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第13話「歯車」
雪解け水が、花壇横の排水路を流れる。冬の間、わらを巻かれて眠っていた木には、新しい芽が見える。だが、まだ空気は冷たく、春の訪れは遠い。村で買った新聞を手に、モリスは顔を赤くして走って帰ってきた。
夕刻まで待ちきれない。冬至のころだともう暗いためにダヴィッドは起き出すのだが、まだ落ちない陽はダヴィッドの目を開かせない。それまでの間、モリスはダヴィッドが眠っている横で、椅子に座り新聞を読んでいた。
布が擦れる音を聞き、モリスは新聞から顔を上げる。
「ダヴィッド様! これ、見てください!」
いつになく騒がしいモリスに不思議に思いながら、ダヴィッドは新聞を見た。
「書評に、ダヴィッド様の小説のことが載ってるんですよ。“ヴァンパイアが主人公なのにおどろおどろしさはなく、切ない思いが赤裸々とつづられていて、胸を打たれる”ですって!」
ダヴィッドは何度も読み返す。褒められることに慣れていないダヴィッドは、戸惑いを感じながら新聞の文字を追う。
「…私の作品が…認められた」
「そうですよ、出版社の人も、これなら売れるだろうって言ってましたからね」
ダヴィッドの表情がゆるむ。灰色の目には、かつての金属や氷のような冷たさはない。
「兄に礼を言わなくてはならないな。それに、モリスもありがとう。モリスが出版社に原稿を持ちこんでくれたからだ」
「いいえ、私はただ代理を務めただけです。すごいのはダヴィッド様ですよ」
ダヴィッドが少し照れたように笑う。人間ならば、頬に赤みがさしていただろう。
「次の作品も出来上がっている。また、出版社に届けてほしい」
お安いご用ですよ、とモリスはダヴィッドの頬にお祝いのキスをした。
春が過ぎ、季節はもう初夏を迎えようとしている。去年に続いてハーブもよく育ち、白や黄色のひなげし、ピンクのシャクヤクが花壇を彩る。
夜、珍しく外に出たダヴィッドは、大きな紙の箱を手に帰ってきた。
「お帰りなさい、ダヴィッド様」
「これはモリスにプレゼントだ」
箱を受け取ったモリスは、中を見て驚いた。上等な絹でできた、淡い緑色の夏用の外套だった。ボタンは金で、懐中時計をぶら下げる金の鎖までついている。
「こんな…とても上等なものじゃないですか、私にはもったいないです」
「いいんだ。お前はいつも私の衣類などを優先して買う。たまには私からも贈り物をさせてくれ」
日が沈んでから街まで跳んで行き、仕立て屋に無理を言って店を開けてもらい、寸法を伝えて外套を仕立ててもらっていた。
ダヴィッドが書いた小説が、また売れた。せっかくの収入なので、モリスに何か贈り物をしたいと考えていた。
「明るくて素敵な色ですね」
軽くて柔らかなその生地は、セージの葉に似た緑色だった。
「初めてモリスに会ったとき、お前は濃い緑色のフロックコートを着ていた。あの色より、もっと優しく淡い色の方が、お前には似合う」
真新しい外套を胸に当て、モリスは何度も礼を言う。
「ダヴィッド様、どうぞ…。私からのお礼です」
モリスは右手を差し出した。意図を察し、ダヴィッドはその手に触れることができなかった。ところどころ紫色に腫れている手から顔を背ける。
「いや、いい。お前の血は、できるだけ飲みたくない」
「我慢なさらないでください。今は体調がいいので。私からのお祝いと思ってください」
目の前にガトーの皿を出されては、フルシェットとしては突き刺さずにいられない。誘惑に負け、ダヴィッドはモリスの右手を取る。いつの間に、こんなに指が細くなったのだろう。貧血というのは、こんなにも人に打撃を与えるのか、そう思いながら、ダヴィッドは震える牙を指先に刺す。それは、冷たい金属などではない。神経が通った、心のある生き物の刃だ。ダヴィッドは一口だけ血をすすると、胸のチーフで傷跡を包む。
「ありがとう、モリス。後で手当てをするといい」
実際、手当てが遅くなってばい菌が入り、悪化した傷もある。ダヴィッドはそれが心配だった。モリスは階段を上るダヴィッドの後を追い、薄手の上着の裾を引っ張った。
「ダヴィッド様、お願いです。私を抱いてください」
ダヴィッドが驚いて振り向く。頬を赤らめ、鳶色の瞳は潤んで、その表情にモリスの想いがあふれていた。モリスを抱く、最近ではダヴィッドが封印していたことだ。エスカレートすれば、必ずモリスを噛んでしまう。最初はモリスの体液を飲むだけで満足してしていたのが、今では血を飲まないと気がすまない。それどころか、肉まで欲しくなる。
「あなたは我慢をし過ぎです。たまには自分を抑えず、気持ちを解放してください」
ガブリエルの考えは、ダヴィッドが小説に打ちこめれば苛立ちがつのることもなく、体も渇きを覚えずモリスを傷つけずにすむのでは、というものだった。だが、そうではないことにモリスは気づいていた。モリスの血で癒やされたダヴィッドは、精神が安定してペンが進む。モリスを傷つけまいと気遣ううちに、苛立ちがつのり、小説がはかどらなくなるのだ。まったく逆のサイクルだった。
歯車は逆に回転していた。いつか逆回転の歯車は、噛み合わなくなって故障が出る。
ダヴィッドは唇を噛み、モリスの手を振りほどいて階段を上がる。モリスが呼ぶ声を無視して、寝室のドアを開けた。
「ダヴィッド様、あなたは私の血を我慢なさらない方が、仕事がはかどる、そうではありませんか?!」
「モリス」
振り返りもせず、ダヴィッドは冷たく言い放つ。
「お前を死なせたくない」
モリスがダヴィッドの細い胴に腕を回してしがみつく。いつものモリスとは思えない力に、ダヴィッドは動くことができない。そのまま立ちつくしてしまう。
「私はいつか死にます! あなたより先に! ならば、生きている間に、あなたにできることをしたいんです」
「私は…」
ダヴィッドの震える手が、モリスの力強い手を押さえる。
「自分が我慢をして苦しむぐらい、どうということはない。お前を傷つけてしまう方が、はるかに苦しい」
「私も――」
モリスがさらに力をこめる。
「あなたが苦しんでいるのを見る方が、つらいんです。傷なんて、時間がたてば治ります」
時間がたっても治りが悪い傷を、モリスはいくつも持っている。ダヴィッドの指は、無意識のうちに紫色に沈着した手の甲の傷を撫でる。
「私は決めた」
ダヴィッドが、モリスの手を強く握る。
「お前が死ぬことになれば、私も死のう」
背中でモリスがかぶりを振る。布越しに、その感触はダヴィッドに伝わる。痛いほど、苦しいほど。
「いけません! 長生きできるヴァンパイアのあなたが、人間に合わせて死ぬなんて!」
ダヴィッドは力強くモリスの腕をはがす。モリスを抱き上げベッドに寝かせ、両手首を強く握って真上から見下ろした。
「モリスがいなくなれば、この世界も小説を書くことも、私が生きていることも、すべて意味を失う」
モリスが口を開こうとすると、ダヴィッドの唇が重なった。小さな音を立てて離れると、唇が触れるほどの距離でダヴィッドがささやく。
「頼む…。お前が生きている間は、私はお前の望みを何でも叶える。だから私の最期は、私の望むようにさせてくれ」
「では、ダヴィッド様」
モリスは人差し指を、ダヴィッドの唇に当てた。
「私の望みです。噛んでください。もう、我慢しないで――」
庭仕事や炊事で荒れて、決して柔らかくはない皮膚だが、そこにダヴィッドが牙を立てる。ほんの少し牙を刺した後、すぐに抜いて指先を口にふくむ。甘い汁はいくらでも喉を通りそうだ。ダヴィッドは、広く果てのない砂漠で迷う旅人と同じだ。貴重な水は、我慢しようとしても、どんどん喉を通ってしまう。ダヴィッドはもっと血を飲みたい欲望を抑え、モリスの手の甲を包んでいたチーフをほどいて、新しい傷口に巻いてやる。
キスをしながら、モリスのシャツのボタンを外す。モリスもダヴィッドのシャツを脱がせると、今度は下も脱がせた。二人で一糸まとわぬ姿になり、モリスの上に覆いかぶさったダヴィッドが、首筋に舌を這わせる。
「やっ…くすぐったい…」
身をよじるモリスの耳に、息を吹きかける。モリスが肩をすくめた。
「じっとしていないと、もっと弱い所を攻めるぞ」
低くささやく声の次は、舌が差しこまれた。
「あっ…!」
モリスはダヴィッドの背中にしがみつく。
「ダヴィッド様…愛してます」
「私も愛してる、モリス」
あと何度、そんな言葉を交わせるだろう。人間の一生は長い。だが、歳を取りにくいヴァンパイアにとっては、人間の数十年という寿命は短い。せめてモリスが老衰で亡くなるまで、できるだけ長く生きてもらえるよう、ダヴィッドは己を抑え続けねばならない。
そんな抑制された体は乾ききっている。ヴァンパイアとして血が欲しい、フルシェットとしてガトーが欲しい、それ以上に恋人としてモリスが欲しい。
ダヴィッドはモリスの尻の下に右手をもぐりこませると、狭い穴にいきなり人差し指と中指を入れた。
「くっ…」
二本の指は慣らすというより、まとわりつく肉の感触を楽しむためのもの。そして、もだえるモリスを鑑賞するためのもの。自分の手がモリスに幸福感を与えている、それが血と体液同様、ダヴィッドにとっては何よりの癒やしだった。
もだえるモリスを見て我慢ができなくなり、一気にモリスの中に入ったダヴィッドは、夢中で腰を動かす。その合間に、モリスの先端からあふれる蜜を指ですくって舐める。
「モリス…」
耳元に吹きこまれた声は、愛のささやきと謝罪の言葉だった。ダヴィッドは柔らかい耳たぶを噛むと、血を一口飲む。苦痛に顔をゆがめるモリスは、ダヴィッドの背中にしがみつく。血を一口もらった後は、傷口を丁寧に舐める。それが何の効果ががなかろうとも、舐めずにはいられなかった。
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