9 / 15

第9話「隔離」

 ひなげしの花は枯れ、ニワトコの実が徐々に色濃くなるころ。朝晩の風が涼しくなり、秋の収穫を待つ野菜は色づいてきた。カブや根セロリ、ポワロに玉ねぎ、じゃが芋。一方で、ハーブの茂みには雑草が目立つようになってきた。噴水の水は枯れてはいないが、藻が繁殖している。モリスが庭仕事ができない日が時々ある。  日が沈んだ後、モリスは寝室で休んだ。ダヴィッドの寝室に顔を出したが、今夜は休めと部屋に追い返された。  モリスの顔色がよくない。それに、体に巻かれている包帯も増えてきた。モリスの回復を助ける包帯は、ダヴィッドにはまるで封印のように見える。ここを噛んではいけない、とモリスの肌を封じている物。  ダヴィッドの手が震え出す。羽根ペンを走らせても、判別しづらい文字ばかり書くようになり、まったく進まない。  ダヴィッドは林に出かけた。何でもいい、とりあえず飢えだけしのげば。シャツの上にマントだけを羽織り、ダヴィッドは林を疾走する。ウサギでも、キツネでも、野犬でも鳥でもいい。味がしなくても、モリスの代わりにならなくても――  主がいなくなった屋敷に、長身の影が現れた。玄関の扉の取っ手を押す。鍵はかかっていない。玄関のホールも居間も、どこもかしこも暗い。長身の男は、薄手の外套を着ていた。髪はシルクハットに隠れ、絹の手袋をはめた手にはローズウッドのステッキを持っている。  暗がりを勝手知ったる、というふうに進み、幅の広い階段を上がる。途中のカーブでも蹴つまづくことなく、男は二階に上がった。  靴の音が廊下に響く。一つのドアの前で止まった。取っ手に手をかけ、音もなく開ける。中では、青白い顔の青年が眠っていた。ずいぶん痩せている。ブランケットをそっとめくり、男は眉をひそめた。その手にも足にも、襟から覗く胸元にも、包帯が巻かれていた。  気配に気づき、うっすらと目を開けたモリスは、ダヴィッドではない人影に驚き、声を上げそうになった。男がサイドテーブルにあるマッチを擦り、その隣の燭台に刺さったロウソクに火をつける。  モリスは先ほどとは別の驚きに目を丸くして、ゆっくりと体を起こす。男はシルクハットを取った。ふわりと長い髪が、肩の下まで流れ落ちる。男はゆっくりとお辞儀をした。  シャツが血だらけだ。狩りに出ると、必ずといっていいほど血が付着する。少しなら洗えば落ちるが、ひどいときはいくら洗っても落ちないため、モリスが街に行ったときに何枚か新調してもらっている。今夜もまた、汚れてしまった。動物を何体殺しただろう。ヴァンパイアとしての飢えはないものの、ダヴィッドとしては渇いたままだ。モリスの血が欲しい。体液でもいい、本当は肉も何もかもすべてが。だが、それは望めない。モリスを殺すわけにはいかない。  真っ暗な屋敷に入る。階段を上がりかけたところで、異変に気づく。  モリスの匂いがしない。あの、蜂蜜の甘い匂いに加えて、人間特有の血の匂いが。ダヴィッドは不安になる。こんな真夜中に、どこへ行ったのだろうか。いつもなら、屋敷のドアを開けると微かにモリスの匂いがして、この屋敷のどこかにいると安心できた。そばに近づくにつれ、匂いは濃くなる。嗅覚に意識を集中させると、匂いはより強くなる。蜂蜜の壺に顔を入れたときほどに強く、ザクロの甘酸っぱい匂いも混じったときに、モリスはすぐそばにいる。いつもなら、そうしてモリスを探すのだ。  だが、今は違う。どこからもモリスの匂いはしない。ダヴィッドは二階を見上げる。まったく気配を感じなかった。  渡り廊下に出てみた。モリスが例え地下の貯蔵庫にいても、かすかな匂いでわかる。今は厨房にも貯蔵庫にもいない。  食堂とホールを走り抜け、今度は二階に上がる。無駄とは知りながら、モリスの寝室を開けてみた。ベッドにはもちろん、モリスはいない。 「モリス!」  返事がないのを承知で、ダヴィッドは叫ぶ。振り返り、外に出ようとしたダヴィッドは、サイドテーブルに置かれた紙に気づいた。書斎にあるはずの、丸い鉄製のペーパーウェイトが乗った紙には、見覚えのある筆跡が。ダヴィッドは頭を抱え、うずくまってしまった。  それから数日間、ダヴィッドはほとんど眠ることなく、書斎にこもって小説を書き続けていた。血に汚れたシャツはそのままで、茶色く染みついてしまっている。袖口もインクの汚れで黒い。それでも、着替えたいという気持ちは起こらなかった。いつもなら、インクや血の汚れを見つけたモリスが着替えを用意してくれて、汚れた物は洗ってくれる。それでも落ちない場合は、街の仕立て屋で注文してくれる。  屋敷じゅうから明かりが消えた。厨房から、何の匂いもしない。部屋にはほこりが溜まり出した。無論、シーツも変えられていなくて湿っぽい。せっかく育った野菜も、しおれかけている。  モリスがいないと何もできない、ダヴィッドはそう思い知らされた。だが、庭が枯れ、屋敷が荒れようとも、ダヴィッドにとってはそんなことはどうでもよかった。モリスがいてくれれば。モリスがいるだけで、この屋敷は温かい。目が覚めたとき最初に見るのは、あの鳶色の瞳。煙水晶に似た瞳が細められ、まぶしいほどの笑顔でダヴィッドの名を呼び、手を差し伸べてくれるのが、至上の喜びだ。  そんな小さな幸せさえ、望めないというのか。  夜になると狩りに出かける。動物を捕まえ、血を飲む。辺りに動物の死骸が散らばっているせいか、生きている動物はあまり近寄らず、ダヴィッドはかなり奥の方で狩りをしなければならない。  野ネズミの巣を見つけ、手当たり次第に血を奪い、ダヴィッドはふと我に返る。もしもモリスが帰ってこなければ、血などいらない。このまま林に立ちつくし、朝日を浴びて灰になってしまってもかまわない。  虚しい気持ちでいっぱいのまま、疲れ果てたダヴィッドは林の中から屋敷の陰を見る。二階の部屋に、ほんのりと明かりがついているのが見える。モリスの寝室だ。 「モリス!」  ダヴィッドは走った。動物の死骸を蹴散らし、林を出た。開けっ放しの門をくぐり、雑草が生えた小道を駆け抜け、ドアを開ける。胸いっぱいに空気を吸うと、甘い蜂蜜の香りがした。モリスの匂いだけではなかったが、それを気にするよりも、あの蜂蜜に似た匂いにダヴィッドの嗅覚が集中する。  何度も踏んだ動物の死体のせいで、革ブーツが汚れている。その汚れを玄関で落とすこともせず、泥や腐った肉片をまき散らしながら、階段を駆け上がった。  勢いよくドアが開いた。ベッドには、少し血色が戻ったモリスが眠っていて、傍らには男が椅子に腰かけている。その男もいることは、明かりを見た瞬間に予測できた。書き置きの文字は、よく見知ったこの男――長兄ガブリエルのものであったから。  じっと蝋人形のように微動だにしなかったガブリエルが立ち上がり、長い金髪が揺れる。 「やはり、無茶をしていたようだな、ダヴィッド」  ガブリエルはダヴィッドの背中を押し、廊下に出た。できればモリスを、このまましばらく休ませようと考えた。  二人は書斎に移動した。ガブリエルは飴色の机の前にある椅子に、ダヴィッドは壁際の、ベンチ代わりになるオーク材のチェストに腰かけた。 「アルマン伯爵のパーティーの後、お前があの青年を殺したのだろうと、私は思っていた」  あのパーティーでいきなりダヴィッドが退席し、アルマン伯爵の養子が行方不明となり、城の堀で遺体が発見された。だが、ガブリエルはすぐにおかしいと勘づいた。遺体は全身の血がほとんど無いものの、顔以外は損傷が無かった。 「もしもお前が殺すとすれば、血を飲むだけではなく、体を食いつくすのではと思った。それに、彼を――モリスを殺した後、お前が姿を消す理由はない。おそらく、同じ味を求めてさまようはずだと思った」  ダヴィッドは目を見開いた。灰色の目には、脚を組んで鋭く弟を見据える兄が映っている。 「お前には味覚が無かった。だが、モリスだけは甘く感じるのではないか?」 「兄上…なぜそれを…」  ガブリエルは膝の上で両手を組む。 「ダヴィッド、お前はフルシェット(フォーク)だ」  灰色の目は見開いたままだった。その表情から理解できていないことを察し、ガブリエルは説明を続ける。 「それに対して、モリスはガトー(ケーキ)だ。この二人は、食う者と食われる者の関係にある」  ガトーとフルシェット、食う者と食われる者。それは、ただ人間とヴァンパイアという、単純な関係ではなかった。

ともだちにシェアしよう!