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慟哭

 目を覚ました鈴真は、まるで人形のようになっていた。  一切言葉を発することもなく、無表情で、ずっと朔月のベッドに横たわったまま動かない。ガラス玉みたいな瞳には、何も映っていないように見えた。  朔月はせめて食事だけはして欲しいと思っていたが、鈴真はそれも拒否し、彼が負った心の傷の深さにどうすることもできなかった。  ある日、朔月が学校から戻って自室のドアを開けると、鈴真が手にしたハサミで耳を切りつけていた。 「……何してるの」  鈴真は手や服が血で汚れるのにも構わず、ハサミを動かし続ける。  朔月は鈴真からハサミを取り上げ、床に投げ捨てた。そして、痩せ細った華奢な身体をきつく抱きしめる。 「鈴……大丈夫だよ。大丈夫だから落ち着いて」  呪文のように大丈夫、と繰り返しながら、朔月は自分自身に言い聞かせていた。  視界の端に、昨日届いた一宮の父からの手紙が映る。おそらく鈴真は中身を読んだのだろう。朔月は手紙をさっさと捨てなかった自分を責めた。  鈴真は朔月の腕の中でめちゃくちゃに暴れた。その拍子に鈴真の爪が朔月の頬を抉り、鈴真が動く度に彼の耳から飛び散る血で、朔月の身体も赤く染まっていく。 「なんで……なんでなんだよ。なんで僕じゃなくてお前なんだ……なんで、なんで……!」  鈴真の悲痛な叫びを聞きながら、朔月は鈴真の身体を押さえつけ、抱きしめ続けた。  鈴真をここまで追い詰めたのは、きっと自分だ。自分の存在が鈴真を苦しめている。だけど、それでも鈴真から離れることはできない。そう思うのは、鈴真のためなんかじゃなくて、自分のためだ。そのことを、朔月は強く思い知った。 「鈴」  鈴真にそっと口付けると、彼は突然動きを止めた。できるだけ優しく、彼が安心するように背を撫でながら、わなわなと震える唇を包み込む。  しばらくして唇を離すと、鈴真は泣いていた。とめどなく涙が彼の頬を伝い、顎から下にこぼれ落ちる。 「僕はどこにも行かないよ。ずっとここにいる。僕が鈴を守る。だから、泣いていいんだよ。もう我慢しなくていい」  ずっと伝えたかった言葉を、ようやく口にすることができた。  もうここに一宮の両親はいない。だから、無理して頑張る必要もないし、泣くのを我慢する必要もない。  朔月は今まで鈴真を笑わせることばかり考えていたが、そのためにはまず鈴真が安心して泣ける場所を作らなければいけなかったのだと、ようやく気付いた。 「朔月……朔月……っ」  鈴真は朔月の背中に腕をまわしてしがみつき、声を上げて泣き崩れた。朔月はそんな鈴真をずっと抱きしめ続け、胸に広がる甘い疼きにこれが愛しいという感情なのだろうか、とぼんやり思った。  それから鈴真は少しずつ普通の生活が送れるようになった。学校に通う気力はないらしく、ずっと朔月の部屋でゴロゴロしているのは相変わらずだが、彼は今まで頑張りすぎたので、その分ゆっくり休んで欲しいと朔月は思っていた。 「鈴真くんはどう? 大丈夫そう?」  ダイニングで夕食を摂っている時に養母が聞いた。  養父母は宣言通り鈴真のことは朔月に任せきりで、必要以上に干渉することはなかったが、たまにこうして鈴真の状態について聞いてくる。 「少し落ち着いたみたいです。あとでキッチンを借りていいですか? 鈴の夕食を作りたいので」 「構わないわよ。それにしても、本当に一宮夫妻は鈴真くんを手放す気なのね」  養母がスプーンを口に運びながらしみじみと呟く。 「だけど、朔月が助けなければ、あの子は今頃どうなっていたことか……」  含みのある言い方に、朔月は手にしたグラスをテーブルに置いた。 「どういうことですか?」  朔月が聞くと、ふたりは顔を見合わせて、「鈴真くんには内緒よ」と囁いた。 「一宮夫妻は、どうやら鈴真くんをケモノの愛好家に売り飛ばすつもりだったみたいなのよ。酷い話よね」  ──ケモノの愛好家。ヒトの中には、ケモノを愛玩動物みたいに扱って愉しむ連中がいるとは聞いていたが、彼らがケモノを性欲処理のために使っているらしいことを知っていた朔月は、嫌悪感に吐き気がした。  少しでも朔月が出遅れていたら、鈴真は道具みたいに扱われて今よりももっと酷い目に遭うところだったのだ。そう思うとぞっとした。  幼い頃、使用人の男に鈴真の写真を撮ってくるように命じられたことを思い出す。当時は彼らの話の意味がわからなかったが、今思うと彼らは鈴真を性的な目で見ていたのだろうということがわかる。  まだ幼かった鈴真でそんな醜い欲求を満たしていた彼らを、朔月は心底軽蔑していた。

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