうか、と確信した。
「結婚して、そのあとは僕をどうするつもりなんだ」
「どうするって、今まで通りだよ。僕と君は主従関係。君は僕のものだ。それ以外に何があるの」
やはり朔月は、自分が結婚したあとも鈴真をそばに置くつもりのようだった。いずれ朔月と妻の間に子供が生まれて、三人で幸せそうにしている姿を、家族を失った鈴真にずっとそばで見ていろと、そう言っているのだ。
その時、鈴真の中で張り詰めていたものがぷつんと切れた。覚悟していたはずの言葉は思っていたよりもずっと鋭い刃となって、鈴真の心をズタズタに引き裂いた。
──もうこれ以上は無理だ。
鈴真はギリギリと唇を噛んだ。血が滲み、口の中に鉄の味が広がる。それを見た朔月が不愉快そうに眉をひそめる。
「まだ、その癖直ってないんだね」
「……うるさい」
鈴真はベッドから下りて、朔月に向かって思いきり枕を叩きつけた。
「もうお前といたくない。お前なんか大嫌いだ」
そう吐き捨てて、涙で濡れた頬を乱暴に拭った。朔月が「本気で言ってるの」と聞く。朔月が今何を思っているかなんて知りたくもなくて、鈴真は部屋を出ようと歩き出した。
「鈴」
朔月が名前を呼び、鈴真の腕を掴んで引き寄せる。そのまま強引に唇を塞がれて、鈴真は朔月の頬をぶった。
「触るな……っ!」
乾いた音がして、朔月の頬が赤く腫れ上がっていく。最後に見た朔月は、驚くでもなく、怒るでもなく、ただ無表情で鈴真を見ていた。
鈴真は朔月から顔を背け、ドアを開き部屋を出ていった。薄暗い廊下には雨音だけが響き、一刻も早く朔月から離れたくて、早足で歩いた。
だが、不意に鈴真の瞳からぽろりと涙が一筋こぼれた。思わず足が止まる。それから堰を切ったように涙が止まらなくなる。
「……痛い」
朔月によってボロボロに引き裂かれた心が、悲鳴を上げている。鈴真は自分の胸を掻きむしり、むき出しの首筋に爪が当たって血が滲む。
嗚咽を漏らしながら、再び歩き出す。どこにも行く当てなんてないのに。それでも足を動かし続けていると、突然誰かに肩を掴まれる。
「鈴真……どうした」
振り向くと、風羽が切羽詰まった表情で鈴真を見下ろしていた。その顔を見たら、鈴真はもう一歩も動けなくなり、その場にうずくまって泣き崩れた。何も言わずに泣き続ける鈴真を、風羽はいつまでも抱きしめてくれていた。
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