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夏のまなざしの二重奏
「来るわよ!」
陽気な高い声に気圧されたのか、小さな頭と手足に遠慮したのか、大人たちが一歩下がった空間に、きれいな放物線を描いてブーケが舞った。丸く囲った両腕の輪に淡い黄色の薔薇がすっぽり落ちる。
パラパラと拍手が起きる中で湊人くん(四歳)は誇らしげに胸を張った。が、ブーケを投げた当人がふりむいたとたん、ぱたぱたと走り寄って獲得したばかりの花束を渡そうとしたので、周囲の大人たちがいっせいに笑った。
「ああ~湊人、いいのよ、それは湊人がもらっていいの!」
美晴さんが笑いながら息子にいいきかせている。
「トモからのプレゼントなんだから。次は湊人の番がくるってこと」
「姉さん、気が早すぎない?」
「この子は失恋したばかりなのよ。希望がいるでしょ」
湊人くんは不思議そうな表情でふたりをみあげている。三波(いや、もう彼は『三波』じゃない。姓は峡に合わせて『佐枝』にしたらしいが、俺はまだ慣れない)は呆れたような眼をしながら微笑み、白い手袋をはめた手で甥の頭を撫でた。純白ですらりとしたコートのようなトーガのような長い衣装は、体型を隠すために選んだという。見慣れたつもりの美貌も今日はさらに際立っているし、タキシード姿で立っている峡も、俺が長年知っている「叔父さん」らしくない。
小さな式場の窓は夏の青空で塗りつぶされていた。七月、長引いた梅雨が数日前に明けて、屋外には猛烈な暑さが訪れている。
入籍した直後に三波が妊娠三カ月目だと判明して、峡は秋に予定していた式を夏に繰り上げたのだった。秋だと臨月が近すぎるということらしい。双方の近い親族と親しい友人が出席するだけの人前式とささやかな披露宴は、暑さや三波の体調も考慮して昼に終わった。
「集合写真を撮ります~並んでください~」
「サエ、俺たちはあそこらしい」
天が俺の袖をひいた。堂々とカメラの前を横切っていく。俺たちが動くと、もたもたしていた人々もあっという間に集まってくる。今日、天は式場でただひとりのアルファだった。良くも悪くもアルファの行動にベータはついていくのだ。鷹尾が三波に話しかけているのがみえる。淡いグリーンのドレスからまっすぐな足がすらりとのびる。
三波の実家は大家族だった。近い親族だけでも、姉の美晴さん一家をはじめとしたきょうだいとその家族がそろうとけっこうな人数だ。式の前から次々に紹介されているのだが、俺はちっとも名前を覚えられず、ひたすら顔だけ記憶しているありさまである。今からこんなことで来月に控えた俺の本番は大丈夫なのだろうか。ところが天は涼しい顔で、この人誰だったっけ……と途惑う俺の横で相手の名前を呼び、和やかな口調で話題をふるのだった。さすがと感心すべきなのか、名族のアルファで会社社長なんだからこの程度は当然と思うべきなのか。
「サエダさん、お会いできてほんとうにうれしい」
右側に立ったドレッドヘアの女性がいう。浅黒い肌にピアスが光る。丁寧な日本語を聞き、彼女の名前はちゃんと覚えていることにほっとしながら、俺は「こちらこそ」と返事をした。アレックスは三波の次兄、千歳さんのパートナーだ。本来は秋にこちらへ来る予定だったのを前倒ししたという。ふたりとも研究者ということだった。
「あの絵はあなたが描いたと聞きました」
集合写真用にセッティングされた椅子の横に、俺がふたりに贈った絵が飾られていた。奇妙な記念になってしまったな、と俺は思う。春にふたりが一緒にいる様子をスケッチしようとアトリエまで来てもらったのだが、直後に三波の妊娠がわかったのだ。
「ええ。お祝いに」
「ステキですね。私は大好きです。彼らのまわりにある愛情がよくわかります」
集合写真の整列にはなぜか手間がかかった。俺たちは写真屋が命令するままに位置を変え、座ったり立ったり、顔の体操と称される百面相をした。三波の親族は全員ベータだ。ご両親と兄弟に囲まれた三波を横目にみながら、俺は彼が峡を選んだことに喜びと安堵のいりまじった気持ちを覚えていた。
峡は今度こそ、俺や佐井家に費やしてきた労力を自分のために使うべきなのだ。まあ峡のことだから、今は自分ではなく三波とこれから生まれる子供のことで頭がいっぱいなんだろうが。
「サエ? どうした?」
問われて顔をあげると、天がかすかに眉を寄せている。
「あ、いや。考え事してた。赤ちゃん、可愛いだろうなってさ」
「そうだな」
写真の列で見えないのをいいことに、天は立ったまま俺の手をさぐりはじめる。長い指が爪を撫で、指輪に触れ、手のひらをなぞる。
「天、くすぐったいだろう」
そういったとたん「はい、笑って――」という声が響き、フラッシュが白く飛ぶ。
「いいタイミングだっただろう?」
天が澄ました顔でつぶやいた。
「次は俺たちの番だ」
自分の挙式や披露宴の準備? 今となってはもう考えたくもない。だいたいろくに考える暇もなかった。天が「大々的にやる」と宣言した結果何が起きたかといえば、まずブライダルコーディネーターとのくどいほどの打ち合わせである。どこで挙式をあげるかについては最初から藤野谷家ゆかりの場所ということで、俺たちは藤野谷家当主に任せてしまった。それはいい。問題はそのあとだ。無限に続くのではないかと思うくらい、決めなければならないことが発生するのだ。たった一日のイベントなのに。
挙式と披露宴の衣装選び、招待客の選定、披露宴のメニュー、テーブルコーディネート、披露宴のプログラム、記念品はどうするか、招待客の足や宿泊の手配、司会者との打ち合わせ……。衣装は数着必要だった。コーディネーターも司会者も口をそろえて、大がかりな披露宴では間をもたせるためにどうしても「お色直し」が必要だというのだ。おかげで採寸こそ一度で済んだものの、そのあとは仮縫いやフィッティングのために何度もサロンへ通わなければならず、おまけにそのサロンは美容サロンも兼ねていた。にこやかに微笑みながら、マダムが「当日に向けて爪の先まで磨きましょうね」と宣告するのである。前撮りの撮影も式場のセットと藤野谷の本家と二ヵ所で行われ、藤野谷本家の家政を取り仕切っている紫さんには、一族の誰かれと週に一度は引きあわされる。
三波と峡の結婚式の時点で俺は多少くたびれていたのだが、天はそんな様子をみじんもみせず、日が近づくにつれて意気もあがるようだ。つられて俺の気分も高揚するのはありがたいが、ベッドの中で人を脱力させる洒落を連発するのはどうかと思う。
ともあれ、やっとその日は来た。
昔ながらの――つまり俺の親である葉月が藤野谷へ嫁したときの――しきたりに従えば、俺は前夜から藤野谷家の迎えを実家で待たなければならないらしい。しかし俺はとっくに天とふたりで暮らしているし、大々的に式を挙げるのは昔のしきたりに従うことでもないとして、俺たちは一緒に車で出発した。代わりに峡と三波が前日から佐枝の実家に行って、佐枝の両親と祖父の銀星と一緒に式場へ向かうという。
準備にあれだけ時間がかかったのに、式場についてからはあっという間だった。他人の結婚式なら待ち時間もそこそこあって暇に感じるくらいなのに、当事者は分刻みスケジュールなのである。挙式、その後の挨拶(親族ではなく藤野谷家のグループ企業関係)、披露宴前の軽食(披露宴ではろくに食べられないからと出された)、着替えと写真撮影、メディアの取材、そして披露宴へ入場。コーディネーターとの打ち合わせでは入場シーンで様々な演出を提案されたが(天が俺をお姫様抱っこして登場するなど)俺は首を縦に振らなかった。振らなかったとも!
実際、披露宴はオーソドックスな進行だったはずだ。来賓は藤野谷家の親族、藤野谷グループ関連の社長陣、TEN-ZEROの関係者、さらに名族の当主や子息――鷲尾崎家や加賀美家はもちろん、藤野谷紫の人脈の広さを納得させられる面々がずらりと並んだ。来賓の多さゆえに挨拶も長かった。だから食事と飲み物は十分に出すが、藤野谷家と佐井家の経緯もあって「新郎新婦の出会いとあゆみ」といったプログラムはなし。ケーキカットや肉親への花束贈呈の合間には、TEN-ZEROのアーティスト支援プログラムで縁のあるクラシックデュオの演奏やジャグリングの実演が入った。
披露宴のあいだは食べられないというのは真実だった。ひな壇に座っていても、来賓が話すあいだは聞かなければならないし、着替えに二回ひっこんで、戻ってきたらケーキのサーブや挨拶で会場のテーブルを回らなければならない。
峡の結婚式はここまで大変そうに見えなかったのだが――と、俺は三波の横でにやけている峡のグラスにワインをドボドボ注ぐ。だが天は俺を先導するように会場を回り、峡の結婚式のとき以上に平然とした顔で挨拶をこなしている。いささか調子に乗っているようにもみえる。何しろTEN-ZERO社員のテーブルから何やら声が飛んでくると、おもむろに俺を抱き寄せて頬にキスしてきたからだ。
イレギュラーなサプライズはひとつだけだった。慌ただしい準備期間の終盤に至って、司会者とコーディネーターが俺にこっそり申し入れてきたものだ。
『最後に零さんから、天藍さんへ特別な贈り物があります』
司会者の声を聞きながら俺は打ち合わせ通りに席を立った。下手な芝居をうっているようで気恥ずかしいのだが、チェロとバイオリンが鳴り響くなか、用意された垂れ幕の前にスタンバイする。
『出会ってすぐに惹かれあったおふたりですが、何年もお互いの手を取ることができませんでした。しかし離れていた日々のあいだに零さんがやっていたことは……』
ああもう、恥ずかしい。俺は司会者の声を聞かないようにして、チラッと、ほんとうに一瞬だけ天の顔をみる。うっすらと微笑んでいる。予想していたのかもしれない。披露宴での「サプライズ贈り物」はそれほど珍しい演出でもない。
『それではどうぞ』
背後で鳴る弦の音が弱くなる。垂れ幕が両脇から引かれ、俺はその奥に飾られたフレームの前に行く。昔のスケッチブックにあった絵を人目にさらすのはむずがゆくてたまらない。稚拙だからではなく、描かれているもののせいだ。
選んだのは彩色された三枚だった。もっとも描いた当時は、また失敗したと思ったものだった。俺が見たはずの色を再現できなかったので。
天の眼が丸くなった。頬から笑みが消えて、信じられないものを見た顔になる。
「……その」
まずい。失敗だ。俺の口は固まり、こわばって、何をいうつもりだったのかわからなくなる。
「えっと……」
弦の音が大きくなった。俺の緊張を知って、間をもたせようとしているのだろう。
『会わないあいだも零さんは描いていました。運命の人の姿です。誰にも見せないで隠していたそうです。今日これを贈り物として……』
口が説明を放棄している。俺はあきらめて司会者のフォローにまかせた。古いスケッチブックはアトリエの奥の鍵をかけた棚にしまったまま、一度も天に見せたことがなかった。俺は小さめのフレームのひとつをもちあげる。立ち上がった天の周囲にあの色が瞬いている。そう、彼の感情がたかぶると、この色は俺の眼によりはっきり、まるで誘うように浮かびあがるのだ。
「サエ」
「おまえにやるよ」
こともあろうに俺の口から出たのはどうしようもなくぶっきらぼうな一言だった。天の眼尻がゆるみ、俺をまっすぐみつめたままフレームを両手で受け取る。フレームの中にも天がいる。昔の藤野谷天藍。何度も描いては消し、捨てようとしては捨てられなかったもの。またあの色が俺の視界を覆うように広がる。低い弦と高い弦の音が絡まりながら響いていた。俺は天の腕に抱きしめられている。鳥の羽ばたきのような音が弦の響きにまじっている。拍手の音だ。こんなに大勢の人の前でキスをして、しかも恥ずかしくもないなんて、まずいんじゃないだろうか。それでも天の匂いと色に包まれて、俺は動くことができなかった。
レールの継ぎ目だろうか、六十秒に一度の割合で、足元でカタンと音が鳴る。個室の外で車掌が俺に聞き取れないくらいの早口で何かいったが、答える前に立ち去った。たぶん「おやすみ」「よい一日を」とか、そんな意味だろう。もともと片言しかわからない言葉だ。仕方ない。
「サエ」
真後ろから腕が伸び、俺の腰にまきついてくる。そのままベッドへ誘導され、背中から倒れこむ。大陸を走る豪華列車のスイートルームはびっくりするほど広いが、長身のアルファがぴったりくっついているとそうも思えなくなってくる。もちろんこんな感想は贅沢すぎるというものだ。挙式と披露宴をすませて、即座に飛行機に乗って、その後俺たちはこの列車に閉じこめられている。あるいは俺たちが他の人間を締め出しているのか。天の吐息が首筋をくすぐる。重なる胸に耳をつけると、抱きあった体の奥の方でトクトクと動く音がきこえる。
「何してる?」
俺の上で天がささやく。
「聞いてた」
「何を?」
「いちばん近いこころのありか」
天はまばたきをし、俺は笑う。列車が知らない街の夜を走り抜けるあいだ、俺たちはおたがいの心臓の音にずっと耳を澄ませている。
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