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ルール違反③

 ああ、そうか、と頭の片隅でもうひとりの自分が呟く。鈴真は何も変わってなどいない。変わったのは、朔月だ。鈴真が自分を憎んでいることを当たり前として受け入れていたはずなのに、そばにいるうちに彼が心を開いていってくれているような錯覚を起こしていた。今まで散々酷いことをして傷つけておいて、なんて虫のいい話だ。  自分が愛される価値のない人間だということくらい、知っていたはずなのに。  鈴真が去ったあと、朔月はその場に立ち尽くした。冷えきった手を握りしめ、胸の痛みに耐える自分を、もうひとりの冷静な自分が遠くから見ている。  ──あんた達ふたりは絶対に幸せになんかなれない。  養母の言葉が耳の奥に木霊する。  もう駄目かもしれない、と思った。朔月はいつの間にか、鈴真が自分を好きになってくれることを期待していた。愛されなくていい、どんなに傷つけられたって、彼を守れるのならそれだけでいい。それが自分の生まれた意味で、生きる理由だと思っていた。  なのに、朔月はそれ以上を鈴真に求めた。それはルール違反だ。朔月が自分に課していたルール。決して見返りを求めないこと。  自分の手で鈴真を笑わせて、幸せにする。でもそれは、鈴真が朔月を愛することと同義ではない。朔月は、鈴真がいつでも泣ける逃げ場所として自分を利用してくれればいいと思っていた。全ては鈴真のため。そのはずなのに、いつの間にか鈴真に愛されたいと願う自分を抑えられなくなっていた。そのせいで彼を傷つけても、図々しくそばにい続けた。  もう幼い頃のように、鈴真の幸せだけを願う純粋な気持ちは、朔月の中に残っていない。 「……駄目だ」  呟きは雨音に呑まれてかき消える。  大嫌いだと言われた。自分はもう鈴真のそばにいられない。  朔月はドアを開け、廊下に出た。主従関係を結ぶ生徒達が暮らすフロアの一番端の部屋。そのドアを静かにノックする。 「はい」  出てきたのは、狐耳を生やした金髪の少年。詩雨だった。朔月を見て驚いたように目を丸くし、室内に「風羽」と声をかける。 「どうした? ……朔月?」  奥から風羽が姿を見せた。朔月は風羽に向けて頭を下げる。 「鈴が部屋を出て行きました。僕よりも風羽さんのほうがいいと思うので、風羽さんが探してくれませんか。お願いします」  朔月の声は自分でも奇妙なほどに落ち着いていた。  風羽にだけは頼りたくなかった。だがそれは、彼ならば鈴真を救えるという確信があるからだ。 「事情はよくわからないが……お前はそれでいいのか?」  風羽が困ったように聞いてくる。朔月は頭を下げたまま「はい」と答えた。 「わかった。鈴真を探そう。お前は部屋に戻れ」  朔月の肩をぽんと叩いて、風羽が部屋を出て行く。朔月はその背中に「ありがとうございます」と礼を告げて、部屋へと戻った。  この部屋は、鈴真の匂いで溢れている。熱心に机に向かい、勉強をする鈴真。朝が弱くて、なかなか起きられない鈴真。着替える時、恥ずかしそうにじろじろ見るなと文句を言う鈴真。  全部、好きだった。どんな鈴真も、すぐに思い出せるくらいに愛おしかった。 「……っ」  これ以上ここにいたくない。そう思って、朔月は部屋を飛び出した。

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