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第10話「捕食」

 ガブリエルは説明を続けた。  この世界には人間とヴァンパイアが生息している。もちろん、闇の世界の住人は、ほかにも多数いる。それらが時折人間界に来て悪さをするが、高度な知能を持つのは人間とヴァンパイアだ。その中でごくわずかに、“食われる者”のガトーと、“補食者”のフルシェットという特性を持つ者がいる。  フルシェットは必ずといっていいほど味覚障害が起こり、ガトーの甘味を知って味覚が蘇る。ただし、ガトー以外の者は甘く感じない。 「血液や体液、汗、さらには肉体や内臓まで、ガトーのすべてを甘く感じるんだ。それは、フルシェットにしか感じられない」  髪からは蜂蜜のような甘い香りが。涙も、口づけで味わった唾液も甘い。血はザクロのシロップで、精液も極上の甘さだ。肉片も甘かった。兄の説明を聞いて、ダヴィッドは納得した。モリスは甘い香りを漂わせる、ガトーそのものだ。 「フルシェットはやがて、ガトーをめちゃくちゃにする。その尖った先端のごとく、ガトーを食い殺す」  ガトーは繊細で柔らかい。無機質な金属のフルシェットは、持って生まれた鋭さと冷たさで、ガトーの原形をとどめないほどに潰す。 「フルシェットの特徴として味覚障害のほかに、残虐性もある。人間に何も関心を示さなかったダヴィッドだが、モリスに関しては違っただろう。それがやがて、監禁行為に発展する」  確かにガブリエルの言うとおりだった。はじめは貴族たちにもてあそばれていたモリスを守ろうとしたが、結局はダヴィッドの執着心で、モリスを独り占めしたかったのだ。だから周囲の者を騙すようなかたちで、強引に連れ出した。 「家族はみんな、姿を消したお前を探そうともしなかったが、私はお前がここに身をひそめているだろうと、一度見に来たことがあったんだ」  かつてビーンスタック家が使っていたこの屋敷に、ダヴィッドがいるとガブリエルは予測していた。ビーンスタック家には別荘がいくつかあるが、ほかの家族と鉢合わせしてしまう可能性があり、ダヴィッドが身を隠すには、誰も使っていないこの屋敷しかないと思った。 「庭が手入れされていて、雑草が一本も無いどころか、花壇は新しい芽が出ている。お前がするはずがない。だから使用人に頼んで、昼間に様子を見にきてもらった」  使用人が見たのは、庭で花やハーブなどの世話をしている栗色の髪の青年だった。 「私は驚いたよ。数ヶ月もガトーを食い殺さずにいるとはな。だから、しばらくは大丈夫だと、私は放置した」  背もたれに体を預けたガブリエルの青と灰色の目は、穏やかになる。弟の蛮行を心配していたが、ただの危惧にすぎなかったと安堵しきった様子だ。だが、表情は一転して冷たくなる。 「だが、フルシェットが穏やかに過ごせるはずがない。実際、お前はかなり我慢をしてきたはずだ」  何もかも見透かした青と灰色の目を、ダヴィッドは見ることができなかった。両親の目の色を片方ずつ引き継いだその目は、まるで両親に睨まれているようだ。 「先日、もう一度様子を見に来た。モリスは痩せて青白く、体も傷だらけだった。あれ以上放置すると、モリスの回復が追いつかなくなる」  そのため、ガブリエルは書き置きをして、モリスを街の医者に連れて行き、そこで養生させた。医者には“夜に外で作業をしているが、時々野犬にやられる”と話して。 「十五年前の事件の再来かと、医者は心配していたぞ」  ダヴィッドも似たような話を医者から聞いた。十五年前にブルターニュで起きた、狼が人を食い殺す事件を。 「あのブルターニュの事件は、実は狼ではない。お前と同じ、フルシェットが起こしたのだ」  ダヴィッドは無意識のうちに、チェストから立ち上がっていた。 「私と同じ…フルシェットが…ですか」  棒立ちのまま、兄を見下ろす。 「そうだ。さらにそのフルシェットは、母上の姉の息子――つまり、私たちの従兄弟にあたる男だった」  雷に打たれたような衝撃だった。そんな身近にフルシェットがいて、しかも人間を次々と惨殺していたなど、ダヴィッドは聞いたことがなかった。幼い子供だったからという理由もあるが、人間を殺さず騒ぎを起こさないとしていた一族に、そのような残虐事件を起こす者がいたという不祥事を思い出したくないために、一族の者はみな口を閉ざしていたのだ。 「その従兄弟――フィリップというのだが、私より三歳上で、その当時は私は十五、フィリップは十八だった」  フィリップとダヴィッドとの違いは、フィリップは十一歳のときに戯曲を書き上げたというところだ。天才少年現る、と絶賛されたが、その後書き上げた作品は、誰からも賞賛されなかった。 「所詮は子供が書いたもの、最初に書いたのは、本人ではなく誰か代理の者が書いたのでは、と噂されてフィリップは部屋に閉じこもるようになった」  他人からの悪態に心が傷つき、十代の少年には立ち直る術が見つからなかった。閉ざされた心は、何もかもを拒絶する。芸術への賛美、感動、自然界を愛でる気持ち、人への興味も味も―― 「フィリップが十八歳になったときだ。屋敷で舞踏会があり、その匂いにつられて、フィリップは広間に出たのだ。匂いなど、まったく感じなかったフィリップがだ。なぜかわかるな?」  ダヴィッドがごくりと唾を飲みこむ。 「フルシェットのフィリップは…舞踏会に招待されていた、ガトーの匂いをかぎつけた…ですね」  ガブリエルがうなずく。 「そうだ。フィリップは、ガトーの匂いに反応したんだ。舞踏会には、市長の娘がいたんだ。その娘がガトーだった」  フィリップは恋に落ちた――というより、飢えた獣が獲物を見つけたのだ。そしてそれを察知できたのは、ほかの誰でもない、ガブリエルだった。 「私もまた、特殊な存在だったのだ。ガトーを食い殺そうとするフルシェットの暴走を、唯一止められる存在――クトー(ナイフ)だ」  クトーとフルシェットは、似ているようで性質がまったく違う。ガブリエルは説明した。クトーはガトーやフルシェットよりもさらに数が少なく、フルシェットが覚醒することによって、己がクトーだと知る。  ガトーを滅多刺しにし、壊してしまう前に暴走を止められるのは、ガトーとフルシェットの二人を見分けられて、ガトーを少しずつ切り分けてフルシェットに与えることのできる、クトーだけなのだ。ほかの者が諌めようが止めようが効果はないが、クトーならばフルシェットに対して抑えが効く。 「フィリップは彼女を監禁した。血を吸っては回復させ、また血を吸う。彼は、ショコラのような味がしたと言っていた」  ダヴィッド同様、一族の使っていない屋敷にこもり、彼女を閉じこめた。ガブリエルはモリスに対してそうしたように、彼女を医者に診せたことがあった。 「だが、彼女がいなくなると、フィリップは発狂してしまう。そして、手当たり次第に人間を襲う。仕方なく彼女をフィリップの手元に置いたままにしてやると案の定、彼女は衰弱していった。フィリップは甘い味に溺れ、もう少しだけという欲に勝てず、とうとう――」  ガブリエルはある日フィリップが住んでいた屋敷で、ひどい状態の遺体を発見した。顔は判別できない。腕も脚も食い荒らされ、骨がむき出しだった。肉片や内臓が飛び散っている。あたり一面、真っ赤な光景だった。 「その血だまりの中に、フィリップはうずくまって震えていた」  まだ若かったガブリエルには、クトーとして覚醒したものの、どうやって抑えればいいのかがわからなかった。 「私はみすみす、彼女を殺したのだ。切り分ける、という義務を放置し、ガトーを置き去りにした。彼女が死んだのは、半分は私のせいだ」  ダヴィッドは力が抜けて、チェストに腰を落とす。フィリップは自分と同じだ。時々、モリスに対して抑制がきかなくなる。そしていつか、モリスを失ってしまうのだろう。 「兄上…フィリップは…ガトーを失ったフィリップは、その後どうしたのですか」  一瞬、ガブリエルの口元が引き締められた。いくら人間の血を狙う闇の住人であっても、基本的に殺しはしない彼らには、筆舌しがたい事実だった。 「ガトーを失ったフルシェットは、再びガトーを探そうとした。人間たちを襲い始めたのだ。だが、ガトー以外では渇きを癒せず、死体が増えるばかりだった」  数が少ないガトーに、そうそう出会えるものではない。フィリップは次々に人間を食い殺した。いくら菓子を欲しても手に入らない、そんな欲求を多数の味気ないパンで補おうとした。 「こうして、十五年前のブルターニュでの狼事件となった」  十五年前、世間を騒がせた人食い狼の正体は、ガトーに飢えたフィリップだったのだ。

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