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帽子から鳩(前編)
チョコレートで染まった藤野谷の指が、ゆっくり俺の唇をなぞる。
俺の顎から喉へ、さらに指は下っていく。肌に甘い異物が痕をひき、そのあいだも溶けたチョコレートが藤野谷の指から手のひらへ、手の甲へ垂れる。藤野谷はその手を空気にさらされた俺の鎖骨から胸へなすりつける。むきだしの乳首をつままれて俺は息をのむ。
「天、チョコ……」
「大丈夫」
藤野谷が低くささやく。何が大丈夫だと俺は思う。藤野谷の舌が俺の喉を這い、チョコレートを舐めとっていく。藤野谷の手がへそのあたりにさがる。
「サエ。ベルトをはずして」
俺は藤野谷の命令に逆らえない。もたつく手で自分のベルトのバックルを外す。藤野谷は中途半端に下がった俺のスラックスを挑発的な眸でみつめ、チョコレートまみれの指で俺の下腹に線を引いた。
「全部脱がないと汚れるぞ」
この男は。
「天。おまえも全部脱げ」
思わず俺はそうつぶやいている。藤野谷の眸が獣を思わせる様子で光ったような気がする。童話に登場する、ごちそうを前にした獣だ。
「それもサエがやる」
またもアルファの声が命令する。
*
「佐枝さん、手作りチョコレートってどう思います?」
三波が電話で予想外の質問をよこしたのは一月下旬のことだった。
「え? チョコレート?」
俺は一瞬何を聞かれたのかわからず、オウム返しにくりかえしてしまった。くりかえすだけでなく、ちょっと変なこともいってしまった。
「手作りって――豆から?」
「さすがにそこまでは予想してませんでしたけど、佐枝さんはどうするんですか? チョコは買う派ですか手作り派ですか? 買うなら高級路線、それともチョコはあっさりでプレゼントに凝る派? そもそも手作りの経験あります? いやまさかと思いますけどボスにチョコもプレゼントもなしってことはないですよね?」
三波は立て板に水といった様子でまくしたてた。どうしたんだ、いったい。
「三波、落ちつけよ。何の話?」
「何の話ってそれは――バレンタインです」
「バレンタイン? まだ一月だろ?」
「|も《・》|う《・》一月で、それも来週で終わりです。佐枝さん、『一月は行く』っていうじゃないですか。そして二月は逃げる! うっかりしているとバレンタインが来てしまいます」
「あ……峡か」
俺はついニヤニヤしてしまった。三波は藤野谷が経営する会社TEN-ZEROの社員で、俺と藤野谷をめぐる騒動のあいだに何かと世話に――というのがもはや適切だろう――なったあげく、今や俺の友人のひとりだ。モデルのような人目をひく美貌をもつオメガなのだが、数か月前から叔父の峡とつきあっている。
峡は三波よりかなり年上でしかもベータだ。いったいどんな風にこのふたりができあがったのか俺は知らないのだが、聞いた話によると峡は先月三波の実家へ挨拶へいったらしい。
「佐枝さん、今ニヤニヤしていたでしょう?」
モバイルの向こうで三波がいった。
「あ、わかった?」
「僕をネタに百面相しなくていいですからね」
「それなら福笑いにしとく。三波、正月に佐枝の実家に行ったんだって? あ、もう峡のマンションに住んでるんだったか」
「それはまだです。来月末です。いや、そんなことはいいんです。僕はいまバレンタインのリサーチをですね……」
「おいおい」俺は笑いながら口をはさむ。
「何がリサーチだよ。三波の方が俺なんかよりこのイベントと縁があるだろう?」
「何をいいますか佐枝さん。僕は武闘派なんですよ。これまで貰ったチョコは数知れず、それを切っては捨て切っては捨て……」
「なんだよそれ」
「だから、峡さんにあげたチョコがそんなことになっちゃ困るでしょ?」
快活でふざけた調子の声にいくらか気弱な響きがまじった。
「僕はこれまで本命にチョコをあげたことないです。ていうか誰にもあげたことないです」
「あ……そう」
「佐枝さんは?」
「え? 俺?」
「ボスにチョコは?」
「えっ……ないけど」
「ない? ない? ないって?」
「三波、連呼するなよ」
「佐枝さんとボスって中学生の時に知り合ったんじゃないんですか? なのに一度もない? 高校も大学も一緒なんでしょ? いや冗談でとか、友チョコとか、そのくらいはあるでしょ? だいたいボスの方は何かくれたでしょ?」
「いやその……俺と藤野谷はずっとそんなあれじゃなくて……」
「アレもコレもないですよ。なんですかボスはあんなに佐枝さんに執着してたくせにこれまでチョコのひとつもあげてないんですか? それほとんど犯罪ですよ」
唐突に口のなかに板チョコの味がよみがえった。藤野谷が俺にチョコレートを押しつけてきたことはないわけじゃない。十六歳の三月、暗い講堂。その前の二月十四日は、藤野谷は放課後何人もの生徒に押しかけられて――あとで本人がそういったのだ――俺はもちろん何もなく、ひとりで家に帰った。
「でも今年はちがいますよね?」
きっぱりした三波の声が俺を追憶から引き戻す。
「それでどう――」
「いまどきのチョコレートって高いんだろう?」
俺はあわててさえぎった。ほっておくと三波の話はいつまでも続きそうだ。
「藤野谷に少々高いものやっても驚きもしないだろうし、自分で適当にやる」
「僕はそれを聞きたかったんですよ……」
モバイルの彼方で三波はふっふっふとアニメの悪役のような音声を発した。
「その『適当にやる』の、僕にも教えてください」
料理が得意でかつ趣味なのは俺ではなく峡の方である。いっそ本人に聞けばいいじゃないかと俺は思ったが、三波はだめだといいはった。料理が苦手なのは峡にはとっくに知られているが、ここは譲れないとわけがわからないことをいう。なぜ手作りにこだわるのかとも思ったが、なんだか必死な様子にそれ以上つっこめなかった。
とはいえ俺にしたところで、菓子作りなどむかし佐枝の母を手伝って多少教えてもらった程度の経験しかない。母は料理はいまいちだが菓子は得意なのだ。というわけで俺は母から簡単なレシピをいくつか聞きだした。ポイントは清潔な道具を用意すること、材料をきちんと計ること、そしてチョコレートは水分厳禁――等々と説明を受けたあとに「いまどきは可愛い型もあるからそれでごまかすのも手よ」といった入れ知恵も貰った。そして次の週末、藤野谷が仕事で遠方へ出かけている間に三波を呼んで、俺の家で練習とあいなったわけである。
その日はめずらしく都内にも雪が降り、庭はうっすらと砂糖をまぶしたように白くなっていた。三波は俺の事前の説明――といっても母から聞いたことをメールで伝えただけだが――の通りに自分の道具と材料を持参でやってきた。彼が取り出したエプロンに俺は吹きそうになるのをこらえた。何年もまえに峡のマンションで見た柄だった。
「鷹尾がひどいんですよ」
三波はシンクで手を洗いながらぶつぶついう。エプロンをつけようが何をしようが様になっているのがさすがだな、と俺は妙な感心をしていた。このまま何かの広告に使えるんじゃないか。
「ひどいって何が」
「佐枝さんの前に相談したんですよ。そしたら『ついに年貢の納め時ね』というばっかりで、具体的な提案は何も。絶対いろいろ知ってるのに」
「鷹尾のマフィン美味かったもんな」
「ですよね? とにかく僕にとっては、料理やお菓子をうまく作れる人って手品師か魔法使いみたいなもんですけど」
鷹尾もTEN-ZEROの社員で三波の友人のオメガだ。お嬢様然としておっとりした雰囲気のわりにはっきりものをいう素敵な女性である。三波で遊んでいるのもみえみえだが、峡とつきあいはじめてから三波の美貌はますます磨きがかかっている気がするし、峡の話をするときの挙動不審ぶりも面白すぎるから、気持ちは大いに理解できた。
その日は母に教えてもらったレシピで俺たちはいくつか菓子を作った。トリュフチョコレートだの、チョコレートチーズケーキだの、市販の材料をアレンジして作るだけのものだ。材料はたくさんあった。三波が製菓用からなじみの板チョコまでどっさり買いこんできたからである。
型に流したチョコが固まるまでの時間はゾンビ映画をみてつぶした。三波はコグマのキャラクターが踊る、妙に可愛らしいシリコン型まで持ってきたのだ。そのくせ今はエプロンと画面をみくらべて「チョコの染みって血糊に似てますよね」などとつぶやいている。たしかにチョコレートの茶色は乾いた血に似ていなくもない。
「三波は貰うならどんなチョコがいい?」と俺は聞く。
「洋酒が効いたのが好きですね。ブランデーやウイスキーのボンボン、こっそり親のを食べて怒られてましたから。佐枝さんは?」
「俺? べつに――」
好きなチョコレート。欲しいチョコレート。人にたずねておきながら自分では考えもしていなかった。味は記憶に結びついている。記憶に残るチョコの味は……あれはチョコの味というより――
「佐枝さん? なに赤くなってるんです?」
「なんでもない。コーヒー飲むか?」
三波の怪訝な声を尻目に俺はあわてて立ちあがる。
練習で作った菓子はどれもまずまずの出来だった。味見の残りを鷹尾に分ける分と自分用、俺用と分けた三波は「ありがとうございます。佐枝さんも本番がんばってください」といい、帰って行った。
バレンタイン。
さてどうしたものだろう。以前の俺にとってバレンタインは比較的稼げるイベントのひとつだった。バレンタインをきっかけに告白したりプロポーズするアルファとオメガのカップルは特に多く、広告デザイン業界から結婚式場まで周囲はいろいろと仕掛けやすいのである。
自分に縁がなくても仕事でなら関わっていたし、去年は去年でハウス・デュマーに行って――と俺は思い起こし、とたんに胸の内が騒ぐのをおぼえた。去年の二月十四日。たった一年前のことなのに、ずっと昔のような気がする。
藤野谷はバレンタインのバの字もいわない。TEN-ZEROもバレンタイン商戦に無縁なわけではないが、完全オーダーメイドが売りのブランドだから、直前にどうこうするものでもないのだろう。そして俺は日が近づくにつれ迷いはじめた。一月のうちから騒いでいた三波は正しかったというべきだろう。
翌週にバレンタインをひかえた金曜日、俺はギャラリー・ルクスへ行った。「アート・スイーツ」という展覧会のオープニングに招待されていたのだ。藤野谷も誘ったが、仕事で間に合わないという。
展覧会は有名パティシエとアーティストが多数参加した大掛かりなものだった。俺は一本の飴で作られた鳩――シルクハットから飛び立っているようにみえる――や、実験的なフランス料理のフルコースを「食べられるインスタレーション」に仕立てた作品や、古典絵画を菓子でそっくりそのまま再現した作品などを順番に鑑賞した。一周まわったところで久しぶりの顔に出会った。
「零。元気そうだ」
「加賀美さん。秋以来ですね」
大学教授の加賀美とは、昨年の秋藤野谷と一緒に行ったイベントでたまたま出会って以来だった。年末に俺が作品を出したグループ展――おなじくギャラリー・ルクスで行われた――に来てくれたのは知っていたが、芳名帳で名前を見たきりだ。
「今日はひとり?」
彫りの深い顔立ちも、低いがよく響く声も相変わらずだった。俺はうなずき「藤野谷は仕事があって」と答えた。
名族の加賀美家はコレクターの一族として知られており、この業界とのつながりが強い。加賀美本人もこのギャラリーに出資している。俺はそのまま彼の隣にいた出典作家たちに紹介され、直接作品の説明を聞いた。それにともなって、けっこう広い展覧会場をまた一周。
しまいにいささかくたびれた。|CAFE NUIT《カフェ ニュイ》に入るとカウンターからマスターが「どうしたの」という。
「展覧会みてたけど、凄すぎて圧倒された。なんか疲れた」
「それ聞いて安心したよ」
マスターはニコニコ顔でそんなことをいう。
「何で?」
「ほら、このカフェじゃとてもあんなことできないからね。コラボメニュー出せって黒崎がわがままいうから、喧嘩になりそうだった」
「そうなんだ」
「うちはバレンタインも特別メニューはないからね。いつものチョコムースしかない」
「あのチョコムース? すごく美味しいやつ」
マスターはいたずらっぽい笑みを浮かべた。
「そういってくれる? 実は簡単なんだよ。ゼロでも作れる」
「まさか」
「ほんとだって。試してみる?」
そういってマスターが教えてくれたレシピは、母から聞いたチョコスイーツのレシピとはまったく違うものだった。チョコレートには水分が厳禁だと母にはさんざん聞かされたのだが、マスターはチョコを同量の熱湯にほうりこみ、溶かして氷水で冷やしながら泡立てるというのだ。彼のチョコムースはふわっとした軽いクリームのような舌触りが絶品なのだが……
「こうやって作ってるの?」
「そ。やってみなよ」
マスターはあっさりといい、俺は帰ったら試してみようと決意した。うまくいったら三波にも教えてやることにしよう。
カフェを出たところでまた加賀美に会った。軽く挨拶して帰ろうとすると「零」と呼びとめられた。展覧会のロゴが入った紙袋を無造作に渡してくるので、俺は反射的に受け取ってから「え?」と問い返してしまった。
「今日のお土産だ。持って帰ってくれないか」
「あ、はい……ありがとうございます」
あわてて礼をいい、俺はギャラリー・ルクスを出た。
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