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【8】

 高成に会って、稔は自分の未来が明るいものへと変わったことを確信した。彼の事務所を出たあと、自戒と称し、自身を苦しめ続けていた枷――指輪を捨てた。左薬指に残った指輪の痕を何度も擦り、忌々しい思い出を拭った。  たったそれだけ……。稔は背負い込んできた荷物が一瞬で消えてしまったかのように、背中が軽くなるのを感じて大きく伸びをした。 「素直になるって意外と難しいよなぁ……」  高成とは、今後の手続きや書類のことを電話やメールでやり取りしていた。日を追うごとに報告される進捗状況に一喜一憂しながらも、稔は確かな安心感を覚えていた。毎日のように島村からの着信を告げていたスマートフォンは、あの鬱陶しさが嘘のように静かになった。それと同時に、優吾からのメッセージも途切れていた。  正直なところ、高成からあんな話を聞いてしまい稔もどんな顔をして話せばいいか分からずにいた。それに、優吾の方も勢いのままに告白してしまった手前、なんとなく顔を合わせづらいのだろう。職員室や廊下ですれ違っても、職員同士の挨拶程度の会話しか交わさずに、その場から逃げるように足早に去っていく。やっと、自身の気持ちに正直になろうと決めた稔にとって、彼の態度は目に余るものがあった。あれだけ熱くアプローチしていた優吾が自ら線を引き、稔を避けている意味が分からなかった。  あそこまで露骨に避けられると、逆に不安要素が増えていく。なかなか答えを出さない稔に焦れ、他の人に心変わりしてしまったとも考えられる。一人になるとロクな事を考えない。そもそも、これがネガティブ思考を引寄せる原因であるということは自分でも分かっていた。  今は中間期のテスト準備に追われ、各教科の教諭たちは残業を強いられている。優吾も然りであり、稔のことにかまけている状況ではないことは分かってはいるが、せめてメッセージアプリに一言送ってくれてもいいのでは……と、苛立ちを隠せずにいた。  稔は、大きなため息を一つ吐いて帰宅の準備をしようと椅子から立ち上がった。壁掛けの時計は午後八時を回っている。いつもなら早々に片付けて、客の相手をすべく街へと出かける時間だが、もうその必要はない。稔は『スブ・ロサ』を辞め、ロフティという名の男娼はこの世界から抹消された。  高成との約束――理由はそれだけでなかった。今度、彼に抱かれる時は『広瀬 稔』として一つになりたいと思った。強がって虚勢を張り、自分をも偽り続けて来た仮面を捨て、長い間抉らせてきた優吾への想いを何一つ余すことなく見てもらいたい。  もっと彼のことを知りたい。もっと近くに行きたい。もっと……甘えたい。  身軽になった自身を見て、優吾はどんな顔をするだろう。また、意地悪く揶揄うかもしれない。でも、稔にとっては、それも心地いいと感じられる。 「――また、明日。明日になれば、何かが変わるかもしれない……」  稔が私物を入れてあるロッカーに向かって歩き出した時、不意に保健室のドアが開いた。こんな時間にここを訪れるのは当直の教諭か優吾ぐらいだ。訝るように足を止めると、そこには教頭の梅津の姿があった。 「教頭先生? どうしたんですか? こんな時間まで……」  梅津は声掛けに応えることなく、後ろ手でドアを閉めると黙ったまま稔に近づいた。生徒や教員、保護者に見せる上品で穏やかな様相はそこにはなく、ギラギラと目を光らせて確実に距離を縮めてくる。その異様さに気づいた稔は一歩、また一歩と後退りし、ロッカーが置かれている壁に背中を押しつけた。 「教頭先生? ちょっと……、何の御用ですかっ」  緊張で稔の声が上擦る。島村と対峙していた時よりも焦りを感じているのは、先程から鳴りやまない身の危険を知らせる警告音のせいだ。 「――広瀬先生」  梅津の唇から酷く掠れた声が紡がれる。ただ名前を言われただけなのに、背筋に冷たいものが流れ落ちた。 「いや……。ロフティと呼んだ方がいいかな?」  稔は自分の耳を疑った。『スブ・ロサ』を辞めた時点で、予約専用アプリも自身のプロフィールも消した。店側も辞めたキャストの個人情報保護のために、客からの問い合わせは一切受け付けていない。それなのになぜ、梅津は稔がロフティであることを知っているのか……。  驚きで目を見開いたまま動けなくなった稔をさらに追い詰めるように、梅津は近づいた。 「――なかなか予約が取れない人気キャストがなぜ、この学校にいるのか……聞きたい」 「し、知りません。なんですか、それ……」 「今まで何度も試みた。奇跡的に予約が取れた時もあったが、ロフティから一方的にキャンセルされた。店に文句を言っても、個人で管理しているスケジュールを変更することは出来ないと冷たくあしらわれた。――予約専用アプリのキャストプロフィールでは顔出しNG。だが、彼と関係を持った者はその素顔を知ることが出来る」  梅津が稔のすぐそばで足を止め、逃げ道を塞ぐように顔のすぐ脇に手をついた。そして、年齢を重ねるごとに渋さを増したその顔をぐっと近づけると、稔の体を舐めるように見つめた。 「客に写真を撮られるという可能性を危惧しなかったのかね? 今はスマートフォンがあれば手軽に撮影できる。客に抱き潰されたあと、意識を失っている間にその可愛い寝顔を保存することはいくらでも出来るんだよ。――こうしてみると、写真より何倍も綺麗だ。お前の虚勢を聞きながら、この顔を苦痛で歪ませてやりたい。そういうプレイが好きなんだろう?」 「いや……っ。何を言ってるか……わ、分からないっ」 「もう嘘はつけないよ。繁華街で見かけたという保護者からのメール、あれは嘘。私がお前を尾けていたんだから……。しかも、ここを出て行く時からね……」 「え……」  稔は言葉を失った。誰にも気づかれていないはずだった。周囲には十分に気を配り、ロフティであることを隠し通していたはずなのに……。  梅津の手が稔の股間を撫でた。ザワリと全身に鳥肌が立ち、吐き気が込み上げてくる。あれだけ見も知らぬ男たちと体を重ねてきたのにもかかわらず、その名を捨てた途端に女王はただのゲイに成り下がった。だが、稔にとってそれは喜ばしいことでもあった。優吾だけのモノになる――十年前からずっと変わらぬ願いだったからだ。 「やめて……く、ださいっ」 「ん? もう硬くなっているじゃないか? こういう状況に興奮するのか?」 「ちがっ! も……やめて……」  何度も執拗に触れられるうちに、稔のそこは形を変え始めていた。物理的な刺激を与えられ、浅ましくも兆してしまった自身のペニスをこれほど恨めしく思ったことはなかった。客を悦ばせるために自然と上がってしまった感度。一度体が覚えてしまった快感は名前のように簡単には消せない。 「――ん。っふ……やめ、ろ……っ。触る……じゃ、ねぇ」  苛立ちを隠せなくなった稔は、穏やかな養護教諭の仮面を自ら剥ぎ取った。目の前にいるのは教頭でも何でもない。ただ性欲を露わにしたロフティの客……。  校内でこの事が発覚すれば、稔はおのずと学校を追われることになる。万が一、この学校に留まる事を許されたとしても梅津に秘密を知られた以上、彼の性奴隷にされるのは目に見えている。  優吾との再会、借金の取り立てからの解放。そして、やっと優吾と想いを通わせることが出来ると思った矢先、自身で蒔いた種は見えないところで成長し増殖していた。後ろめたいことをしていれば、いつかそれが明るみになる時がある。それは覚悟の上ではあったが、まさかこんな身近なところから綻ぶとは思ってもみなかった。 「ほう……傲岸な女王らしくなってきたじゃないか。その目つき……ゾクゾクする」 「黙れ……。こんなことをして、アンタだってタダじゃ済まないだろ」 「そんなことはない。私とお前が口を噤んでいれば済むことだ」 「ふざ、けるな……。俺は、アンタみたいなゲスとは寝ない。ロフティ――高尚な女王は、客を……選ぶ」  梅津はフンッと鼻で笑ってから稔の細い顎を力任せに掴み上げると、高圧的に言った。 「どの口が言う? 所詮は男娼だろう? お前が客を選ぶ権利はない。黙って、その身体を差し出せばいいんだよ。そうすれば気持ちよくさせてやる……。金も貰って、気持ちよくなって……ビッチには願ったり叶ったりな仕事だな」 「――っるせぇ。ビッチでも……プライドってもんは、あるんだよっ」  稔は眼鏡越しに梅津を思い切り睨みつけると、体を捩って彼の手を振り払おうともがいた。しかし、長身で見た目からは想像出来ない力を持つ梅津からは逃れることが出来なかった。下卑た笑い、蔑むような眼差し……今まで自分に向けられて当たり前だと思ってきたものが急に嫌悪感を催し、同時に恐怖を覚えた。体中が小刻みに震え、梅津の声が不快に思えて仕方がない。 「プライドだと? 笑わせるな……」  喉の奥で笑った梅津は、稔の体を力任せにその場に沈めると、自身のベルトを緩めてスラックスの前を寛げた。床にへたり込むように座った稔の目の前に突きつけられたのは、強烈な雄の匂いを放つ梅津のペニスだった。それはすでに昂ぶり、硬度を持っている。反り返った先からはヌラヌラと蜜を溢れさせていた。年齢の割には濃い下生えを自身の手で撫でた梅津は、赤黒く変色した茎に手を添えると、稔を見下ろしていった。 「咥えろ。お前の大好物だろう?」 「い……いやだ」  見ただけで胃からせり上がってくるものを必死に堪えながら、稔は顔をそむけた。だが、梅津は容赦なく彼の頬を弾力のあるペニスで数回叩くと、唇の端を片方だけ上げて笑った。そして、梅津の節のある長い指が稔の鼻を思い切り摘まみあげた。 「い、痛い……っ」 「ほら、口を開けろ。客にサービス出来ない男娼など肉便器に堕ちるしかないんだよ。お前は今日から、俺の肉便器だ」 「やだ……。誰が、お前なんかの――っぐぁ」  息苦しさに耐えきれず口を開いたタイミングで、蜜に濡れそぼった先端を捻じ込まれる。そのまま鼻先に下生えが突くほど突き込まれ、稔は激しくむせ返った。しかし、梅津はその肉棒を抜くことなく腰を前後に揺らして、稔の喉奥を何度も突いた。 「おぇ……っぐ……ご……っぅご」  堪えていたものが一気に逆流し、唇の端から白い液体となって零れ落ちた。鼻の奥にツンとした痛みが走り、涙が溢れて止まらない。少し大きく膨らんだ形状の先端が喉を圧迫し、うまく息が出来ない。その上、吐瀉物に塗れたペニスが口内を擦るたびに、梅津の先走りが溢れ何とも言えない味が広がる。  着ていたシャツと白衣は、唇を伝う胃液と唾液で汚れ、異臭を放っている。それなのに、自身の下肢は熱く、力を持っているのが分かる。なんて浅ましい体なんだろう。やはり淫乱であったのは生まれつきで、男たちに与えられた快楽によって、もっと節操のない身体へと変わってしまったのだろうか。稔は、ゴボッゴボッと卑猥な水音を立てて抽挿を繰り返す梅津のペニスを咥えたまま、自身を呪った。 「さすがだな……。だが、もっと舌を使って丁寧に舐めろ」 「うぅ――ん! う……っぐ……げほっ」  梅津の手が稔の頭を押えつけ、より挿入を深くさせる。何度も突かれている喉がヒリヒリと痛み、口内を埋め尽くす太さに舌の根元の感覚が鈍っていく。開かされたままの顎も怠く、だらしなく開いたままの唇からは呻き声しか発せない。 「ははっ。まるで獣だな……。良い顔だ……綺麗だよ」  吐息まじりにそう言った梅津を見上げた稔は、彼の表情から絶頂が近い事を悟った。荒い息遣い、眉間の皺、そして腰の動きが徐々に早くなっていく。このまま彼の精液を受け入れることだけは避けたい。しかし、梅津の手はガッシリと稔の頭を押えつけたまま離れない。焦って目を見開く稔に、梅津が掠れた声で言った。 「イクよ……。全部、飲むんだ」 「う――っ! うぅ――んっ」  首を横に何度も振る。それでも喉奥まで入っている彼のモノは抜けない。稔は、彼の腿を掴むと爪を立てた。稔が嫌がっているのは梅津にも分かってるはずだ。でも、それを愉しんでいるような彼の表情に、さすがの稔も戦慄を覚えた。 (こいつ……Sか)  自身もS属性である自覚はある。だが、梅津の場合は仄暗いものを含んでいる。セックスをプレイとして愉しむのではなく、相手を服従させ自身の支配下に置くことを目的とする傾向がある。 「イクよ……。ロフティ……私の精液を飲め。零したら許さない……あぁ、イク……イク……ッ」 「ん――っ! っふ……んん――っ! う――ぅっ」  唇を擦る茎が熱くなっていく。口内でさらに質量を増した梅津のペニスがドクンと大きく脈打った瞬間、稔の喉奥に粘度の高い精液が叩きつけられた。激しくむせ返るが、梅津は引き抜こうとしない。喉に張り付いた異物と共に無理やりペニスを引き抜くと、稔は床に両手をついて激しく咳き込んだ。  こめかみが痛い。舌に纏わりつく精液の苦さが消えない。それに加え、異常なまでの量を口内に吐き出され、そのほとんどは吐き出したものの、いくらか飲み込んでしまったことが悍ましかった。 「おぇ――っ。ゴホッ、ゴホッ! っぐ――ガハッ」  肩で息を繰り返しながら乱暴に口元を拭った稔は、壁に凭れると上目使いで梅津を見上げた。 「これで満足か……」 「あぁ、その悔しそうな顔。興奮する……」  恍惚の表情で笑みを浮かべている梅津はたった今、十分すぎる量を吐き出したにも関わらずまだ硬度を保っている自身のペニスを扱き始めた。 「黙れ……。さっさと消えろっ」 「今度は下のお口を犯してあげようか? お前もそれを望んでいるんだろ?」 「冗談じゃないっ! お前となんか……しないっ」 「他の男とは出来て、なぜ私と出来ない?」  ニヤニヤと笑いながら扱くペニスの先端から白濁混じりの蜜が糸を引く。それを見るともなしに見ていた稔は、恐怖に足が竦んだ。幾度となく客のモノを見てきた稔だったが、今はあの時とは違う。優吾の想いを知り、自身も想いを告げようとしている。まだ成就していない恋がこのまま終わってしまうのではないかという焦り。そして、何より稔が危惧したのは、優吾に軽蔑されることだった。指先が微かに震え始めると、その連鎖は全身へと拡がっていく。 (怖い……)  本能が危険を知らせる。このままでは力ずくで押し倒され、後ろを犯されかねない。 「黙っていれば大人しそうな顔なのに、その生意気な口の利き方は気に入らないな。ほら、まだお掃除もちゃんと出来ていない。もう一度、咥えろ」 「やだ……っ」  グッと噛みしめていたはずの奥歯がカチカチと小さな音を立てる。眼鏡越しに突きつけられた彼の先端では、小さな口が透明な蜜を溢れさせながらパクパクと動いている。それがまるで得体の知れない生き物のように見え、稔は下肢に温かいものがジワジワと溢れるのを感じた。グレーのスラックスにシミが広がっていく。尻をついた床に出来た液だまりが梅津の靴先まで届いた時、彼はキュッと眉根を寄せて激しくペニスを扱き上げた。 「女王がお漏らしをするなんて……。素質があるにもほどがある。あぁ……いいよ。その絶望した顔が堪らない……。あぁ、イキそうだ……。また、出るよ……。っく――あぁっ」  目の前で梅津のペニスが弾けた。先程にも劣らぬ量の白濁が飛び散り、稔の顔面を汚していく。温かく独特の青臭さを放つものが髪や眼鏡、そしてきつく結ばれたままの唇を濡らす。ゆっくりと流れ落ちていく感触に、稔はもう優吾のもとには戻れないと思った。一度ならず二度までも穢されたこの体を、彼が快く受け入れてくれるとは限らない。それに、いくら彼が寛大とはいえ、梅津にこんなことをされたと告白する勇気はなかった。  悔しくて涙が溢れてくる。梅津の前で粗相までしてしまった自分が情けなくて、腹立たしい。それなのに、体が動かない。もうすべてを諦め、受け入れてしまったというのだろうか。 「粗相で濡れた尻をこちらに向けてごらん。お仕置きをしてあげるから」  梅津の目に、先程よりも濃い欲情の色が滲んでいる。稔は、白濁で汚れ、視界を遮られた眼鏡越しに彼をゆっくりと見上げた。  その時、大きな音と共に保健室のドアが開かれ、息を切らしながら飛び込んできた人物がいた。焦った梅津は、急いで自身のモノを仕舞うと前を整えた。しかし、慌てているせいかベルトが金具に通らない。そんな梅津に向かい、その人物は靴音を鳴らしながら近づくと、胸ぐらを掴みあげて思い切り殴りつけた。  ガタンッ。  勢いでロッカーに倒れ込んだ梅津はその人物を仰ぎ見ると、普段は出さないような大声で怒鳴った。 「貴様! 教頭である私にこんな真似をしていいと思っているのかっ」  しかし、その人物はその声に臆することなく表情一つ変えずに、梅津のもとに近づいた。そして、その場にしゃがみ込み、梅津の胸ぐらを再び掴んで迫力のある声で言い放った。 「その言葉、すべてあなたにお返ししますよ。教頭であるあなたがしていたこと、決して許されることではありませんよね」  怒りに震え、微かに掠れた低い声。俯いていた稔は、その声に弾かれるように顔を上げた。 「ゆぅ……ご?」  絶望した自身の脳内が見せている幻か。それとも、逢いたいという願いが神にやっと届いたか……。  照明を背にしていてもハッキリと分かるシルエット。その姿は紛れもなく優吾だった。彼は、稔の方をチラリと見ただけで梅津に向き直った。その鋭い瞳に浮かんでいたのは、今まで見たことのない憎悪にも似た強い怒りだった。 「私が何をしたというんだ? 証拠は? 何もないだろう?」  そう叫びながら稔に「黙っていろ」というように、チラチラと視線を向ける。それに気づいた優吾が、呆れたように大仰なため息を吐きながら言った。 「既婚者でありながら男漁りのためにゲイ風俗通い……。しまいには、人気キャストをストーカーし、予約をキャンセルされた腹いせにレイプですか……。品行方正、真面目で紳士なあなたの正体を、保護者や他の職員が知ったらどうなりますかね」 「何を言っている……っ。こいつは……広瀬は、風俗で体を売って……っ」 「その証拠は? どこの店で? あなたがなぜ、それを知っているんです? 買ったんですか? 彼と寝たんですか?」  梅津を追い詰めるように矢継ぎ早に問う優吾に、言葉を失った彼は忌々しげに顔をそむけた。優吾は、突き放すように梅津から手を離すと、すぐそばにいた稔に体を向けた。  こんな姿は見られたくなかった。羞恥の度を越えたアラレもない姿に、彼はきっと呆れ愛想を尽かすだろうと覚悟した。しかし、優吾は梅津の精液で汚れた頬を指先で拭うと、いつもと変わらない柔らかな眼差しを稔に向けた。 「大丈夫か? 怪我は?」  優吾の眼差しに触れ、安堵と共にそれまでの恐怖が再び蘇り、震えが止まらなくなった。それでも小さく首を横に振った稔にホッと安堵の息をついた彼は、着ていたジャケットを素早く脱ぐと、それを稔の肩にそっとかけた。 「――帰ろう」 「でも……」  不安げな目を梅津に向けた稔に、優吾は自信あり気な笑みを浮かべた。 「大丈夫……」  彼の力強い言葉に、稔の肩から力が抜けた。そして、稔の左手を掴んだ優吾が一瞬だけ動きを止めた。そこにあったはずの指輪がなくなっていることに気づいたのだろう。だが、そのことに触れることなく体を支えながら立ち上がらせると、稔の細い腰にそっと手を添えた。 「――貴様ら。これは傷害事件だぞ。訴えてやるからなっ」  開け放たれたドアまで歩いたところで、梅津の恨み節を聞いた優吾は肩越しに振り返ると、薄い唇を綻ばせて言った。 「梅津教頭……。訴えられるのはあなたの方ですよ。風俗通いに使ったお金、一体どこから調達していたんですか? この学校に出入りする教材屋に水増しさせて、懐に入れていたのは分かっているんですよ」 「おいっ! どうして、そんなことをお前が知っているんだっ!」 「素直に罪を認めたらどうですか? 紳士を気取るなら引き際も大事ですよ。あぁ……もう一つ。この部屋には、カメラが数台設置されているのを御存知でしたか? 薬品の管理、生徒の個人的な相談を受け付けている場所がら、何か問題があった時のために常時作動しています。データは理事長室内で保存・管理され、その鍵は理事長本人が持っています」 「な……何が言いたいっ。私を脅す気かっ」 「いいえ。俺は、広瀬先生を助けるためにあなたを殴ったと胸を張って言えます。でもあなたは……彼にしたことを、理事長の目を見て言えますか?」  悔しそうにギリギリと奥歯をならしながら睨みつける梅津の視線をかわすように、優吾はそれ以上何も言わず背を向けた。そして、いろんな体液が入り混り異臭を放っている稔に顔を近づけると、優吾はなんの衒いもなく髪に唇を寄せた。 「――ごめん。怖かったよな?」  その声はどこまでも優しく、暖かいものだった。稔は、溢れてくる涙を見せまいと、自ら薄暗い廊下に出た。頬を乱暴に拭い、流れた涙をなかったことにする。それなのに、涙は次々と溢れ出し、最後には拭いきれなくなっていた。 「別に……。怖く、なんて……なか、た」  俯いたまま涙を流す稔の肩を、優吾の手が優しく抱き寄せる。 「――そっか。稔は強いな」  優吾が何を以てそう言っているのか、稔には分からなかった。決して強くなんかない。弱みばかりで、それを引き合いに出されると何も出来なくなる自分が嫌だった。それに、二十八歳にもなって粗相までしてしまった自身を『強い』という、優吾の真意を知りたかった。 「――よく、なんか……ない」 「ん?」 「強くなんか……ないって、言ってんだよっ」  涙でぐしゃぐしゃになった顔を上げることも出来ないまま、優吾の手を振り払った稔は細い肩を震わせて泣いた。 「強くない……から。お前が、ちゃんと……見ててくれなきゃ……ダメ、なんだよっ」  高成の言葉が脳裏をよぎる。 『――いい加減、素直になったらどうだ? もう、隠すことなんて何もないんだろ?』  自分の想いを封じ込め、戒めていた指輪はもうない。だから、内に秘めていたものが稔の思うままに言葉となって紡がれていく。もう強がる必要はどこにもない。自分の想いを恥ずかしがることもない。今はただ素直に――。 「そばに……いて、ほしい」  稔のか細い声に応えるように、優吾が背中から抱きしめた。生地を通して伝わる彼の熱に、胸の奥がじんわりと満たされていく。 「――いるよ。ずっと、お前のそばにいるって約束する」 「優吾……」 「お前のこと……愛してるから」  前に回された彼の大きな手を握りしめ、稔は声をあげて泣いた。何年振りだろう……こんなに思い切り泣いたのは。確か、最後に泣いたのは忘れもしない卒業式の夜――。優吾に会えなくなる寂しさから一晩中泣いた。  でも今は違う。大切な人がそばにいて、自分を強く抱きしめてくれていることが嬉しくて堪らない。いろいろな感情が入り混じり、自分でもどうして泣いているのか分からなくなってくる。それでも間違いなく言えることは、優吾のことを愛している――ということ。 「稔……帰るぞ。このままじゃ、俺……ここで問題を起こしそうだ」  おどけてみせた優吾を振り仰ぎ、泣きながら笑うという複雑な表情を浮かべた稔は、彼の腕に力いっぱいしがみ付いた。  二人の靴音が夜の廊下に響く。それがピタリと重なって止まった時、稔の唇は優吾に奪われていた。優吾が問題を起こすまで、あとどれくらい耐えられるだろう。深く絡みあった互いの舌が小さな水音を立てる。離れることを拒む唇が銀色の糸を引いた。 「――もう少しだけ、耐えられるか?」 「善処……する」  至極真面目な顔でそう言った優吾に思わず吹き出した稔は、つま先立ちでもう一度触れるだけのキスをした。

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