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小さな温もり

 そんなある日のこと。  朔月は、いつも暴力を振るってくる使用人の男に屋敷の外に連れ出された。男は昼間から酒臭く、酔っているようで、イライラしていた。  雪がちらつく真冬の庭は枯れ木が寂しく枝を揺らすだけで、寒々しい色合いをしていた。男は庭を抜け、今は使われていないプールのそばまで来て立ち止まった。そして、朔月の身体を思いきり突き飛ばした。支えを失って投げ出された身体が、頭からプールの中に落下する。幸い、プールには水が張っていた。と言っても、掃除されずに放置された冬のプールは濁っていて、藻が身体に絡みついて身動きが取れなくなる。必死に手足をばたつかせて何とか顔を水面から出すと、男の姿はもうどこにもなかった。落ちた時に水を大量に飲んでしまい、気持ち悪くなって嘔吐した。真冬のプールは想像を絶する冷たさで、すぐに身体が凍えてがたがたと震え出す。溺れかけながらどうにかプールの淵に辿り着き、ようやく水から上がった時には全身藻にまみれて酷い有様だった。  早く着替えて仕事に戻らなきゃ、と理性が叫ぶ。だが身体は全く言うことを聞かず、指一本まともに動かせない。  どれくらいそうしていただろうか。目の前に誰かが立っていた。それが鈴真だと、なぜかすぐに気付いた。 「汚いな。ドブネズミみたいだ」  鈴真は眉間に深い皺を刻み、嫌悪を滲ませた目で朔月を見下ろしていた。朔月は何も答えられなかった。鈴真はすぐにその場から去っていった。 「おい」  いなくなったと思っていた鈴真が、いつの間にか手にしていたタオルを朔月の頭に被せた。 「その汚い身体をどうにかしろ。ぼーっとしてないでさっさと拭け。そして風呂に入れ」  なぜ鈴真がこんなことをするのかわからず、おろおろしていると、鈴真が溜息をついた。そして躊躇いもなく朔月の手を握り、そのまま歩き出した。どこに連れて行く気だろう、とまだぼんやりした頭で考えていると、鈴真は屋敷に入り、朔月の身体からこぼれた滴で床が汚れるのも構わず、風呂場に連れて行った。 「あとは自分でどうにかしろ」  そう言って、鈴真は洗面所で手を洗った。汚いものを触ったあとの念入りさで汚れを落とすと、駆けつけた使用人に床を拭くように命じて今度こそ去っていった。  手を洗う鈴真の顔は本当に嫌そうで、そんなに触りたくなかったのなら放っておけばいいのに、それかほかの使用人を呼んでくればよかったのに、と朔月は思った。  だけど、鈴真に触れられた手がやけに熱くて、この熱がずっと消えなければいい、と願った。

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