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帽子から鳩(後編)
加賀美がくれた袋はどうやら、一部の者にしか渡されない展覧会のノベルティだったらしい。
帰宅して紙袋をあけると、中身は麗しい紙箱に収められた芸術作品とみまがうばかりのチョコレート菓子だった。今回の出品作家にちなんで作らせたもののようだ。
俺はしばらくためつすがめつして、また閉じた。夕食を作りながら考えたのは、こっちは本職にかなうものが用意できるはずもないのだから、マスターに教わったチョコムースでも作ってみるか、ということだった。材料は三波が置いていった板チョコだ。
「水分は厳禁!」という母の教えのおかげで、マスターのレシピの通りに鍋で湯を沸かし、火をとめてチョコレートを投入したときは騙されているのではないかと一瞬思った。が、意外やチョコはきれいに溶けた。ボウルの底を氷水につけながら泡立てるといい感じにもったりして、俺はひとりでにやついた。スーパーの板チョコがこれに化けるとは予想外だ。
できあがった軽いクリームを小さな器に取り分けていると藤野谷が仕事から帰ってきた。
「サエ、なんか匂う」
迎えにでると、藤野谷は玄関で靴を脱ぎながら俺を見上げてそんなことをいう。
「匂うって――」
「甘い」
「チョコレートだろう。今日はギャラリー・ルクスへ行ったんだ。ほら、スイーツコラボの展覧会のオープニングだよ。カフェでマスターにチョコレートムースのレシピを教わったから、作ってみた」
「ふうん」
藤野谷はじっと俺をみつめる。彼の顔も視線もいまや慣れたもののはずなのに、こうしてみられると俺は時々ドキリとする。狙われたというか、照準を合わせられたというか、道端で虎や豹に出くわしたというか、一瞬そんなふうにドキッとするのだ。
背広を脱いでキッチンに戻ってきた藤野谷は、加賀美がくれた箱に目ざとく気がついた。
「これは?」
「ああ、加賀美さんがくれた。お土産だって」
藤野谷は黙って箱をあけている。俺はへらでムースの表面をならした。冷蔵庫で一時間冷やせばいいと聞いたから、食後のデザートにちょうどいい。
「すごいだろう。展覧会も大掛かりですごかったが、ノベルティも手がこんでる。俺はたまたま加賀美さんに会ったおかげで貰って――」
妙な雰囲気を感じて俺は言葉をとめた。藤野谷の香りにおかしな緊張がまじったのだ。オメガは匂いに敏感で、アルファやベータが気づかない匂いを嗅ぎとれる。
「天、どうしたんだよ」
藤野谷は無表情に俺をちらりとみて、また箱に視線を戻した。
「気づいてないならいい」
「何に?」俺はぽかんとしていった。「何が気に入らないんだ?」
「べつに」
「べつにって、そんなことないだろう。急に……」
「サエはにぶいから」
藤野谷はぶつぶつそんなことをいった。まえも誰かに似たようなことをいわれた覚えがあるが、俺は今の藤野谷のいいかたにむっとした。
「なんだよ。はっきりいえって」
俺はキッチンカウンターにへらを置き、藤野谷の前に回る。藤野谷は嫌そうな表情で顔をそらした。
「それならいうが、他の男からほいほいプレゼントをもらうな」
俺は思わず笑った。
「何をいってるんだよ。加賀美さんはそんなつもりじゃ……」
突然ひじをつかまれた。藤野谷の匂いがきつく、近くなる。俺の視界にちらちらと光がまたたく。
「去年の二月十四日。サエはあいつといたじゃないか」
虚をつかれた気がした。俺は口を閉じ、また開く。
「そんなの……去年の話だろう」
「ああ。そうだな」
あいかわらず不機嫌な口調で藤野谷はいった。その不機嫌が伝染したかのように、俺の気分もすばやく下降する。
「天。いいがかりみたいなこというなよ」
「いいがかりじゃない。事実だ」
「バレンタインなんてただのイベントじゃないか。遊びだよ。形式的なお祭りというか――」
「遊び。形式。そうだな」
嫌味にも感じる口調に思わず俺は口走った。
「すんだことをねちねちいうか。お前だってこれまでさんざん――」
藤野谷は俺のひじをつかんだままだ。彼の香りが俺をつつみこむ。ふと頭に像が浮かぶ。映画のワンシーンのように鮮明だ。ダンスフロアにいた藤野谷。あのときは三波もいたのだった。俺は吹き抜けの上からみていた。仮面をつけていた。だから俺だとわかるはずがないのに、藤野谷が俺の方をみて、まるで眼が合ったような気がして……
「さんざん、なんだ」
俺の追憶をやぶるように低い声で藤野谷がたずねた。
「――さんざん大勢に告白されたり、チョコレートもらったり、デートしたりしたんだろ?」
声が妙な感じに裏返った。藤野谷の片手が俺の背中に回った。そのまま彼の胸へひきよせられそうになるが、俺はまだいいつのる。
「高校の時からそうだったじゃないか。大学でも。俺は嫉妬なんかしなかったぞ」
藤野谷の手が俺の腰を抱く。
「サエはそうなのか」
すぐ近くでささやかれて、吐息に背中がぞくぞくした。
「当たり前だろう? 俺は……ベータのはずだったし、おまえと……ただの友達のはずだったし……だから」
「ふうん」
どういうわけか藤野谷の眼つきは刺すようだった。どうしてこんなふうに俺が見られなきゃいけないんだ。なんだか理不尽だ。それにほんとうは――ほんとうはまったく嫉妬しなかったわけじゃない。今なら認められなくもない。藤野谷が他の誰かと……
「サエ、あれ何?」
藤野谷がたずねた。俺は首をねじった。
「チョコムース。これから冷やす――天!」
思わず大きな声を出したのは藤野谷が容器のひとつに指を突っこんだからだ。
「馬鹿! やめろって。まだ出来てない」
藤野谷は片手を俺の腰にまわしたまま、もう一方の手の指についたクリームをしげしげと眺め、ぺろりと舐めた。
「美味いな」
「馬鹿天、ただの板チョコだ」俺はむすっとしていった。
「指をつっこむなって! 食べ物を無駄にするなと教わらなかったのか?」
「無駄にしないさ。舐める」
平然とした口調に腹が立った。たぶん着ていたのがお気に入りの白いシャツだったせいだ。顔料のしみだらけの作業着なら違っていたかもしれない。あとで思うとこれが裏目に出た。
「あのなあ、固まってないから垂れるじゃないか。チョコレートの染みは落ちにくいの! おまえの服につくし、俺のシャツにも――」
いきなり藤野谷の腕が離れた。正面から俺をみつめ、彼の香りがまっすぐに向かってきて、俺のうなじを刺激する。藤野谷の唇が動き、低くアルファの声が発せられる。
「じゃあ、脱がせて」
命令する声だった。アルファが持っている、逆らえない声。
「天」
俺は魅せられたように彼をみつめていた。
「サエも脱ぐんだ」
藤野谷の唇のはしがあがる。指先のチョコレートが体温で溶けていく。
「こぼれるぞ」
*
罠にかかったような気がする。
俺は藤野谷の服を脱がせ、自分の服も脱いでいく。下手くそなストリップショーをやっているようだ。なのに彼の視線で興奮する自分が恥ずかしい。キッチンもリビングもいつもの橙色の照明のなかにある。こんな明るいところで俺たちは何をしているんだろう。カーテンだって開きっぱなしだ。庭の木々の影が俺をみている。
藤野谷はチョコレートまみれの指を俺の胸や腹、背中へと這わせ、そのあとを舌でぺろぺろと舐め、唇を重ねてくる。
チョコレート味のキス。藤野谷の味のキス。
「チョコ味のサエ――サエ味のチョコ?」
低くつぶやく声が聞こえる。何をいってるんだと俺の頭の一部は思うが、彼の舌と指のおかげで理性はとっくに退場しかけていた。俺はキッチンカウンターに腰をおしつけられている。裸の藤野谷は俺の前にひざまずき、へそのまわりにチョコレートで線を描く。肌の上の茶色い模様に俺は三波と見たゾンビ映画を思い出すが、藤野谷の舌が太ももをなぞっていくと、もう何も考えられない。
「天……」
「ああ、すごく濡れてる……」
「だって……」
「心配するな。俺がきれいにする」
ぱくっと中心を咥えられた。最初は小さくついばむように、それから深く。
「ああ……ん、あん、あ……」
暖かいエアコンの風が藤野谷の舌の痕跡をかすめた。俺の体じゅうチョコレートと藤野谷の匂いがする。膝が震え、俺はかがんで俺自身をしゃぶる藤野谷の髪を手でまさぐる。前を煽られ、追い上げられていくにしたがって、腰の奥の方で別の欲望がうずく。とろりと体の内側が溶けはじめるのがわかる。熱せられたチョコレートのように甘い匂いがたちのぼる。
「天、あ―――」
俺は立っているだけで精いっぱいだ。たまらず吐き出した欲望が藤野谷の口の中で受け止められ、飲み込まれる。陶然とした意識のまま、いつのまにか背中にフローリングのなめらかな冷たさを感じていた。床の上で藤野谷に横抱きにされているのだ。
顔の前にある藤野谷の肌にやみくもに唇をおしつけた。おたがいの体にうっすらとチョコレートの筋が残っている。藤野谷の眸が細められる。電球の明るい光のなかで俺をじっと見つめている。まぶたの下に欲望の影がおちて、ぞっとするほど色っぽい。思わず犬のように匂いを嗅ぐと、チョコレートの匂いと俺の匂い、藤野谷の匂いがまざりあう。堅いものが俺の腹にあたる。
ひとつになるのを想像したとたん、腰の奥がきゅっと締まり、濡れた感触が股のあいだをつたった。ごくりとつばを飲みこんだとき、藤野谷の手が動き、うつぶせにされる。
「サエ……」
「あ、ああああああっ」
藤野谷に呼ばれるのはそれ自体が愛撫のようで、彼の声と同時に俺は猛々しい雄を飲みこんでいる。俺の中で襞がうごめくと藤野谷の吐息が荒くなり、香りがひときわ強く立った。何度も大きな波に揺さぶられ、突然スパークするような快感に襲われる。藤野谷が俺のうなじを噛んだのだ。
「ああんっ、天、天、天―――」
つながったところから溶けていくようなのに、背筋は甘い感覚でつながって、またバラバラになっていった。もうろうとした頭のすみで、自分が溶かされて作り直される、そんな馬鹿げた幻想がうかぶ。俺は藤野谷に溶かされて、ぴったりあう型に入れられて、また溶かされて、くりかえすたびに甘さをましていく。
そんなこんながあったのち、バレンタイン当日がきた。
その晩俺たちはふたりでキッチンに立ち、チョコレートムースを作っていた。理由はただひとつ。藤野谷にリベンジさせる必要があると俺が思ったからだ。とにかく今度はふつうに食べられる、ふつうの方法で味わうチョコレートムースを作るのだ。
というわけで俺は藤野谷に泡立て器をもたせたが、彼は神妙な顔でチョコレートを泡立てている。あまりにも静かで真剣なので心配になるくらいだった。
「天?」
声をかけると藤野谷はびくっとした。珍しい反応で、俺はますます心配になった。いったいどうしたというんだろう。藤野谷はこわばった表情で俺をみつめる。
おもむろに「サエ。俺は決めた」といった。
「決めたって、何を」
藤野谷はまたボウルをかき回しはじめる。かき回しながらきっぱりといった。
「俺はサエと結婚する」
俺の頭の中で何かが点滅した。
「えっ……?」
「結婚なんて形式だとか、藤野谷の家や会社の都合があるからまだ先でもいいとか、そんなのはもうやめだ。俺はおまえと結婚する。籍も入れるし、大々的に結婚式もあげる。サエは俺のものだって」
「――天、あの、それ……」
「サエ、いいよな?」
「え? いや、いいけど……」
「ちょっと待て」
藤野谷は手をとめた。
「どうして俺はこんな大事なことを泡立て器を片手にいってる?」
「えっ……さあ……」
泡立て器がボウルの中に落ちた。
「しまった……プロポーズ……」
「天。大丈夫だから」
俺はあわててボウルと泡立て器を脇におしやった。今度は氷水ごと藤野谷がひっくり返すのではないかと心配になったのだ。
「わかった。ええっと、結婚しよう?」
「ほんとうに?」
藤野谷の腕が俺の背中に絡みついた。強い力で抱きしめられる。苦しいくらい締めつけられて、なのに反比例するような喜びが生まれてくる。
俺たちはつがいだから、結婚という形なんてあってもなくても変わらないかもしれない。俺はどこかでそんなふうに思っていたのだ。なのに今は嬉しかった。
黙って藤野谷を抱きしめかえして、俺はもう一度自問した。俺はこれからもこの男と一緒に俺たちの形を作っていく。結婚という形もそのひとつだから?
そうかもしれない。
『家を買ったときもそうでしたけど、佐枝さんとボスって突然決めますよね。あ、ボスは最初からそのつもりだったとか?」
あとになって三波にチャットで報告をすると、彼は祝福のあとにそんな言葉を続けてきた。
『いやたぶん違う……俺にも突然だったんだけど……偶然が重なって……事故っぽいというか、結果的にそうなったというか』
『とにかく素敵だと思いますよ。こういうのなんていうんでしたっけ。ことわざがあるじゃないですか』
『ことわざ?』
『帽子から鳩とか、そういうやつ』
『そんなことわざ、ない――あ、瓢箪から駒?』
『それです。そういいたかった』
俺はモバイルをみつめて笑った。羽ばたきが聴こえたような気がして、同時に生まれたイメージは美しかった。運命という手品師の黒い帽子から白い鳩が飛び立ち、高く遠くへと舞い上がる。
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