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第8話
唯SIDE
自分とは思えないほど乱れた記憶が、目覚めとともに蘇ってくる。薬で発情状態にされた時よりももっと、狂ったように乱れた。
これが遺伝子で計算されたマッチングの力なのだろうか。
あんなに苦しかったはずの衝動が、すっかりと消えている。僕は綺麗に身支度されている身体に驚いた。
え? これ……神保さんがしてくれたの?
新しいパジャマで寝ていた。びちょびちょになった下半身もすっきりした状態でズボンを穿いている。
ワンルームの部屋のドアから、光が漏れている。玄関とほぼ直結しているキッチン兼ダイニングに、きっと神保さんがいる。
僕は疲れ切った身体を起こして、よろよろと部屋のドアを開けた。
「神保さん、すみません……僕……、って。だれ、ですか?」
見知らぬ男性が、二人用の小さいテーブルセットの椅子に座っていた。
紺色のスーツに、かちっと決めた短髪の男。見るからに仕事ができそうだ。
「あっ! 心配なさらずに。私はオメガですので。パートナーもいます。副社長の秘書をしております田野倉です。副社長から言伝を」
「副社長? 神保さんって副社長なの?」
「桜坂さんの会社では社長を務めてます。が、えっと……」
「え?」
うそ。買収って……神保さんだったの?
これって、僕だけが知らない事実だったのか? 僕が知ろうとしなかったから。
「なんでもない。神保さんからの伝言って?」
「もしものためにピルを飲んでおいてってことと、ヒート中の水分と食料を置いていくから、と。あと、希望する新しい仕事の配属先の希望を……」
「新しい仕事って」
「泣き顔と嫌がる顔はもう見たくないから……って」
「そんな」
僕は神保さんに甘えてもいいんだって思えたのに。
こんな自分でも、愛されたいって感じられたのに……。
「新しい希望の場所は……オメガが休んでも代えのきく企業の清掃員で……お願いします、と伝えてください」
「差し出がましい発言になるかと思いますが。副社長は誰よりも桜坂さんを想っていると思いますよ。マッチングで候補にあがっては人たちとの縁談を断り、さらに社長がセッティングしたお見合いも今日、あったのですが……見事にブッチしましたから。それとネット記事のコピーです。見たくない内容かもしれませんが、副社長のした行為をみてほしいので置いていきますね」
田野倉さんが、テーブルの上にクリアファイルを置いてから立ち上がった。
「じゃあ、私は帰りますね。副社長はただひたすらに社長に認められる人間になるように必死に、走ってきた人です。不器用なんだと思います。もし、桜坂さんに少しでも副社長に対する好意がありましたら、離そうとしている手をぜひ掴んで引き寄せていただけると嬉しいです」
では、と田野倉さんはお辞儀をして部屋を出ていった。
好意があったら? 離そうとしている手を引き寄せて?
オメガの僕に、そんな権利があるはずがない。子どもができにくい身体なのに、離れたくないって言えるわけない。
副社長っていう立場なら、なおさら、だ。後継者が必要な人間を、引き留めるバカがどこにいるんだ。
テーブルに置かれているピルを見つめる。
「『もしも』があるわけないじゃん。馬鹿なの? 僕の話を聞いてた?」
もし、妊娠していたら? ここに子どもが出来ていたら?
一瞬でも愛した人の子だよ? 生むに決まってるじゃん。
「ピルなんかいらないよ、馬鹿神保」
僕は引き留め方なんて知らないから、引き留めてやらない。
離れるなら、離れればいい。
僕はこの先も、誰とも寝ないし……誰とも一緒にならない。
神保冬馬以外は――。
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