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「あぁーっ。今日は長かったなぁ……」 「私、ちょっと急いで帰らないと。息子を預けてあるのでっ」  長かった職員会が終わり、職員室が急に慌ただしくなる。教師と言えども、家事・育児を両立している者は少なくない。一人息子を保育所に預けてある女性教諭は、延長時間に間に合わないとデスクの上を手早く片付け、小走りで職員室を出て行った。それを見送りながら、優吾は近くにいた年配の社会科教師と苦笑いを浮かべた。 「平出(ひらいで)先生も大変だな。間に合うのかな……」  腕時計を気にした優吾に、その教師は「いつものことだから」と笑いながら背を向けた。この学校に着任して数ヶ月が過ぎ、季節は夏に変わっていた。時間が経つのはあっという間で、優吾としても新しい環境に慣れるのが精一杯だった。毎日のように新しい課題の読み込みや教材の選定に追われるなか、十年ぶりに再会を果たした稔の事が気がかりで仕方がなかった。再会してすぐに、優吾が知ることのなかった彼の裏の顔を知り、偶然が重なったこととはいえ体を繋げてしまったことは心の片隅にずっと引っ掛かっていた。  優吾の『保健室への出禁』は、すぐに生徒たちの間で噂として拡がった。生徒からの信頼も厚く、人気のある稔を口説いた罰だ――と揶揄されたが、実情はもっとややこしく、子供には理解出来ない大人の話だ。  あの日から、稔は優吾と目を合わさない。業務上、どうしても会話が必要な時だけは普段と変わらない穏やかな口調で話す稔だが、話が済むと逃げるように去ってしまう。今も、そうだ。職員会が終わるとすぐに職員室を出て行ってしまった稔を、理由もなく追いかけるのは不自然だと思った優吾は、こうやって他愛のない会話をしながら話しかける機会を窺っていた。  優吾が自分の荷物を纏めて廊下に出ると、保健室へ向かう廊下の途中で、教頭である梅津(うめづ)に声をかけられている稔を見つけた。足早に近づきタイミングを見計らって話しかけようとした優吾だったが、耳に届いた梅津の言葉に、給湯室に飛び込んで身を隠した。  陽が沈んだとはいえ、日中熱が籠った廊下は暑く、汗が噴き出してくる。シャツが体に張りつくのも構うことなく、優吾は息を潜めて耳を澄ました。 「――昨夜、風俗店が建ち並ぶ繁華街で広瀬先生を見かけたと、生徒の保護者から連絡があったんですが」 「人違いじゃないですか?」 「間違いなく先生だったというんですよ。まあ、先生も男だし、そういう場所に行かれるのは仕方ないことだとは思いますが、一応既婚者ですし……どこで保護者や関係者の目にとまるか分からない」  長身で細身の梅津は五十代だが、教頭としてここに十年以上在籍している。話によれば、理事長一族とは血縁関係はないものの、個人的にかなりの信頼を寄せていることは二人のやり取りを見ていても分かる。上品な顔立ちと穏やかな様相で保護者をはじめ、教師からも多くの支持を受けている。学校内外で起こるトラブル処理を担う梅津は、稔を責めるでもなくやんわりと注意を促しているようだ。 「すみません。思い出しました……。買い物をして帰ったんですが、その通りを抜けていくのが最短コースだったもので。以後、気をつけます」 「そうしてくれると有り難い。まったく、最近はこういった情報が毎日のようにメールで送られてくる。子供そっちのけで、教師のプライベートを詮索する保護者が多くて手を焼いているのが現状なんですよ」 「子供を預ける学校の内情。それも保護者にとって、重要視するポイントになってきてるんじゃないですかね? いずれにせよ、教師も何かと生きづらい世の中になっていますからね」 「若い先生たちは何かあるとすぐに辞めればいいという考えを持つ人が多くて……。我が校は私立で、他に比べて待遇はよくしているんですが、教師の学校離れが顕著で……。あぁ、お帰りのところ引き留めてすみません。お疲れ様でした」  梅津は申し訳なさそうに稔に軽く頭を下げると、そのまま教室棟の方へ歩いて行った。梅津の背中が見えなくなった時、稔は考え深げに顎に手を当てた。彼は、近くの給湯室にいる優吾の存在に気づいていないようだ。 「――まだ、やってるのか?」  不意に声をかけた優吾に驚いたのか、稔はハッと息を呑んで給湯室から姿を現した優吾を見つめた。 「まだって……なんのことかな」 「とぼけるなよ。教頭の話じゃないけど、今はどこで誰に見られているか分からない時代だ。いつかバレて、大騒ぎになるぞ」 「お前に迷惑をかけることはない。俺は、男とセックスしたいからやっているだけだ」  稔はそう言うと、優吾に背を向けて歩いて行ってしまった。その細い背中が以前より頼りなく見え、優吾は追いかけようとして踏みとどまった。  また、お節介と追い払われるのは目に見えている。でも、稔とセックスして何も感じなかったわけではない。それは快感云々ではなく、どこか自暴自棄になっているような気配を感じずにはいられなかった。高校時代に見ていた、危うげな感じによく似ている。しかし、自分の中にある何かを満たしたい――というには、それに向かって突っ走る感じはなく、冷静に自己分析する部分もある。特定の仲間とつるむこともなく、若さゆえに性衝動に駆られ男女問わず関係を持っていたあの時とは違い、年齢を重ねたぶん、何か別の要因があるように思えて仕方がない。  それに加え、優吾は伴侶の存在も気になっていた。校内で、稔自身がその話題に触れることはない。家庭内の事をひけらかすことを嫌うという者もいるが、既婚職員が集まれば自然とそういった話題になることもある。しかし、その話になるとのらりくらりとかわし、その場から姿を消してしまう。ゲイ専門の出張キャストなどという仕事をしていること自体普通ではないが、もし自分の伴侶が男しか愛せないと知ったら彼女はどうなるだろう。  何らかの理由で籍を入れたい、結婚していなければ都合が悪いことがある。それに利用されたと疑う事しか出来ないだろう。そうなれば、もう夫婦として成り立たない。小さな綻びが少しずつ広がり、疑心暗鬼に囚われた彼女の被害妄想は大きくなっていく。それが長期間続けば、彼女の精神にも悪影響を与える。夫の帰りを待つだけの時間はただ無情に過ぎていくばかりで、次第に自分が何をしているのか分からなくなっていく。優吾はそれを、身近なところで経験していた。それ故に、自身がしたことも許せなかった。  少しでも疑う要素があるのならば、興信所に浮気調査依頼をすることは容易い。もしかしたら、稔の知らないところで秘密裏に調査が進んでいるのかもしれない。稔と関係を持った客同様、優吾の名も彼女の耳に入る可能性は高くなる。最終的には多額の慰謝料を請求され、、離婚協議に持ち込まれることは必至だ。 「俺も……同罪だな」  あの夜以来、稔の姿が何度も脳裏を掠める。いけないと分かっていても『スブ・ロサ』のサイトを見てしまう自分がいる。しかし、稔の方でブロックしているらしく、優吾が彼を指名することは出来なくなっていた。  妖艶に微笑みながら「もっともっと」と腰を振り、絶頂に達すると中を蠢動させ食い締めてイク姿は扇情的で、人気のキャストとしてリピーターが増えるのも分かる。だが、それは優吾が知っている彼ではなかった。恐らく本人は気づいていない。あの時の彼は酷く虚ろで、哀しい目をしていた……。 「稔……」  優吾は小さく彼の名を呟くと、何もしてやれない自身の無力さに無性に腹が立った。廊下の壁に拳をぶつけ、自身の想いをグッと抑え込む。  ――お前は、俺にとっての聖域だった。  優等生なんかじゃない。将来を期待する両親、成績優秀で危なげなく進学することを喜ぶ担任。優等生と分かっていながらも自分を受け入れてくれた稔のそばにいたいから、だた演じていただけ。  優吾は高校時代、自由奔放に生きる稔に憧れていた。自分が出来ない事を自身が思うままに行動する彼が羨ましかった。学校が終われば進学塾へと向かい、帰宅しても勉強を強いられていた自分が何よりも嫌だった。いっそ、稔のように家を飛び出せばどれだけ楽になれるだろうと考えたが、優吾にはその勇気がなかった。  ただ学校で、短い時間ではあるが稔と他愛のない会話を交わすだけで、日々のストレスややり場のない怒りがスーッと消えていくのを感じた。  誰にも侵すことの出来ない唯一の心の拠り所――それが稔だった。  その関係を壊したのは自身の意志の弱さ。あの夜、他人のものだと知っていて、どうして稔を抱いてしまったのだろう。それまで、ずっと堪えてきたものが理性と共に呆気なく破断し、自らの浅ましさを知った。  男同士の恋愛ほど不毛なものはない。だが、相手が男性女性どちらであっても、誰かを一途に想う気持ちは変わらないはずだ。しかし、稔の体を知ってしまった以上、もう誤魔化しはきかない。想像の中だけで存在していたはずの彼とのセックスが、今は生々しく思い出され、はしたなくも下肢を熱くする。 「もう……嫌われたく、ない。もっと、そばに……いかせて、くれ」  優吾はせり上がってくる嗚咽を必死に堪え、壁に爪を立てたまま縋るようにその場に膝をついた。  *****  稔は息を弾ませながら、客が指定したホテルに向かっていた。二日間に渡って開催された養護教員が集まる研修会が、今日に限って時間通りに進行せず、終了時刻が大幅に延びてしまったのだ。多少遅れても稔の方でタイムスケジュールを調整し、相手が悦ぶ『サービス』を施せば済むことだが、ふとした瞬間に出てしまう疲れた表情を『営業用の顔』にするには、あまりにも時間がなさすぎた。ここ数日、顔を合わせるたびにいろいろと追及してくる優吾に辟易としていた。それだけではない。一日に数えるほどしかなかった着信履歴が倍以上になった。その電話の主は、出なくても分かっている。  日中は四十度近くまで気温が上がり、エアコンが効いた研修室を一歩外に出れば、汗が噴き出す。夕方になり気温は幾分下がったものの、突然降り出したゲリラ雨のせいで湿度が上がり、湿気がべったりと体に纏わりつく。気温と湿度、そして熱せられたアスファルトの匂いに不快指数が増していく。  肩にかけていた大きなバッグを駅のコインロッカーに押し込み、数枚のコインを入れ鍵を引き抜いた時だった。上着のポケットの中でスマートフォンが振動した。イラつきを隠せないまま、スマートフォンを取り出し画面を見た稔は息を呑んだまま動けなくなった。 「――(とおる)?」  植山(うえやま)(とおる)――何度、削除しようと思ったか分からないその名前を目にした瞬間、怒りと同時に、悔しさとほんの少しの寂しさが湧きあがった。電話に出るべきか、いや……このまま出ない方が自分のためだと分かっている。それなのに、稔の指は発光する画面をタップしていた。 「もしもし――」  ロッカーを離れ、人もまばらになった地下連絡通路の入口で足を止めた稔は、訝るように声をひそめて応答した。もしかしたら、彼の電話を他人が使っている可能性はゼロではない。 『稔? 良かった……繋がって』  聞き覚えのある声に、胸がキュッと締め付けられる。だが、それは愛しさとはまるで違う苦痛にも似た息苦しさを伴う痛みだった。 『今、お前のマンションの近くにいるんだけど。金――少し、貸してもらえないかな』  何も変わっていない――そう思った。植山の猫撫で声は、何か良からぬ前触れでしかない。稔は大仰なため息をついてから、抑揚なく言った。 「それ……。どのツラさげて言ってんの? 一緒にいる女に何とかして貰えばいいだろ」 『それがさ、ちょっといろいろあって……。ヤバいんだよ、俺もっ』 「ヤバい事をしてるって、そんなのずっと前からだろ。金を貸せって言う前に、俺に何か言う事あるんじゃないのか?――ヤクザのフロント騙して、挙句の果てに闇金から追われるような真似して……。その尻拭い、誰がしてると思ってんだよっ」  電話の向こうで植山が黙り込むのが分かった。稔に隠していたことを当の本人に言われたのだから、ぐうの音も出ないのだろう。だが、彼はどこまでもしたたかだった。 『悪かったと思ってる。この件が片付いたら、お前を絶対に幸せにする! 信じてくれ……。稔、お前を愛しているんだ』  稔は眼鏡の奥の目をすっと細め、キュッと唇を噛みしめた。何度聞いたか分からない常套句。その言葉を鵜呑みにして騙され続けた三年間――。そして、挙句の果てには、男ではなく女の愛人と一緒に稔から逃げるように出て行ったクズ男。その後に残されたのは、地獄のような日々だった。 「――俺はもう、お前の事なんか愛していない」 『稔っ。あの指輪は……? 俺がお前に贈った誓いの証は?』 「捨てた。これ以上、お前に振り回されるのは迷惑だ。金が欲しいなら、お前が抱えていた愛人にでも縋ればいい。もう、電話してくるなっ」 『稔っ。おいっ――てめぇ、人が下手に出ればいい気になりやがって! 淫乱ビッチは教諭なんかやめて、さっさと風俗に沈め。それが、お前にはお似合いなんだよっ』  自分が不利になるとすぐに逆上し怒鳴り散らすところも、出て行ったあの時とまったく同じだった。稔は、つい今しがたまで怒りで沸騰していたはずの頭の中が、スーッと冷水をかけられたかのように冷たくなっていくのを感じた。  スピーカーから聞こえる罵声を聞きながら、スマートフォンの画面をタップし、一方的に通話を終了させた。彼の携帯番号を即座に着信拒否設定する。そして今度は躊躇うことなく、彼のアドレスをスマートフォンのメモリから完全削除した。  地下におりる階段の手摺に凭れ、稔は俯いたまましばらく動けなかった。左薬指に嵌められたままの指輪をもう片方の手で押えこみ、大きく深呼吸した。この指輪をくれた彼に「捨てた」と嘘を吐いた。本来であれば、彼が部屋を出て行った時点で外しても構わなかった。でも、それが出来なかったのは稔の中にあったわずかな希望。  改心した彼が再び稔を迎えに来てくれる――そんな、おとぎ話のような展開を望んでいた自分が、どこまでも幼稚でバカバカしく思えてくる。  優吾への想いを断ち切るために新たな恋を望んだ。自身の想いに迷い、立ち止まっていた稔に手を差し伸べてくれた奇特な男。他の誰が悪いわけじゃない。そんな男とは知らず、安易に縋りついた自分が引寄せた悪夢。  帰宅を急ぐサラリーマンらしき男性が数人、稔の脇を通り過ぎては振り返っていく。こんな場所で、スマートフォンを握りしめたまま項垂れていれば、何かあったのかと思わない方がおかしい。しかも、それが養護教諭という仮面を外し、異常なまでの色気を纏い夜の街に向かおうとしている男なら尚更だ。 「俺……。どこまでツイてないんだろう」  ボソリと呟き、溢れてくる涙をグッと堪えた時だった。稔の足元に複数の影が伸びた。その影は歩道沿いにある店舗の明かりを受け、稔を囲むように揺れた。 「――やっと捕まえた。鬼ごっこをするほど、俺らは暇じゃないんだけどなぁ。なぁ、広瀬センセイ?」  やけに凄みのある低い声が耳元で響く。虚ろな目のまま顔を上げた稔の前に、真夏にも拘らず黒いダブルのスーツを着た大柄な男が行く手を阻むように立っていた。その両側にも二人――彼の部下と思しき男はスーツを着崩し、ただでさえ悪い目つきをさらに細めて稔を下から覗き込んでいる。 「俺からのラブコールをことごとく無視するなんて、センセイもつれないなぁ。保健の先生って、電話に出れないほど忙しい? 俺のイメージでは、教師や男子生徒を連れ込んで悪戯し放題……って感じなんだけど。あぁ……しゃぶってたらお話も出来ないか」  稔の体を下から舐めるように見た黒いスーツの男――島村(しまむら)の言葉に、下卑た笑いを見せる二人の部下。稔は彼らと初見ではない。こうやって何度も待ち伏せされるばかりでなく、毎日のように稔のスマートフォンに電話を掛けてきているのも彼らの仕業だ。島村は階段の手摺に手を置くと稔の耳元で言った。 「――先月分。忘れてるわけじゃないよな?」  稔はすっと視線を逸らしてから、ぶっきら棒に言った。 「忘れるわけないだろ。もう少し、待ってくれ」 「もう少しって……どのくらい?」 「あと数日……」 「そうこうしている間にも、延滞金が発生している事を忘れて貰っちゃ困るんだよ。こっちだって、迷惑を被ってるんだ。――なぁ、植山から何か連絡はあったか?」  島村が稔の細い腰を抱き寄せながら声のトーンを落とした。稔は自身の心臓の音が彼に聞こえるのではと身を強張らせたが、スマートフォンからすべてを消した今、植山から着信があった事実はどこにもない。小さく首を横に振って「あるわけないだろ」と答えると、彼は唇の端を片方だけ上げてニヤリと笑って見せた。 「隠すとロクなことにならないぞ? アイツと一緒に逃げた女を捕まえて、かなり痛めつけてやったが一向に口を割らない。あれが情ってヤツなのかねぇ……。素直になれば、うちの店で客を取らせようと思ってたんだが、あれはもう使い物にならないな……」 「まさか……っ」  それまで黙って島村の話を聞いていた稔だったが、青ざめた顔で彼を見上げた。島村の大きな手が稔の臀部を撫で回している。彼も女性に限らず……のようだ。 「一人で逝かせるのは可哀相だと思わないか? どうせなら、植山も一緒の方が良いだろ? だから俺らが必死になって探してやってるんじゃねえか。ヤクザ騙して、シノギを使い込んで逃げるなんて……。どこまでバカな男なんだか……逃げ切れるわけないだろ。センセイも災難だったな。あんな男の口車に乗せられて、仕舞いには借金の保証人にされちまって……」  スマートフォンを持つ手が震える。稔の目の前にいる男たちは、利益のためならば虫けらのように平気で人を殺めることが出来る奴らだ。そんな彼らを敵に回し、植山が簡単に逃げ切ることなど出来るわけがない。しかも、稔を頼ってこの近くに来ている。自身が陥れた者たちの縄張りに、金欲しさにノコノコ舞い戻って来るなんて心底呆れる。 (命より、金……か)  稔は、なおも臀部を撫で続ける島村の手をやんわりと退けると、乱れた長い前髪をかきあげながらため息まじりに言った。 「愚痴ったところで、目の前に彼が現れるわけじゃない。出来ることなら、俺だって……」 『殺シテヤリタイ』  その言葉を寸でのところで呑みこんだ。養護教諭として生徒たちと向き合ってきた自身が、こんな邪な思いを抱いている事を知ったら、優吾はどう思うだろう。思っていても絶対に口に出してはいけない――稔の理性がギリギリのところでストッパーをかけた。 「俺だって――なんだ?」  楽しそうに期待を込めた目で覗き込んできた島村の視線をかわし、稔は彼らの間をすり抜けようとして力強い腕に阻まれた。彼を睨みつけると、その鋭い瞳には欲情の色が滲んでいた。 「なぁ、センセイ? 今夜、俺たちの相手をしてくれたら、来月分の延滞チャラにしてもいいぜ?」 「冗談はやめろ」 「俺は冗談が嫌いでね。――センセイがウリ專で働いていること、学校にバラしてもいいのかな?」 「なっ!」  焦った稔の細い手首を島村が掴んだ。そして、稔の耳朶に唇を寄せると、やんわりと食んだ。ゾクリと背筋に冷たいものが流れ、稔は首をすくめながら大きく身を捩った。 「う――っ。やめろ……っ。お前らとなんか……絶対にいやだっ」 「俺も、こいつらも溜まってるんだよ。センセイも嫌いじゃないだろ? たまには4Pも楽しいぜ?」  もし、一度でも彼らと関係を持ってしまったら、もう二度と普通の世界に戻れなくなる。もちろん、優吾との関係も終わらせなければならない。違法に稼いだ金と権力で弱者を捻じ伏せる反社会勢力。この街でハバを利かせているのは指定暴力団縁権会(えんげんかい)の二次団体である関東極龍会(かんとうごくりゅうかい)傘下、九里(くのり)組である。その若頭である島村を敵に回すことがどれだけ恐ろしいか、身を以て知っている。  今、彼らが追っているのは稔の元恋人、植山だ。なかなか尻尾を出さない植山に焦れているのは間違いない。彼らは稔を自身のもとに囲い、囮にして彼を呼び出そうと企んでいるのがアリアリと分かる。こうやって誘われたのは今夜が初めてではない。 「センセイさえよければ、俺の情夫(イロ)にしてやるよ。植山みたいなクズなんかより、俺の方がよっぽどいいと思うがな……」 「いやだ……っ。放せっ」  島村の執拗な誘いに、稔は声をあげた。通行人は、関わってはいけないといわんばかりに目を逸らして足早に過ぎていく。こんな奴らに抱かれるくらいなら、延滞金だろうがトイチだろうが、苦しくてもコツコツと払い続けていた方がマシだ。  稔がもがきながら島村の手を振り払ったその時だった。 「お前ら、何をやっているっ!」  制服姿の警官が二人、小走りに近づいてくる。島村はチッと小さく舌打ちすると、自身のジャケットの襟元を直しながら愛想笑いを振りまいた。 「あぁ、ご苦労さんです。何かあったんですか?」  まるで他人事のように問う島村に呆れたように、警官が言った。 「ここでお前らが通行人に絡んでるという通報があったんだ」 「人聞きの悪い事、言わないでくださいよ。彼は知り合いで……なぁ、センセイ?」 「センセイ? ――あの、大丈夫ですか?」  警官が稔を彼らから庇うように遠ざける。彼の問いに黙って頷いた稔は「急いでいますので」と小さく一礼し、警官の手をすり抜けるように走り出した。 「あのっ!」  呼び止めた警官の制止を振り切り、稔は丁度青に変わった交差点を渡り切ると、そのまま駅に直結する地下通路の階段を駆け下りた。  長い連絡通路の途中、稔はふらつきながら足を止めると、そのまま冷たいタイルの壁に凭れかかった。全力とまではいかないが、かなりの速度で走ったのはどれくらいぶりだろう。心臓が破裂しそうなくらい激しく波打ち、酸欠のせいかこめかみが痛い。なかなか整わない呼吸を肩を上下させて肺に酸素を送りながら、最近取り換え工事が終わったばかりのLED照明を見上げていた時だった。 「――稔」  通路に低い声が響いた。その声のする方に視線を向けると、そこには優吾が立っていた。なぜ、彼がここにいるのか理解出来なかった。今日は研修会の会場から直帰する旨を学校側に伝えていた。それ故に、優吾が稔の行動を把握することは不可能に近い。 「なんで……。お前がここにいるんだよ」 「アイツら、誰だ?」 「アイツらって……。何のことだ?」 「惚けるのもいい加減にしろ。話は聞こえなかったが、場当たり的な感じはしなかった。お前が嫌がっていたようだったから通報した……」 「余計なことを……」  小さく舌打ちした稔は、乱れた前髪の間から優吾を睨みつけると乱暴な口調で言った。 「お前さぁ、俺のあとをつけてきたんだろ? ストーカーみたいな真似すんなっ」  凭れた壁から勢いをつけて離れた稔は、そのまま優吾に背を向けて歩き出した。ポケットから取り出したスマートフォンで、これから会う予定だった客に連絡しようと画面をタップした時だった。背後からタックルするように抱き込まれた稔は、力強い腕で胸を圧迫され息を詰まらせた。 「っぐ――」  煙草と彼が愛用している香水、そして雄を思わせる汗の匂いが稔の体を包み込んだ。手にしていたスマートフォンが足元に落ち、カタンと音を響かせた。 「――なんで、結婚してるなんて……嘘をついた?」  後ろから耳朶に噛みつく様に唇を寄せた優吾の、わずかに怒気を孕んだ声が稔の動きを完全に止めさせた。 「お前の事をいろいろ調べるのは友達としてフェアじゃない。分かってる……。でも……」 「でも――なんだよ。俺が許してくれそうな言い訳でも考えてきたってか?」 「言い訳なんかしない。俺は……お前が……」  優吾の声が微かに震えている。それ以上彼が口を開いたら、二人の関係が終わってしまうかもしれない言葉を稔は想像した。それは稔にとって、とても嬉しくもあり、すごく残酷で悲しい結末しか見えないものだった。  稔は、その言葉を封じ込めるように強気な態度で言った。 「――バレちゃったら仕方ないよな」 「結婚もしていないのに、どうして左手の薬指なんかに指輪をしているんだ?」 「別に……。どの指に指輪をしようが関係ないだろ。俺が好きで嵌めてる」 「嘘、つくな……」  優吾の声が再び怒気を孕む。その声に、稔はわざと大きなため息を吐いて見せた。顔を合わせないから話せることもある。もしも今、優吾と目を合わせたら自分の弱さが全部溢れ出てしまいそうで怖かった。植山からの身勝手な電話、島村たちによる執拗なまでの借金の取り立て。  出来ることなら、誰かに縋って全部吐き出して楽になりたかった。それまで一人で抱え込んできたものを、恥も外聞もかなぐり捨てて、大声で泣きながら叫びたかった。  それは誰でも構わない。でも、背中から伝わってくる優吾の体温と優しさが、ジワリと体内に入り込み心を脆くさせる。彼なら助けてくれる――と思わせる何かが、稔の中に急激に広がっていくのが分かった。 「――それを贈ったのは、男なのか?」  優吾の問いかけに、稔は自嘲気味に唇を歪めた。 「っていうか……。優吾はなぜ、俺の結婚相手が女だと思った?」 「あれから十年経って……。養護教諭になったお前が、運命の相手と出逢って幸せな生活を送っている――そう、想像するのが普通だろ」 「普通――ねぇ。俺、あの時から普通じゃなかっただろ?」  茶化すように言った稔の腰に優吾の手が絡まり、グッと引寄せられる。たった一度だけ体を重ねただけの相手に、期待を持たせるような仕草をする優吾に対して、稔はわけもなく苛立ちを覚えた。稔の想いなど知る由もない彼が、どうしてこんな真似をするのか理解出来なかった。 「離せよ……」 「離さない。その指輪を贈った奴のこと聞くまでは、絶対に離さない」 「バカだろ、お前……。お前には関係な――」 「なくないっ!」  言いかけた言葉を鋭く遮った優吾は、稔の柔らかな髪に鼻先を埋めたまま続けた。心地よさを覚えながらも、稔は呆れたふうを装い大仰にため息をついて見せた。  地下連絡通路を利用する人が少ない時間帯だとはいえ、誰が通るかも分からない。男同士が抱き合っている姿など、今ではそう珍しいモノではなくなったが、やはり嫌悪感をしめす者もいる。まして、保護者や学校関係者に見られる可能性もゼロではない。そうなれば稔自身だけでなく、優吾も面倒な事に巻き込んでしまう。  出来ることならば、早々に彼の腕を振り切って逃げ出したい。そのチャンスを伺いながら、稔はふっと体の力を抜いた。 「そういう頑固でお節介なところ。ホントに変わってないな……」  稔がため息まじりにそう呟いた時、後ろから抱きしめていた優吾の腕が肩にかかり、体を反転させられながらタイルの壁に押し付けられた。そして、ぐっと距離を縮めた彼から逃れることも出来ず、気がついた時には唇を奪われていた。  驚きでわずかに開かれたままの唇の隙間から優吾の厚い舌が入り込んで来る。拒んで彼の胸元を叩いてみるが、まったく動じる様子がない。むしろ、繋がりを深くすべく角度を変え口内を弄ってくる。 「――んっ。ふ……うぅ……っ」  幾度となく歯列をなぞっては口蓋に舌を這わせ、溢れてくる互いの唾液を絡ませるように唇を吸い上げる。まるでキスの感覚を忘れていたようだ。それほど優吾とのキスは新鮮で、体にも心にも鮮烈な印象を刻み込んでいく。稔は自身の体が熱く火照ってくるのが分かった。たかがキス、されどキス……。今までに何度も、男を相手に体を重ねてきた稔でさえも経験したことのないキスだった。  激しく舌を絡め、きつく吸い上げる優吾のキスは、初めて彼と繋がり最奥を抉られた感覚に似ていた。S字結腸の入口に突き込まれる硬い先端が、喉の奥を突く彼の舌先に酷似していた。  呑みきれなかった唾液が顎を伝い、膝に力が入らなくなってくる。拒むために彼の胸元に置かれたままの手がいつしかシャツを掴み、縋るように震えていた。  ――もう、キスはしない。  自分の弱さを知られるのが怖くて、拒み続けていたキス。今はもう、植山とかわした最後のキスがどんなものだったのか思い出せないほど、優吾のキスに溺れている。 「――っふ」  小さな水音を立てながら重なる唇が、銀糸を引きながら離れていく。熱く触れていたものがなくなり、外気に晒された心もとない稔の唇に気づいたのか、優吾は余韻を楽しむかのように何度も啄んだ。互いの呼気で稔の眼鏡のレンズが曇る。白くなった視界の先で、一寸もブレることなく稔を見つめる彼の姿に小さく息を呑んだ。 「――ロフティでなく、お前とキスがしたかった」 「ゆう……ご?」 「お前の唇も……体も知った。今度は……その心を、俺に見せてくれないか」  濃厚なキスで腰砕けにされ、絆された相手はつい自身の心の内を吐露してしまう――。  よく聞く話ではあるが、そんなチョロい手段にまんまと引っ掛かるわけがないと自負していた稔。だが、優吾にロフティの名を出された瞬間、呆気なく落ちた自分がいた。  どこまでも真っ直ぐで、どこを探しても嘘や偽りは見つからない。稔の目を見つめたまま、心のど真ん中を貫くストレートな言葉を投げられれば、落ちない者はいない。優吾の目は十年前と変わらず、稔の心を揺さぶり続けていた。 「格好……つけるな。友達に、許可なくキスするヤツがどこにいるんだよ」 「ここにいる。横暴で節操なし……。欲しいと思ったものは、絶対に譲りたくない独占欲のカタマリ……」 「お前が?」 「これが本当の俺……。嫌いになったか?」  すっと目を細めてニヒルに笑った優吾の色気を目の当たりにした稔は、熱くなった頬を隠そうと顔を背けた。しかし、優吾の手に顎を掴まれ、それさえも許されない。 「お前なんか……昔から、大嫌い……だって、言ってる、だろ……っ」  苦し紛れに悪態をつくが、さきほどのキスで蕩けてしまった体はいう事を聞いてくれない。高揚と羞恥で、自然と涙目になってくる。眼鏡をかけていてもそれは隠せない。 「――じゃあ、好きになれよ。十年前の俺も、今の俺も……」  トクン……。  一度大きく跳ねた心臓が、そのまま激しく鼓動を打ち鳴らす。その音が優吾にも聞えそうで、稔は眉根をキュッと寄せたまま自身の胸元を押えこんだ。  おそらく優吾の言う『好き』は友達としての感覚なのだろう。それを、自分なりに都合よく解釈してしまう自分がいる。それほど彼を求め、彼に縋りたいと思っている。このチャンスを逃したら、これから先もっと屈強な鎧を纏い他人を遠ざけて生きていくであろう自分は、もう二度と彼に甘えることは出来ないだろう……。  稔は目尻から流れた一筋の涙を指先で拭った優吾を見つめ、声を震わせた。 「友達で……いいんだよな? 俺たち……友達、なんだよな?」  その言葉に、一瞬表情を曇らせた優吾だったが、すぐに穏やかないつもの表情に戻ると、唇に綺麗な弧を描いて微笑んだ。 「あぁ……。俺たちは友達だ」 「優吾……」 「だから、全部話せ。隠し事は許さない……」  自らの手で、友達と恋人の間に線を引いた。その線を乗り越えようとする優吾を押し留め、稔は友達として彼と接することを決めた。優吾とそういう関係になったことが島村たちの耳に入れば、彼の手が優吾に及ぶ可能性は高い。それを思うと、その線を曖昧にする勇気はなかった。 「――話すよ。全部、話す」  俯いたまま小声でそう言った稔の左手が不意に掴まれる。驚いて顔を上げた稔の前で、優吾は薬指に嵌められた指輪をまじまじと見つめ、上目使いのまま問うた。 「これは外さないのか?」  稔は苦しげに眉根を寄せたまま唇を噛みしめる、小さく首を横に振った。優吾はそれ以上、指輪の事には触れてこなかった。それが悔しくもあり悲しかったが、自戒のために嵌め続けている指輪を、感情のままに外すほど稔の意志は弱くなかった。  指輪に込めた自戒――。それは、優吾への秘めた想いを封じ込めるためのものだったから。

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