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 稔が大学を卒業して、養護教諭として公立高校に勤務していた二十三歳の時、植山 透に出逢った。彼は、自身が立ち上げた事業が成功し、自社の売り上げを伸ばしながらも、あらゆる業種に手広く参入しようとしていた頃だった。何をしても金が入ってくるという、嘘のような本当の話を地でいく彼の生活は派手で、青年実業家という羨望だけでなく、いろんな人からの恨みや妬みを買っていた。  優吾への想いが恋であると気づいた稔は、離れてからさらに大きくなっていく彼への想いを断ち切るために、植山との交際をスタートさせた。当時の稔は、華やかで活気のある世界に憧れていたのだろう。最初は体だけの関係だったが、時が経つにつれ、稔に対して異常な執着を見せるようになった植山は、何をするにも束縛するようになっていった。  優吾を忘れさせてくれる人なら誰でもいい。厳しい植山の束縛が心地よく感じられ、体だけの繋がりだった彼への想いが、いつしか恋愛であるかのようにすり替えられていった。しかし、休日になると高級外国車を駆って旅行に出かける植山とは逆に、稔は彼のマンションでなかば監禁状態で過ごすことが増えていった。コンビニに出掛けるにも、彼の許可を貰わなければならず、監視役の彼の部下と買い物に行くことが日常だった。  養護教諭としての地位を築きながらも、遊び人の青年実業家に飼われる日々。そこに自由はなく、ただセックスするだけの関係は変わることはなかった。それに、植山には稔の他に何人もの愛人がいた。彼と正式に結婚しているわけではないので『愛人』という呼び方には語弊があるかもしれない。もしかしたら、他の人に言わせれば稔自身も『愛人』という位置づけだったかもしれないのだ。植山はゲイではない。女性も男性も、自身が気にいれば誰でも抱くバイセクシャルだ。それを知っていながらも、彼の元から離れなかったのは、稔の中にまだ優吾の面影があったからだろう。  だが、ある時を境に植山の態度が一変した。毎週末、家を空けていた彼がマンションにいるようになり、稔に対して急に優しくなった。数多くいた愛人を清算したという彼の言葉は信じられなかったが、毎日繰り返される「愛している」「結婚しよう」という言葉を鵜呑みにしてしまったのだ。そして、彼から贈られた結婚指輪を左手の薬指に嵌めた。浮気性の男も、巡り巡って本命のもとに戻ってくるという話もある。これで彼も落ち着いてくれると、稔は彼の言葉を信じ、優吾への叶わぬ想いを断ち切って植山と生きていこうと決めた。  彼と出会ってから四年という歳月が過ぎていた。稔も勤務していた公立高校を辞め、私立の男子校に養護教諭として赴任したばかりの時だった。  現在の日本では、同性同士の婚姻はまだ認められていない。LGBTQの社会的地位を求める声が上がり、各企業や自治体での取り組みがなされ、以前に比べれば働きやすく生きやすい時代になったとはいえ、まだ法律を変えるまでには至っていない。それ故に、彼の「結婚しよう」という言葉に何のメリットがあるのか分からなかった。同性同士のカップルであれば、養子縁組という形で籍を入れることが出来るが、夫婦にはならない。たとえ事実婚という形式をとっても、法律上は正式な婚姻関係とは認められず、遺産相続や保険金の受取り、何より病院で最期を看取ることも親族ではないという理由で断られる。  それなのに植山が結婚に拘った理由――。それを知ったのは、彼が新規に介入した事業が失敗し、多額の負債を抱えたと耳にした時だった。  そもそも、植山の派手な金遣いは会社経営を圧迫していた。それでもと手を伸ばした新規事業が決定打となったようだ。多くの社員への給与の未払い、取引業者への債務が重なり、もういつ倒れてもおかしくないところまで追いつめられていた。そして、新規事業を持ちかけた会社も相手が悪かった。土地開発や売買・マンション管理などの不動産会社が関東極龍会(かんとうごくりゅうかい)のフロント企業であったことで、事態は最悪な方向に転がった。  いい話があると持ちかけた植山に、手付金としてその会社が支払った二億円を彼が持ち逃げしたというのだ。相手の弁護士は正式な場所で戦ってもいいと、自身の立場に臆することなく言ってきたが、それは確実に勝算があってのことだったのだろう。植山は使い込んだ金を返済するために、傘下にあたる九里(くのり)組の若頭である島村が経営する闇金融で働くことを強いられたが、そこでも客から回収した金を使い込んでいた事実が発覚する。追い詰められた植山は、数多くいた愛人に――ではなく、自身のマンションで一緒に住んでいた稔を保証人として、関東極龍会と島村の闇金で使い込んだ全額を返済する旨を記した借用書を書いてしまったのだ。  そして……彼は行きつけの店で知り合ったというキャバ嬢と行方をくらました。  たった一人残された稔にはその後、督促の電話が鳴りやむことがなかった。一日中鳴りやむことのない電話に辟易し、学校にいる間は電源を切るようにした。だが、島村たちは学校のそばで待ち伏せ、執拗に返済を迫った。  私立高校に勤務しているとはいえ、稔が簡単に支払える額ではない。支払うことを拒めば、向こうは弁護士を盾に脅してくる。そうなれば養護教諭としての職も追われかねない。  優吾を忘れるためだったとはいえ、植山のようなクズに入れ込み、信じた自分が悪い。もう会うことはないであろう優吾への想いをこの指輪に封じ、完済した暁には晴れて彼に思いを告げよう――そう、思った。  副業が認められている学校だったこともあり、最初は家庭教師などをやっていたが纏まった額がどうしても返せなくなり、ついに稔は夜の街に身を投じた。ゲイ専門の風俗店は人気があり、ゲイでなくても興味があるというだけで利用する者もいる。生まれながらに女性のような面差しを持つ稔――ロフティが、無店舗型の出張キャストランキングの上位に上り詰めるには、そう時間はかからなかった。今や『スブ・ロサ』きってのドS女王として君臨する稔には、毎日のように予約が入ってくる。  心身ともに疲弊する日々を過ごしていた稔に、予想外の出来事が起きた。同じ学校に優吾が赴任してきたのだ。彼への想いを封じてきたはずなのに、顔を見た瞬間に呆気なく心の奥底にあった扉が開き、あの時よりももっと大きく膨れ上がった想いが溢れ出してしまった。それを隠そうと必死になる一方で、十年前と変わらない彼と接し、自身が抱えている現実の重さに身動きが出来なくなった。毎日、息苦しさを感じ、後ろめたさに虚勢を張り続ける。そして、ついに……優吾と体を重ねてしまった。正確に言えば、客とキャストとしてであったが、繋がったことには変わりはない。  優吾と出逢ってから大切に守り続けて来た宝物――彼という聖域、安らぎをくれるオアシスを自身の手で壊すのは、とてつもない解放感と高揚感をもたらす。そして、粉々になったものを目にしたときの絶望と虚無の大きさに打ちのめされる。  もう十年前には戻れない。まして、何も知らない他人には戻れない。  それなのに、彼は真っ直ぐな目で見つめてくる。仄暗い心の奥底を照らす一筋の光を湛えたその目に、すべてを見透かされそうで怖かった。  逃げて、振り切って……。何度も冷たくあしらうのに、彼は「知りたい」と手を差し伸べてくる。  島村との事は知られたくなかったし、関わらせたくなかった。だが優吾に島村とのやり取りを目撃されたのは、先月決められた額を支払うことが出来なかった自身の怠慢が引き起こしたアクシデントだ。養護教諭としての研修会や資料作り、新入生の健康診断などの業務が重なり、客からの予約を一方的にキャンセルした。そのことで『スブ・ロサ』のオーナーと一悶着あったことは否めない。その上、島村から情婦(イロ)にならないかと誘われた。借金以外、何も背負うものがなければ二つ返事で承諾しただろう。しかし、今の稔には優吾という愛してやまない男がいる。彼のためにも、その選択肢は考えられなかった。  もう、何もかもから逃げ出したかった。それなのに稔は、呆気なく優吾の腕に絡め取られ、真っ直ぐな目で射抜かれ、植山と離れてから誰とも交わすことのなかった唇を奪われた。  逃げ場を失った稔にはもう、彼以外に縋る人はいない。  壊してしまった聖域に足を踏み入れることを許されるのならば、形振り構わず懇願するだろう。  ――もしも時間が戻せるのならば、俺の心の拠り所をもとに戻して。優吾という聖域、癒しのオアシス。それだけで何も望まない。  *****  稔はソファの上で両脚を抱え込んだまま、肩を震わせていた。  本来ならば居心地がいいはずの優吾の部屋。エアコンの送風音がやけに大きく聞こえるのは、稔の気持ちが落ち着かないせいだろう。今は針のむしろに座っているようで、自身が口を開くたびに絶え間なく与えられる痛みにじっと耐えていた。  テーブルを挟んだソファで稔の話を黙って聞いていた優吾は、ゆっくりと立ち上がると稔の隣に腰かけた。そして、震えたままの細い肩を抱き寄せると、明るい栗色の髪に顔を寄せた。 「スッキリしたか?」  彼の口からどんな慰めの言葉が出てくるのだろう。いや、呆れて何も出てこないかもしれない。  過度な期待は身を滅ぼす。それでも、彼の口から紡がれる言葉を、何でもいいから欲していた自分がいた。 「全部、吐き出して……スッキリしたか?」  どこまでも穏やかな優吾の低い声に、稔は小さく鼻を啜りあげた。二十八歳にもなって、自分の弱いところばかりを好きな人に見せることになるとは思ってもいなかった。これでは、多感な高校生と変わらない。恥ずかしさに顔を上げられずにいると、優吾の大きな手が優しく頭を撫でた。 「――お前は何も悪くない。それに、植山が書いた借用書はお前の自署じゃない。そんなのは、きちんと調べればすぐに分かることだし、夫夫といっても法律上は認められていない。だから、お前も被害者として植山を訴えることが出来る。――知り合いに腕利きの弁護士がいる。きっと親身になってくれるから、一度話を聞いてもらったほうがいい。もう、一人で抱え込むのはやめろ。抱え込んだところで何も解決しない」  優吾の言葉は実に分かり易く、国語教師として多くの生徒に慕われ、人気がある理由が分かった気がした。非の打ち所のない慰めの言葉。慰めというより助言に近いそれは、ありきたりな言葉よりも稔の心を軽くしてくれる。  分かっていても、自分の口から出るのは言い訳でしかない。稔の心の内を代弁し、さらに擁護してくれた優吾の優しさと頼もしさに涙が溢れて止まらなくなった。 「泣くなって……。俺が泣かしたみたいでツラい」 「お前が泣かしたんだろ……。あのさ、もう大丈夫だから。聞いてくれただけで嬉しいし、ちょっと落ち着いた。でも、これ以上、優吾を巻き込みたくない。植山のことは……俺がきちんとする、から」  稔は、心とは裏腹の言葉を口にする。優吾に縋りたい一心でこの部屋まで来たが、やはりこれ以上迷惑はかけられない。何とか自分の力だけで片付けるしかない――そう思った。 「なに言ってんだよ。お前一人で何が出来るって言うんだ? もっと頼ってくれ。それとも、俺は友達としてそんなに頼りないか?」 「違う……違うって言ってんの! お前に、迷惑かけたくないから……。自分で犯した過ちは自分で何とかしたいんだよっ。それが自戒……」 「自戒? なんだよ、それ……」 「何でもない。もう、お節介とかいらないから。どうしても無理ってなったら、その弁護士のところに行くから……」 「稔っ」  勢いをつけてソファから立ち上がった稔は、優吾の手を払いのけると玄関へと向かった。ここにいるだけで、彼に抱きしめられているような気がする。香水、煙草、柔軟剤の匂いでさえ彼を意識してしまう。  好きで好きで堪らない男が、自分のせいで不幸になっていく姿は見たくない。だから、優しい言葉も肯定も、あのキスの感触もなかったことにする。 「待てよ、稔っ!」  廊下で腕を掴まれ、稔はわずかに振り返った。力任せに引き寄せられ、優吾の腕に抱き込まれる。押し付けられた鼻がシャツに染み込んだ彼の匂いを敏感に察知して、浅ましくも体中に快楽物質として拡散していく。 「――どうして、そこまで俺を拒む? 俺はお前のことが心配で……」 「き……嫌いだからに、決まってんだろ。優等生で偽善者で……本当は、俺のことバカにしているんだろ? だから優等生って昔から、嫌い――」 「いい加減にしろっ!」  優吾の鋭い怒声に、稔はビクッと肩を震わせた。恐る恐る顔をあげると、すぐそばにある優吾の頬に透明な滴が一筋流れていた。 「いい加減にしろよ……。どんだけ自分を卑下すれば気が済むんだ? 俺は優等生なんかじゃない。昔も今も……真面目で、他人の言う事に素直に従うだけの人形じゃないっ。お前こそ……勘違いすんなよ。いつも黙って聞いてりゃ、生意気で勝ち気なことばっかり言ってるけど、その中身がどんだけ弱いか……いい加減自覚しろっ」 「優吾……」 「弱いから……守りたくなるだろ? 大切にしたいって……思うだろ? 周りに気づかれていないって思ってるのは自分だけなんだよ。どうして……分からないかな。植山に未練があるならそれでも構わない。でも、アイツはお前を貶めた張本人なんだぞ? なんでアイツなんだよ……。俺じゃ……ダメなのかよ」  背中に回された優吾の手に力が入る。背骨が軋みそうなほど強く抱きしめられ、彼の胸の鼓動が煩いほど耳に入ってくる。優吾の涙が稔の髪を伝い、顔を濡らしていく。  体を一回繋げただけじゃ、こんな情は生まれない。何度「嫌い」と突っぱねても、そばを離れようとしないのは心を許している証拠。  涙と一緒に溢れた優吾の想いに触れてしまった稔だが、言いたい言葉が喉に詰まったまま出てこなかった。素直に口にして、彼の背中に両手を回して抱き合えばどれほど楽になれるだろう。彼の想いを知ってしまった今、自分が抱いてきた想いを言い訳にする必要はない。それなのに強張ったままの体は、彼を受け入れようとはしなかった。 「――ダメ、じゃ……ない」 「じゃあ、どうして……っ」 「俺のなかで決めたことだから……。優吾のこと……まだ……言えない」  意固地になっている自分が吐きそうなほどムカつく。頭では分かっているのに、優吾からの想いを素直に受け取ることが出来ない。  稔は、自身の頬を濡らした優吾の涙を手の甲で拭うと、彼の腕の中からすり抜けるようにして離れた。手の甲を口元に近づけて舌先を伸ばすと、その涙を掬うように口に含んだ。 「精液よりもしょっぱくて……。悲しい味がする……」  それは優吾の涙だけではなかった。稔は俯き加減のまま自身の眼鏡を外すと、先程から止まらない涙を見せまいと顔をそむけた。優吾の視線から逃れるようにして涙を拭い眼鏡を掛けなおすと、そのまま玄関ドアを開けた。ひやりとした風が涙の痕を冷やしていく。優吾に何も言うことなく後ろ手でドアを閉めた稔は、自身の胸を鷲掴んだ。それまでシクシクとした切ない痛みが、次第にジクジクと深い場所で疼くような痛みに変わっていくのを感じ、堪えきれずに小さく呻いた。  スラックスのポケットの中でカチャリと小さな音を立てたロッカーの鍵に気づき、やりきれない思いをぶつけるように前髪をかきあげた。  ほんの数時間前まで、いつものように見知らぬ男に抱かれ、金と快楽を手にして疲れ切って家路につく日常が繰り返される――そう思っていた。それがどうだろう。ほんの少しだけ優吾の想いを知ってしまっただけで、当たり前だと思っていたことが非日常へと変わっていく。 『どうして見知らぬ男に抱かれなきゃならない? 何のために男娼なんて仕事をしている?』  自問自答を繰り返し、疲れた脳が誤作動を起こす。 『淫乱なこの体を満たすためにセックスして、お金まで貰えるなんて……こんな素敵な商売はない』  そんな誤作動に自嘲した稔は、小さく首を横に振って歩き出した。 「これが全部夢だったらいいな……。目を覚ましたら優吾も消えて……何もかもなくなって……たら、いいの……に」  優吾の泣き顔を思い出すたびに足を止め、過呼吸を起こしかけて自身を落ち着かせる。ストレスに弱い子供のような症状を起こす自分を嘲笑いながらも、稔は耳の奥に残る優吾の声を思い出し、夜が明けるまで声を殺して泣き続けた。

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