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約束のくちづけ③
誰かが呼ぶ声がして、鈴真は辺りを見回した。
周囲は得体の知れない黒い靄に包まれて、見通しが悪い。
「……ま、鈴真さま……」
遠くから、懐かしい声が聞こえる。靄を掻き分けて声の主を探すと、その姿は唐突に現れた。
「鈴真さま……どこ……?」
幼い朔月が、泣きながらこちらに歩いてくる。よく見ると、腕や脚に怪我をしていた。
朔月に近付こうと手を伸ばして、その手が何か透明な壁みたいなものに阻まれたことに気付く。
「朔月……! 朔月!」
壁を叩きながら名前を叫ぶが、朔月には届いていないらしく、彼を包む靄がより濃くなった。本能的に、あの靄は危険なものだ、あれが朔月をどこか遠くに連れ去ってしまうと感じる。
朔月はとうとう膝をつき、魂が抜けたみたいに瞳から光が消えていく。
駄目だ、朔月がいってしまう──そんなの嫌だ。これからずっと一緒に生きていくのだ。そのために、自分が朔月を守ると決めた。今度はもう、その手を離さない。
「朔月! 行くな! 僕のそばにいろ!」
叫んで、目の前に立ち塞がる壁を必死で叩く。
自分と朔月を阻むこんな壁はいらない。ふたりの間に、遮るものなどもうないのだ。だから、こんなものに負けたりはしない。
「朔月……朔月! 朔月!」
声が嗄れるまで叫び続けると、透明な壁にひびが入った。ビキビキと音を立てながらひび割れが広がっていき、とうとう壁が粉々に砕け散る。それと同時に、朔月を包んでいた靄も消えた。
「朔月……っ」
急いで朔月のもとへと向かう。もう一度名前を呼ぶと、彼の瞳に光が戻った。目を丸くしてこちらを見ている。その小さな身体を優しく抱きしめて、鈴真は目を閉じた。
「鈴真さま……」
腕の中の朔月が、戸惑うように呟く。鈴真は苦笑しながら彼の顔を見た。
「いつもみたいに鈴って呼んで。僕は君を助けに来たんだ」
そう告げると、朔月は不思議そうに首を傾げた。ずっと憎らしいと思っていたその顔が、今は愛おしくてたまらない。
ふと、あの靄を呼び寄せたのは朔月ではないのかと思った。最初に見た時、彼からは生気を感じなかった。まるで迷子の子供のように、鈴真の姿を求めてさまよう彼からは、今の朔月のような生き生きとした光は感じられなかった。そして、この朔月はきっと昔の朔月だ、と思った。まだひとりぼっちだった頃の、愛を知らない朔月。
「僕のために生きて、いつか僕を迎えに来て。約束だよ」
この子の未来が暗闇に閉ざされてしまわないように祈りながら、どうか生きて、と願う。
手が離れる直前、朔月はぎこちなく鈴真に微笑み返してくれた。
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