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【7】
優吾はその日、意を決して保健室のドアをノックした。
あんな別れ方をしてから一週間、優吾はマトモに稔の顔を見ることが出来なかった。感情が昂ぶったとはいえ、あの状況で自身の想いを告げたことを後悔していた。
それだけではない。稔はその後も、男娼ロフティとしてその身体を見知らぬ男に捧げ続けていた。『スブ・ロサ』のアプリからブロックされている優吾は、インターネットカフェに行き、別のアカウントを使って稔の予約状況を確かめたのだ。
島村に金を返さなければ借金は終わらない。金を返すためには養護教諭という仕事だけでなく、身を穢しても高額支給が望める男娼の方がいい。
多少は返済したとはいえトイチという利息が付けば、時間が経つにつれ利息だけで元金を上回ってしまう。稔の焦りは、彼の表情からすぐに窺えた。ランキング上位者は自身の都合でキャンセルが出来ると聞いていたが、あの日からキャンセルしている様子がない。多い日には一晩に四人の相手をしている。寝不足と極度の疲労が蓄積しているせいか、頬がこけ、やつれているようにも見えた。
自称淫乱といっても、男同士のセックスは激しく、客に特殊なプレイをオーダーされることもある。料金はそれなりに跳ね上がるが、稔としてはかなりツラい状態が続く。
そんな彼を見るに見かねて、優吾は拒まれるのを覚悟で訪れたのだ。今夜はさすがに予約を受け付けられなかったのか、午後八時を過ぎても保健室には明かりが灯っていた。職員室で小耳に挟んだ情報では、また研修会があるらしく、稔に資料の作成依頼が来ているらしい。養護教諭というのは意外と仕事が多く、朝から晩まで忙しない。その合間を縫って、校内の見回りや生徒の相談を受けたり、怪我人などの処置をしなければならない彼は、細身でありながらタフだと思い知らされる。そんな彼の限界が近づいている――そう気づいた優吾は、部屋の中から聞こえた小さな応答に少しだけ安堵した。
細く開けたドアから中を窺うように顔を覗かせると、デスクの上に積まれた本の向こう側に、パソコンの画面に向かう青白い横顔が見えた。
「広瀬先生……」
優吾が『らしくない』呼び方で声をかけると、今気づいたというように稔が顔を向けた。まるで警戒心を剥き出しにした猫のような姿に、優吾はポケットの中に忍ばせていた缶コーヒーをすっと差し出して、いつも使っている丸椅子に腰を下ろした。
「お疲れ……。また研修会の資料を頼まれたんだって?」
眼鏡の奥の茶色い瞳をすっと細め、優吾に対して訝しげな視線を投げる稔に、出来るだけ感情を逆立てることのないよう、何気ない話からアプローチを開始した。細心の注意を払って、一度離れてしまった彼との距離を詰めていく。
「あぁ……。こういう時期だから仕方ない。――で、お前はこんな時間まで何をしているんだ?」
「俺は今日やった五クラス分の小テストの採点。平均点出して、明日の授業に反映させないといけない」
「へぇ……。人気教師は、今日も生徒に追いかけられてたな? 理解出来ない文法を教えてくれといいながら、密かに恋い焦がれて追っかけまがいな事をしている奴らもいるんじゃないか?」
チラッと視線を向けただけで、すぐにパソコンの画面に目を戻した稔を、優吾が身を乗り出して覗き込んだ。
「――妬けるか?」
「バカな……」
「お前、かなり疲れているように見える……。時には早く帰って、ゆっくり体を休めたらどうだ?」
「お前に心配されたくない。お前こそ、さっさと帰れ」
この前の夜のことなどなかったかのような稔の塩対応に、優吾が抑えてきた感情が燻りはじめた。また同じことを繰り返したくはない。でもこれ以上、稔に男娼を続けさせるわけにはいかない。
せめぎ合う感情が優吾の中で徐々に火を熾していく。
「――あのさ。この前の話、してもいいか?」
青白い頬がピクリと反応した。だが、稔は顔を優吾の方に向けることなくキーボードを叩き続けている。
「ダメだ」
抑揚なく吐き捨てるように応えた稔は、そのまま口を噤んだ。
「どうして?」
優吾の問いかけには答えない。そのかわり、かなり緊張しているのか、白い喉仏が何度も上下しているのが分かった。触れたくない、触れて欲しくない……言葉に出さずとも稔の体から発せられる、優吾を拒むオーラが徐々に強くなっていくのが感じられる。
「弁護士事務所、行ったか?」
「……」
「早く行った方が良いぞ? 大体の話はしておいたから、行けばスムーズに話が進められるはずだ」
「……」
無言を貫く稔に、優吾は大仰なため息をついて見せた。そのため息で少しでも彼の気をひければ……と思ったが、稔は視線さえも動かすことはなかった。
大きく開けられたシャツの襟元から覗く白い鎖骨が気怠げでやけに色っぽい。白衣も一日分の激務を表すかのように皺が目立っている。見方を変えれば扇情的にも見える稔に対して、まったく下心を抱かないといえば嘘になる。保健室に充満する消毒液の匂いに混じって、汗と稔が纏う香りが混じり合い、ある種のフェロモンを生成している。それを嗅いだ優吾は、自身の下肢が熱くなるのを止めることが出来なかった。
「――夕べも、知らない男と寝たのか? 気持ちよかったか? お前……後ろの穴を指で弄られるの好きだもんな」
不意に優吾が口にした猥談に、稔の薄い肩がビクッと震えた。奥歯を強く噛みしめているのか、こけた頬に力が入るのが分かった。
「どんな男だった? 客のチンコ、喉奥まで咥えて……またイキそうになったのか? それとも、我慢出来ずに自分の手で扱き出したとか――」
「黙れっ!」
そう叫びながらデスクに両手をついて稔が立ち上がると同時に、座っていた回転椅子が派手な音を立てて倒れた。声もさながら、その勢いはかなりのものでキャスターが虚しく空回りしている。
怒りとも憎しみともつかない複雑な表情で優吾を睨みつけた稔は、肩を上下させるほど荒い息を繰り返していた。
「お前に何が分かる……。口先だけの同情なんかいらない。お前が俺に抱いている想いなんて、所詮バカな客と同じだ。いい言葉を並べ立てて、気持ちよくさせて……少しばかりの札を握らせれば、自分から脚を開いておねだりする。そうしたらもう、穴という穴に突っこんで、自分の欲望をぶちまければいい。それを嫌な顔一つせず呑み込んでくれる肉便器――それが俺。借金返済のためとはいえ、この体は拒むことをしない。なぜなら、俺は淫乱ビッチだから――」
「稔っ!」
優吾は彼の言葉を遮るように鋭く叫ぶと同時に、稔の体をデスク後方にあった幅のある会議机の上に押し倒していた。そして、稔の両手を頭上にまとめ上げて押え込むと、その上に覆いかぶさるように重なった。
「そんなに男のチンコが欲しいなら、突っ込んでやるよっ」
互いの息が重なるくらい顔を近づけた優吾は、獣の唸り声にも似た低く凄みのある声で言った。それに圧されたのか、稔は大きく目を見開いたまま開きかけた唇をキュッと結んだ。
「――ほら、誘ってみろよ。あの時みたいに……」
優吾は稔の耳朶にやんわりと歯を立てると、耳殻をなぞるように舌を這わせた。たったそれだけで稔の体が小刻みに震え出すのが分かり、そんな姿が優吾を余計に苛立たせた。大きく開いたシャツの衿から覗く白い首筋に噛みつく様に唇を押し当てる。キメの細かい滑らかな肌が鬱血するほど強く吸いながら、自身のモノだという証をいくつも残していく。
稔は小さな声をあげて足をバタつかせたが、体格のいい優吾に押えこまれては身を捩ることしか出来ない。
シャツのボタンを外し、貪るように稔の肌に口付ける。口では「嫌だ」と拒むものの、胸の突起は優吾の舌に反応し、硬くしこってきている。それを、果実を食むように唇で挟み込み、舌先で抉るように圧し潰すと、稔の薄い唇から甘さを含んだ声が漏れた。何人もの男に弄られたその場所は、わずかな愛撫でも快感を引寄せてしまう。
「お前が望む通り、ここで犯してやる。友達ヅラしてる俺に犯される気分ってどう?」
優吾が意地の悪い笑みを浮かべながら、稔のスラックスのベルトに手を掛けた時だった。細い腰が波打ち、薄らと纏った腹筋が小刻みに痙攣した。
「――ない」
喉の奥から絞り出すような小さな声が、稔から発せられた。それに気づいた優吾は下肢に伸ばした手を止め、真上から稔を見下ろした。そして、徐々に力を抜きながら押え込んでいた彼の手を離した。それを待っていたかのように稔は優吾の手を振り払い、自身の手で顔を覆いながら堪えても漏れてしまう嗚咽に喉を鳴らした。眼鏡のフレームと頬の隙間から絶え間なく涙が流れる。その涙を拭うことなく、稔は唇を震わせたまま言った。
「もぅ……わか、ん……ないっ」
「稔?」
「俺……壊れちゃう、よ。な……んで、こんな目に……遭わなきゃなんない? いっそ……島村の、オンナになったほ……が、いいの……かもっ」
幼い子供のように体を震わせながら泣く稔の姿に、彼を犯そうとしていた自分を殺してやりたいと思った。借金のせいだとはいえ、心配する優吾を冷たくあしらい、どこの誰とも分からない客の男に抱かれる彼を、これ以上黙認することが出来なかった。彼には彼なりのやり方がある……そう割り切って、温かい目で見守ってやることが出来ない自分が堪らなく許せなかった。八つ当たりには違いないが、稔自身に怒りの矛先を向けてしまった自分が情けなく、酷く幼稚に思えた。
精神的にも体力的にも目に見えて疲弊しきっている稔になぜ、こんな酷い仕打ちをするのか。自身の想いを無下にされた悔しさからか、それとも彼に対する異常なまでの執着の表れか。
「稔……」
「も……やだぁ。死にたい……。俺、生きてても、いいこと……ない」
高校時代、ありもしない噂が立とうと、クラスメイトから誹謗中傷されようと、絶対にその言葉だけは口にしなかった。ヘラヘラと自嘲しながら「言いたい奴には言わせておけ」と、優吾が驚くほど強気な姿勢を崩さなかった稔。
でも――今はその片鱗もない。弱い者ほど強がるとはよく言ったもので、稔はうちに秘めた弱さを他人に知られるのが怖かったのだろう。もちろん優吾にも……。
彼の中に抱え込んできた諸々の想いが、張り詰めていたものと一緒に限界を超えた。頑丈に見えて、実は細くて弱い糸は呆気なく切れた。そのきっかけを作ったのは自分だと、優吾は自覚した。
涙でぐしゃぐしゃになった顔をそのままに、嗚咽を漏らしながら泣き続ける稔を見つめていた優吾は、自身の拳を爪が食い込むほど握りしめ、彼の上から退いた。
「――るさない。死ぬとか、絶対に許さないからなっ」
「だって……。もぅ、俺……生きてる、意味……ない」
「あるだろっ!」
優吾は稔に背を向けたまま声を荒らげた。その声に驚いたのか、稔の嗚咽が一瞬だけ止まった。
「お前が生きてなきゃ……意味がないんだよ。何のために……出会ったんだよ、俺たち」
「分かんないよ、そんなのっ!」
稔の悲痛な声が保健室に響いた。優吾が振り返ると、そこには会議机の上で俯せになったまま、しがみつく様に爪を立てて肩を震わせる稔がいた。当時の稔を知っている者が見たら絶句し、目をそむけるであろう稔の憐れな姿。自由奔放で、何も怖いものなどないと言っていた彼が、優吾だけに見せた弱さ。
細くて、か弱くて、繊細なガラス細工のように脆くて儚い――それが、稔が隠し続けていた本当の心。
「――いい加減、気づけよ! 誰がお前のそばにいるんだよっ。誰が……お前を見てるんだよ。誰が……お前のことを……。十年前からずっと……好きだったと思ってんだよっ」
優吾の声に、稔の動きがピタリと止まった。お互い微動だにすることなく長い沈黙が続いた。その沈黙を破ったのは、のそりと身じろいだ稔の衣擦れの音だった。
「それって……ズルいよ」
鼻を啜りながら掠れた声で言った稔。優吾は自身の激高を静めるように、細い息を何度か吐き出した。
「今頃、そんなこと言うのって……卑怯だろ。俺……どんだけ、優吾に酷い事した……? 俺、お前の想いを……どんだけ踏み躙ってきた? 最悪……。やっぱり、俺……最低だ」
「勝手に自己完結するな……。その最低な男に、心底惚れてる俺の前で……二度と、死にたいとか言うな」
「自惚れんな……。俺は、お前のことなんか……っ」
体を起こしながら掌で乱暴に涙を拭った稔が、濡れた眼鏡を外した時だった。大きな歩幅で近づいた優吾は長い腕で彼の薄い肩を強く抱きしめると、稔の細い顎を掴みあげ乾いた唇に噛みつく様に口づけた。咄嗟のことで身構えることが出来なかった稔は、瞠目したまますぐ近くで震える優吾の長い睫毛を見つめる事しか出来なかった。
何かを確かめるように。そして、口には出せない真の想いを探るべく、優吾の舌は稔の口内を優しく愛撫した。涙の味がする唇を何度も啄み、濡れた唇のまま囁いた。
「お前の『嫌い』は聞き飽きた。もっと他に、言いたいことがあるだろ?」
「ない……」
「もう、隠す必要ないだろ……」
優吾の吐息が稔の唇にかかる。それでも彼は頑なに心の内を明かさない。
でも、稔の潤んだままの栗色の瞳はすべてを物語っていた。涙は纏ったままではあるが、先程までの憂いはどこにも見当たらなかった。
「――言わぬなら、言うまで待とうホトトギス」
国語教師でありながら、歴史上の人物が残した名言を応用した優吾に、稔はすっと目を細めて短く鼻で笑うと抑揚なく言った。
「一生、待ってろ」
「モチロン。ヨボヨボの爺さんになっても待ってる」
チュッと小さな音を立てて稔の唇を吸った優吾は、腕の中にある彼の体温を感じながらゆっくりと目を閉じた。
(もう、離さない。絶対に、離さない――)
稔の体温の上昇と共にふわりと香ったのは、初めて会った時に嗅いだ綿菓子の匂い。表には絶対に出さない彼の心の内から発せられるもの――そう信じてきたものが、優吾の中で確信に変わった瞬間だった。
*****
稔は、優吾に紹介された弁護士事務所を訪れていた。
高成 法律事務所は、設立されてまだ数年しか経っていないにも関わらず依頼人があとを絶たないという、その界隈では有名な事務所だ。所長である高成 真純 が、以前在籍していた大手法律事務所から独立して、他の弁護士を雇うことなく一人で立ちまわっている。
なぜ、優吾が弁護士事務所と関わっていたかは聞かなかったが、彼の熱意と想いを知った今、稔の足は藁にもすがる思いで光の射す方へと向いていた。
事前に何度か、彼と電話でやり取りする機会があった。声の雰囲気では落ち着いた大人の男性という印象が強かった高成だったが、実際本人を目の前にした稔はあまりのギャップに驚いた。まず最初に連想した職業はホストだ。身長は稔とそう変わらず――いや、ほんのわずかだが高成の方が低い。体つきは無駄なものがなく引き締まっているから余計に細く見えるのだろう。弁護士というとお堅いイメージが先行するが、髪は明るい栗色で、女性らしい一見おっとりとしたようにも見える整った容姿をしていた。しかし、彼が口を開いた瞬間、またもや大きなギャップを突きつけられ、稔は困惑の色を隠せなかった。
応接室でテーブルを挟んで座った高成は、脚を組みながら煙草をパッケージを引寄せた。
「失礼しても?」
「はい……」
わずかに目を伏せた彼が煙草に火をつける様子は、同じ男である稔でも息を呑むほど美しかった。稔も男娼として容姿にはそれなりの自信があった。だが、高成を目の前にするとそんな事を思っていた自身が恥ずかしくなってくる。
ゆるりと煙草を燻らせた彼は、テーブルの上に積まれたファイルを捲りながらチラリと稔の方に視線を向けた。
「――大体の話は池波くんからの説明と電話の内容で理解している。で、俺が知りたいのは……あなたがどうしたいかってこと」
「どうしたいって……。それは、ヤクザ絡みの植山の借金を……」
「そうじゃなくて。俺は、依頼人から頼まれれば何が何でも勝つことを前提に動く。だが、俺ががむしゃらに動いたところで、あなたにその気がなければ勝っても意味がない。例えば、この件が問題なく片付いたとする。――で、それから先のヴィジョンがあるのかって聞いてんの」
高成はソファに凭れ、組んだままの脚をぶらぶらと揺らした。柔らかに切り出したかと思えば、急に高圧的になる。初対面である者からしてみれば少々苛立ちを覚えるそれが自身の言動によく似ていることに気づき、稔は高成を直視することが出来ずに俯いた。
話を聞こうとする優吾に対してこういった言動を繰り返してきた稔。だが、それを文句も言わずに受け止めてきてくれたと思うと、申し訳ない気持ちでいっぱいになってくる。
「――話は変わるけど、同棲してた植山が事業で前受けした二億と闇金融の事務所から横領した金、全部ひっくるめて闇金融から借りたことになっているんだよな? それでトイチの利息がついて膨れ上がってる。闇金融の代表者……島村って言ったか。指定暴力団縁権会系関東極龍会傘下、九里組若頭って立派に聞こえる肩書き背負ってるけど、人の弱みにつけこんで金を搾り取るクズ。ここのところ、九里組のフロント企業である闇金融絡みの相談が増えててさ。その度に島村の名前を聞いてるから、いい加減飽きてきた」
「え……?」
「契約書って見たことある?」
「ない……です。いきなり電話がかかってきて、借金を払えって怒鳴られて……」
高成は大仰な溜め息をついて、短くなった煙草を灰皿に投げ入れた。ゆらりと大きく揺れた煙の向こう側で、薄い唇を歪めてニヒルに笑った。
「それがアイツらの手口。だけど、どうして借金という名目にしちゃったかな。その方があなたから回収しやすいと思ったのか……。そもそも闇金融業者は、国や都道府県に貸金業の許可を受けていない違法営業だ。島村の会社も然り。だから『借金』であれば返還請求は出来ない。つまり返済する必要はない。それに、勝手にあなたに確認せず連帯保証人に署名押印した植山は、有印私文書偽造罪で刑事罰の対象となる。あなたの印鑑、どこに保管していた? 植山がすぐに持ち出せるような場所に置いてあったり、それが実印だったりすると裁判で不利になる可能性がある」
見た目はチャラいが、スイッチが切り替わった途端に弁護士らしい話をし始めた高成に安堵した稔は、自身の大切な物は貸金庫に預けている旨を話した。高成はホッと息をついたが、組んだ脚の上に肘を乗せて思慮深く眉根を寄せた。
「そうなると……島村もあなたも、共に被害者ということになる。それを法的に証明する必要があるが、島村はあなたに連帯保証人になったという確認を怠っていたという落ち度がある。でも、それだけじゃ弱い。それに、契約書のコピーも手元にない上に、もう支払っている。本来なら勝手に連帯保証人にされたと気づいた時点ですぐに弁護士に相談して策を講じるのがベストだったんだが……。とにかく、こちらとしては執拗な取り立てを辞めるように牽制する。それから、俺が向こうの弁護士と話し合う。相手は反社だ。のらりくらりとかわすだろうが、そうなったらこっちも黙ってはいないから安心しろ。俺、反社って大嫌いだから……」
「島村たちに何かされないですか?」
「そうならないようにする。こっちには警察っていう最強の切り札があるから……」
「切り札……ですか。じゃあ、これで借金はなくなるってことなんですね?」
「まだ分からない。でも、俺は何としても勝ちたいと思ってる。――広瀬さん。ちょっと踏み込むようだけど、もう男娼なんて仕事は辞めた方が良い。あなたは養護教諭としての地位もある。セックスジャンキーなら仕方ないけど、見る限りそうではなさそうだ。それに、その指輪……。それ、植山から貰ったものだろ? あんなクズみたいな男にまだ未練があるのか?」
高成の視線が自身の指輪に注がれていることに気づいた稔は、それをさりげなく手で隠して俯いた。言動は少々荒いが親身になってくれる高成。話の端々から彼の人となりが見え、緊張していたはずの体から余計な力が抜け、今ではすっかりリラックスしている。
稔はゆっくりと顔をあげると、真っ直ぐな目でこちらを見ている高成と視線がぶつかった。それはどことなく優吾の目に似ていた。後ろめたさと、瞳が放つ眩しさに稔が目を細めると、高成はすっと目を伏せて煙草のパッケージに手を伸ばした。
(何かに気づいたのだろうか……)
あまりのタイミングの良さに胸の内を見透かされているような気がして、稔はもう隠してはおけないと腹を括った。
「――これは自戒なんです」
「自戒?」
煙草を唇に挟んだまま訝るように首を傾けた高成に、稔は言葉を選びながら話し出した。
「高校時代からずっと好きな人がいて、その人のことを忘れるために植山とつき合ったんです。そしたらこんな目に遭って……。だから、この件が片付いたらその人に素直になろうって。それまでは外さない……自分の過ちは自分で何とかするって決めたから」
「――いくら頑張っても、自分一人じゃどうにもならないこともある。今回の事、その人は知ってるのか?」
「ええ……。毎日のように心配してくれて。でも、俺はお節介だって突っぱねて……。先日、彼の気持ちを初めて知ったんです。嬉しかった反面、これ以上は迷惑はかけられない……離れようって思いました」
「なぁ、その人とセックスした?」
高成は衒う様子もなく直球で問いかける。今までの稔ならば適当に受け流していただろうその質問に、迷うことなく応えた。
「しました。男娼 と客……という関係で」
「へぇ……。出張キャストを指名してきた客が、偶然にも彼だった……ってパターンか。それで、どうだった?」
「今まで守ってきた彼という聖域を、自分で壊したんです。彼とは最近、十年ぶりに再会して……。こんなはずじゃなかったって後悔もしたし、自分のバカさ加減に呆れたし。何より……想いを秘めてきた分、借金のためにこんなことをしている後ろめたさを感じて。苦しくて、ツラくて……」
稔の真意を探るように目を細めた高成は、細く煙を吐き出しながらグッと身を乗り出してきた。そして、上目使いで稔を見上げると、薄い唇をわずかに綻ばせて言った。
「――で、最初の話に戻るけど。あなたはどうしたい? その人と、どうなりたい?」
高成の問いかけは有無を言わせない迫力がある。でも、怖いという感覚はない。でも、彼に嘘をついたところで簡単に見抜かれてしまうだろう。言葉遣いは大雑把で随所に毒が見え隠れしているが、自発的に思ったことを答えなければいけないように思えてくるから不思議だ。これが敏腕弁護士の力量かと感心させられる。
依頼人に嘘を吐かれたら、いざ裁判になった時に圧倒的に不利になる。そうならないために、引き出せるものはすべて引き出すというのが彼のスタイルなのだろう。
「一緒にいたい……。高校時代、両親に反発して周囲から浮いた存在だった俺に、なんの偏見もなく話しかけてきてくれた。それが嬉しくて、彼と一緒にいる時が一番満たされていた。その証拠に、彼と離れて情緒不安定になった時期もあった。十年経って再会したことは、運命のいたずらじゃなく必然だと思いたい。今度こそ、離れたくない……から」
高成はゆっくりと上体を起こすと、ここに来て初めて見る柔らかな笑みを浮かべたまま、テーブルの上に置かれた資料に手を伸ばした。細く長い指先。この指を大切にしてくれる人がいるのだろうか。この人にも大切にしたい人がいるのだろうか……。稔がぼんやりとその指先を見つめていた時だった。不意に高成が声のトーンを抑えて言った。
「――その人。あなたが指輪をしている事で、何か言ってこなかったか?」
先程までの笑みが消え、真剣な眼差しで見つめてくる高成から目が逸らせない。稔は、膝の上に置いた両手をグッと握りしめると、小さく頷いた。
「ウリをやっていると知られた時、相手を裏切るような真似をするのかって……怒られました。セックスした後も、苦しそうな顔してた……」
「そっか……。ここからは俺の昔話だ。適当に聞き流してくれて構わない」
「え?」
話が突然行き先を変えた。養護教諭である稔は、普段から生徒たちの相談にも乗っている。考えを上手く纏められないまま話す彼らを理解することには長けいると自負していたが、高成のペースに合わせて頭を切り返るには少し苦労する。困惑しながらも、彼の話に耳を傾けた。
「俺がまだ駆け出しで事務所に入ったばかりの頃、上司だった弁護士がとある離婚裁判を担当していた。父親の不倫が引き金になった調停だったんだが、二人の間には当時高校生の男の子がいたんだ。頭脳明晰で運動神経も良く、志望した大学には問題なく合格するだろうと担任からもお墨付きまで貰っていた。彼の母親は教育熱心でね。とにかく彼に関しては譲らなかった。おそらくだが……ご主人の不倫を知っていながら気丈に振る舞うには、彼のことに集中することしか出来なかったんだろうな。だが、その子が高校を卒業した翌日、彼女は自ら命を絶った。自身のすべてを注ぎ込んだ彼の親権が、父親側に渡ると知った直後だった。彼女の心を唯一支えていた息子もいなくなったら、自分には何も残らないということを悲観したんだと思う。でも、彼は知っていたんだ。自分の前では涙一つ見せなかった母親が毎晩のように泣き崩れていた姿を。彼と久しぶりにあったのは数ヶ月前のことだ。愛する人を裏切るという行為が許せない。でも自分は、父親と同じ過ちを犯してしまったかもしれない……と、泣きながら相談にきた」
稔はきつく結んでいた唇が、込み上げる嗚咽と共にブルブルと震えるのが分かった。自身の経験談として遠回しに話した高成。でも、その高校生が誰なのか稔には分かってしまった。
そんな話は一度も聞いたことがなかった。何の不自由もなく、恵まれた家庭環境で育った優等生だと思っていた。いつも、明るい表情で近づいて来ては、邪険に扱ってもめげることなく気さくに話しかけてきた。そして、荒みきった心を癒すオアシスのような、温もりと優しさを与えてくれた――。
稔の頬に涙が幾筋も伝った。俯いたまま薄い肩を震わせて嗚咽を堪えるが、彼の顔が脳裏に浮かぶたびに名前と共に漏れてしまう。
「ゆ……ぅご」
濡れたレンズの向こう側で、高成が吸っていた煙草を灰皿に押し付けるのが見えた。稔は指で何度も涙を拭うと、ゆっくりと顔をあげて高成の方を見つめた。
「――想い人が、実は結婚していなかったという事実を知った時、彼はどれだけ救われただろうな」
「高成さん……」
「あなたの知らないところで、こんなにも愛してくれる人がいる。その愛の大きさゆえに、自分が犯した罪に苦しんでいた。――いい加減、素直になったらどうだ? もう、隠すことなんて何もないんだろ?」
「はい……。何も、ない……です」
テーブルの上にそっと差し出されたハンカチに驚き、稔はおずおずとそれに手を伸ばした。男性用にしては少し甘さのある香水の香り。それを目元に押し当てると、高成の優しさに触れたような気がして、また涙が溢れた。
「おい。あんまり泣くなよ。また俺が泣かしたって、ここの雑用係に責められるだろーが。――ったく、島村の件はきっちり俺が片付けてやる。だから、自戒なんてカッコつけてないですぐに指輪を外せ。そして、彼に想いを告げればいい。あと――ウリはすぐに辞めろ! いいなっ?」
「はい……。ありがとうございます……」
照れ隠しなのか、高成はそれだけ矢継ぎ早に言い残すと、資料のファイルを手に応接室を出て行ってしまった。勢いよく閉まった木製ドアの向こう側で、事務所内でデスクワークをしていた青年の声が微かに聞こえた。それに対抗するように声を荒らげている高成の声も聞こえる。そのやり取りを聞きながら、稔は心の中に溜まっていた澱がすっと消えていくのを感じた。
なぜ、もっと早くこうしなかったのか。すべては自分の身勝手な行動のせいだということは分かっている。それが原因で、優吾との関係をいつも不穏なものへと変えていた。
部屋の外が急に静まり返った。しばらくして、控えめなノックの音と共に青年がトレーを持って遠慮がちに入ってきた。稔は慌てて身支度を整えると、まだ残っていた涙を乱暴に拭った。
「失礼します……。大丈夫ですか?」
「はい。こちらこそ、すみません」
緩くウェーブした髪と少し幼さを残す容貌が印象的な青年は、トレーに載っていたコーヒーカップをソーサーごと稔の前に差し出すと、柔らかな笑顔を見せた。細身の体に上質なスーツを身に纏った彼は、一見すると何の苦労もなく過ごしているように見えるが、稔を真っ直ぐ見つめる栗色の瞳の中に自分と同じ仄暗さを見つけ小さく息を呑んだ。
「奥部 って言います。俺、高成さんに拾われたんです。もとはウリやってました」
「え?」
「すみません。お話を聞くつもりはなかったんですが……。あの人、口悪いですよね? でも、魔法が使えるんですよ」
奥部と名乗った青年は、トレーを胸に抱きしめながら遠くを見て言った。その姿はまるで夢見る乙女のようで、稔は呆気にとられながらも彼に問いかけた。
「魔法?」
「ええ。人を素直にさせる魔法。嘘を見破る魔法。そして、一番得意なのは想いを繋げる魔法。いっそ弁護士辞めて結婚相談所でも開設すればいいのにって思うんですけどね。それ言うと怒られるから言わないけど……。不思議とあの人が繋いだ想いって壊れないんですよ。俺も繋いでもらったから言えるんですけど、不安で自信がなくて、壊れそうになってる想いが強く太く、ゆるぎないモノに変わる。でも本人はまったく自覚なくて……毒ばっかり吐いてるんですけどね。それに助けられた人、いっぱいいるんですよ。――あぁっ。コーヒー冷めないうちにどうぞ」
ふと我に返った彼は、稔にコーヒーを勧めるとドアの方へと歩き出した。そして、クルリと体の向きを変えて振り返ると嬉しそうな顔で言った。
「だから心配は無用です。想いを繋ぐために、それを邪魔するすべての要因を排除する。それが高成さんの仕事ですから。あ、高成さんはもう出掛けちゃったんで、ゆっくりしていってください」
そう言い残すと、彼はドアの向こう側に消えて行った。沈黙が応接室に広がる。前面道路を走る車の音が稔の耳に届き、ゆっくりと浮上するように意識が戻ってくる。
テーブルに置かれたコーヒーカップを口に運ぶと、香ばしい香りに心が解けていく。一風変わった弁護士に、過去を持ちながらも彼を慕うたった一人のスタッフ。周りを見回せば余計な物が何もない。実にシンプルで実用性を考えたレイアウト。でも、それが高成の考える『仕事』なのだろう。
想いを繋ぐのに余計な物はいらない。ただ、ほんの少しの勇気と素直な気持ちがあればいい。
それを思い出させてくれた彼に、稔は自然と口元が綻んだ。
コーヒーを飲み終えるまでの時間。自身の考えを纏め、十分に落ち着けるだけの猶予を与えてくれた彼の心遣いが嬉しかった。流した涙が乾き、笑みを湛えられるまでになっている自分に驚く。
もしかしたら奥部が言う通り、高成は魔法使いなのかもしれない――。つい数時間前まで、悲痛な面持ちで自身を貶めていた稔とはまるで違っていたからだ。
空になったカップをソーサーに戻すと、高成に借りたハンカチを握りしめ勢いよく立ち上がる。壁際に置かれたキャビネットのガラスに映っていたのは、幼さを残した面持ちに大人びた銀縁の眼鏡をかけた高校時代の稔の姿だった。
優吾への想いが恋だと気づいたあの時に戻りたい――そう、今なら戻れそうな気がした。
見えない何かに背中を押されるように、稔は大きく息を吸い込むと応接室のドアを開けた。そして、笑顔で見送る奥部に深々と頭を下げると、弁護士事務所をあとにした。
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