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第11話「自由」
フィリップは血を飲むだけでは飽きたらず、人間を食い殺していた。いくら食い荒らしてもガトーは見つからない。来る日も来る日も、甘くない人間を無駄に体内におさめる。
「今考えると、戯曲を書くことに専念させれば、ある程度気が紛れたかもしれない。だが、私にはそんな考えが浮かばなかった」
一族で会議になった。ヴァンパイアといえども、古くから目立たないように人間の血は少しずつ飲み、騒ぎにはしていなかったのだ。そのため、フィリップは前代未聞の異端児と言われ、一族の恥というレッテルを貼られた。
「始めはフィリップを監禁していたが、ヴァンパイアには力がある。鎖もちぎり、檻も壊してしまう。暴走したフルシェットは、凶暴の極みを見せた。結局、フィリップは処分されることになった」
処分、と聞いて一瞬、ダヴィッドの背中が震える。一歩間違えば、自分もその可能性がある。すでにビーンスタック家では、ダヴィッドは異端児なのだ。
「フィリップの両腕両脚を切断し、夜中のうちに庭の木にくくりつけた。我々ヴァンパイアは、丸一日あれば腕くらい再生できるが、その前に朝日を浴びてフィリップは灰になった」
例え異端児だとしても、肉親を殺すのはつらい。かといって、監禁すらできない状態では、無駄に死人を増やすだけだ。一族からすれば、苦渋の選択だった。
そのときの様子は凄まじかった、とガブリエルは振り返る。夜通し、狼の遠吠えのような叫び声が上がり、無い腕と足でもがきながら、もしかすると背筋力だけで木をなぎ倒して這いずり回って逃げるのでは、とみんな怯えていたという。
「私は後悔した。フィリップに、とにかく戯曲を書かせればよかったかもしれない、と。そのときは不調でも、いずれまた脚光を浴びる日が来る。そうすれば、あるいは――」
一度いい作品ができれば、いずれまたそれを凌ぐ大作が出るはずだ。一族には、芸術的天才の血が流れている。
「それから数年後にお前が味覚障害になったとき、フィリップと同じフルシェットの運命を持つ者だとわかったんだ」
そのためガブリエルは時折、パーティーなどにダヴィッドを連れて行った。芸術に打ちこめるきっかけを作れるのではないかと。
説明を終えたガブリエルは、机の上にあった紙の束を見つけた。その文字に、目を走らせる。
「これは…お前が書いたのか?」
“はい”とダヴィッドがうなずく。
青と灰色の目が文字を追う。柱時計が時を刻む音、それにガブリエルが紙をめくる音だけが響く。やがてガブリエルは、その紙の束をダヴィッドに突きつけた。
「ダヴィッド、この小説を書き上げろ。お前には作家の才能がある」
ダヴィッドが戸惑いながら、紙の束を受け取る。産まれてから何一つ褒められたことのない青年は、十九にしてやっと認められた。灰色の目が揺れ動く。
「それは…モリスへの想いや、モリスに対してわき起こる衝動を抑えられないために、書き殴っただけのものなんです」
「それでかまわない。お前は小説に専念するんだ。そして出版社に持って行け。小説が売れれば、書くことに夢中になれる。モリスに対して無茶をしなくなるかもしれない」
実際、ペンが進むときはモリスを食べたいという気持ちが抑えられ、動物の血やモリスの体液で充分だった。
「兄上…私はモリスを守れるでしょうか…」
ガブリエルがダヴィッドの方に身を乗り出す。
「ダヴィッド、お前はモリスを愛しているのか?」
ダヴィッドは膝に置いた拳に力をこめ、迷いもなく“はい”と力強くうなずき、眉を寄せた。
「愛してます。彼がいなくなったら、おそらくほかのガトーでは嫌だろうな、という予感がします」
こんなに苦しそうなダヴィッドを初めて見るガブリエルは、ダヴィッドのそんな気持ちを否定しなかった。そのときにならないとわからない。フルシェットである限り、次のガトーを探すだろう、フィリップの様子からしてそんな予感がしたが、あえて口にしなかった。ダヴィッドに少しでも希望を持たせてやりたかった。
クトーは切り刻むものではない、すべての人が困らないよう、分け与えるためのものなのだ。
ガブリエルは立ち上がった。
「たまには様子を見に来る。とにかくお前は、小説を書き続けるんだ。そうすることで、お前はモリスを守れる」
それだけ言うと、ガブリエルは屋敷を出た。門の外には、林がある。そこから漂う血と腐敗臭に眉をひそめ、ダヴィッドの苦しみを感じながら、ガブリエルは夜空を高く跳ねて行った。
ダヴィッドはモリスの寝室に入った。包帯姿は痛々しいが、顔色はいい。そばにあったスツールに腰かけて、寝顔をじっと見つめる。
やがて、モリスのまぶたがゆっくりと開いた。鳶色の瞳が揺らぐ。
「モリス…痛いか?」
モリスがゆっくりとダヴィッドの方を向く。愛しい人の顔を見て、モリスが安心して微笑む。
「いえ、痛みはだいぶおさまりました。あの方が連れて行ってくださったお医者様の所で、しばらく養生していましたから」
モリスの手を、ダヴィッドが握る。包帯が巻かれた指にダヴィッドは口づける。牙を出したい気持ちを必死に抑え、夢中で唇を当てた。
「ダヴィッド様…」
頬を染めて見つめるモリスの口から、自分の名を聞く。少し前まで当たり前に聞いていたものが、今は甘く切なく胸に広がる。
「あの方、ガブリエル様にお会いしたのはパーティー以来でしたが…、ダヴィッド様によく似ていらっしゃいますね。背が高くお美しいところと、お優しいところが」
ダヴィッドは唇を離し、モリスの手を強く握った。
「私は…優しくない…。人と接してこなかったため、お前に対してもどうしていいのかがわからない」
「でも、私が怪我をすると、あなたは一生懸命手当てをしてくださいます。そんな、ヴァンパイアらしからぬところが」
モリスが楽しそうに笑う。ダヴィッドもつられて笑ったが、すぐに真剣な表情に戻る。
「兄は…そうだな、優しさもあるのだが、己のクトーとしての使命で動いているのだ」
クトー、とつぶやくモリスには、意味がわからない。ダヴィッドはガブリエルから聞いた、ガトーとフルシェットの関係を話した。食う者と食われる者、味覚障害だったダヴィッドが唯一甘いと感じるモリス。そして、食いつくしたくなる衝動からモリスを守ってくれるクトーのガブリエル。
すべて話し終えると、部屋に静寂が訪れる。
「…私は、食われる者…だったのですね」
ダヴィッドは膝の上で手を組む。力が入らず、顔も自然とうつむいてしまう。
「すまない…私がフルシェットでなければ、お前を傷つけないのに」
「いいえ、それでも」
モリスはゆっくりと体を起こした。
「ダヴィッド様は、アルマン伯爵の元より私を救ってくださいました。私がガトーであったからこそあなたに気づいてもらえて、私は自由になれたのです」
自由、と顔を上げたダヴィッドはつぶやく。果たしてモリスは自由であるのか、と。
確かにモリスを閉じこめているわけではなく、ダヴィッドが外に出られない日中にでも、モリスはいくらでも逃げられる。門に鍵をかけているわけではない。そうしないのは、ダヴィッドのそばにいることをモリスが望んでいるからだ。モリスは確かに自由を感じていた。何より、ダヴィッドを愛している。
「兄に言われた。お前は小説に打ちこめ、とな。文字を書くことに夢中になっている間は、お前を傷つけなくてすむ」
「ダヴィッド様、あなたの小説、私も読んでみたいです」
ダヴィッドは立ち上がり、モリスの頬を撫でた。その頬の温かさがダヴィッドを安心させ、指先の冷たさがモリスには心地よい。
「完成したら、真っ先にお前に見せよう。だが、所詮は素人の書いたものだから、期待はするな」
モリスの包帯だらけの手が、頬を撫でるダヴィッドの手に重なる。
「それでも、あなたが書いたものです。芸術家の一家、ビーンスタック家のダヴィッド様だから、きっと面白いはずです」
参ったなと苦笑しながら、モリスの血色が戻った桜色の唇に、軽く触れるだけのキスをしてダヴィッドは部屋を出た。
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