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   * 「夏のまなざしの二重奏」の前に位置するお話。梅雨明け前のエピソード。    *  雨が激しく地面を叩いている。  ガラスの向こうの庭園は水しぶきで白く煙っている。鎖樋(くさりとい)をつたう水が勢いよく小石の上に流れおちる。隠れ家めいた雰囲気のある会館は現代建築と伝統的な日本家屋のデザインが趣味良く配分されている。でも今の俺はそわそわしながら入口を見守っている。自動ドアが何度か開いては閉じる。それでも期待した姿はあらわれない。 「雨、ひどくなりましたね」  ブライダルコーディネーターの須藤さんが穏やかな声でいった。俺と反対に落ちついた様子だ。 「すみません、遅れて……」  俺は時計を確かめ、モバイルに連絡がないか確認した。天からは三十分ほど前に、今向かっている、少し遅れるというメッセージが来ただけで、続報はなし。まったく何をしてるんだ。 「大丈夫ですよ。座って待ちましょう。先にご説明をさしあげてもかまいませんし」 「そうですね……」  俺は語尾を濁す。天と一緒に来るはずの結婚式準備の打ち合わせ(何回目だろう?)だが、彼は名族の協議会に絡んだ用事があったから、待ち合わせにしたら遅れている、というわけだ。天はこの打ち合わせのあとも用事があるといっていたから、遅れても長引かせることはできない。  というわけで俺の頭のなかではいくつかの考えがぐるぐる回った――ただ待つのも気が進まないが、天が中途半端なタイミングで登場すると二度手間になるかもしれない。打ち合わせの内容としては俺ひとりで決めていいことだってあるはずだが、全部が全部そうというわけじゃない。でもどのくらい遅れるかわからないとなると……。  と、そこまで心の中で繰り返して、ああ、まただ、と思った。最近俺はなんだか優柔不断なのだ。些細なことも決められなくて、決められない自分にイライラする、そんな悪循環にはまってしまう。 「須藤さん、もう少し待ちま――あ」  自動ドアが左右に割れたとたん、俺の視界にぱっと光のようなものが舞った。  長身が慌ただしく前に進みかけてはっとしたように止まり、俺をまっすぐみつめて笑う。水に湿った布の匂いと一緒に天の匂いが俺をめがけて飛んでくる。  ほっとして自分もそっちへ足を踏み出したとき、天のうしろから「落ちましたよ」という声がかかった。  すらりとしたスーツ姿の男性――オメガだ――が、拾ったハンカチを天の方へ差し出している。 「すまない、ありがとう」 「いえ。濡れていますよ」  見知らぬオメガは何気ない様子で天にハンカチを渡したが、俺はその目つきが気に入らなかった。もちろん何の意味もないにちがいない。天が笑顔を返したのだって礼儀上のことだし、オメガのうしろからやってきたアルファの様子をみても、このふたりはカップルにちがいない。それなのに俺はまたイライラして、天が俺の前に立つと思わず手からハンカチをひったくった。 「すみません、遅れました」  須藤さんはかまいませんよ、と笑ったが、俺は彼女そっちのけで「おまえ、しずくが跳ねてるぞ」といってしまう。自分のハンカチで天のスーツの肩のしずくを拭くと、俺のアルファはニヤッと笑って「ありがとう」といった。 「遅い。待ったぞ」  ハンカチを天に押しつけて俺はコーディネーターのあとにつづいた。ふと何かがひっかかった。あれ? 「サエ」  横に並んだ天が俺の腕に手をかける。 「遅れてごめん」 「いいよ」  俺はうわの空で答えながら腕をあげ、天のハンカチをバッグに押しこんだ。俺はいま、天のことを「俺のアルファ」なんて思わなかったか? なんでそんな恥ずかしいことを? 「サエ?」  天が怪訝な顔でそういったので、俺は慌ててこたえた。 「何でもない。天はこの後も予定があるんだろう? 早く終わらせよう」  最近、自分で自分がすこし変だと思う。  須藤さんと天の三人で打ち合わせと下見を終え、ロビーに戻ってきたとき、さっきの二人連れのアルファとオメガにすれちがった。片割れのオメガがちらりと天の方へ視線を向けたが、天は気づいていないようだ。  でも俺は見逃さなかったし、自分で意識もしないうちに彼らの様子を観察して、あのふたりはまだつがいじゃない、なんてことを考えている。  だからあのオメガは天の方を見るのだ。俺のアルファなのに。  ――ほら、またこれだ。  一年前、俺と天はつがいになった。つがいの相手がいるオメガはアルファの注意をひかなくなる。おかげで俺は他のアルファの視線に悩まされなくなったし、天も――状況によるが――知らないアルファが俺に道を訊ねても毛を逆立てて威嚇するようなことはなくなった。  ところが、最近俺は逆の現象に悩まされている。天に近づく|独身《シングル》のオメガが気になって仕方がないのだ。知っている相手ならいいのだが、今のように単にすれちがっただけのオメガの視線に、なぜか無性にイライラするのだった。  理屈が通らないのは自分でもわかっている。俺と天はつがいで、じきに式もあげて籍をいれる。今日のように打ち合わせや諸々の手配を進めていて、俺は結婚式用衣装のフィッティングのかたわら美容サロンに通わされているしまつだ。引き受けている仕事もいくつかあるし、おまけに二週間後には叔父の峡と三波の結婚式も控えている。  なにかと気ぜわしい状態だから、たまたますれちがったオメガが天を見ているからといって、敵意をもつ暇なんかないのだ。普通は。 「今日はどうもありがとうございました」  天が須藤さんに話しているのを俺はまたもうわの空で聞いている。 「とりあえず私の担当範囲は問題なさそうで安心しています」 「セキュリティなど、我々で準備している点については渡来から連絡が行きます」 「はい、承知しています」  俺は須藤さんとの挨拶だけなんとかまともにすませて、天と一緒に外に出た。雨はまだしとしと降り続いている。エントランスに出ると見慣れたセダンがすべりこんできた。なめらかな動きで窓が下がり、運転席から渡来が顔をのぞかせる。 「ちょうど終わったようだね」 「渡来さん、助かります」 「早く乗りなさい。それぞれの行き先へ送ろう」  梅雨寒というのだろうか。外に立っていると蒸すのに、体の芯はぞわっと寒いような、嫌な天気だった。フロントガラスをワイパーが規則正しくぬぐうにつれ、水滴が生き物のように伸び縮みしながらガラスの端を逃げ去っていく。夕方といっても時間はまだ早い。それなのに雨と雲のおかげであたりはとても暗かった。 「おまえ、これから何があるんだっけ」  俺は軽率にたずねたが、天はじろっと流し目をくれて、そのとたん俺は思い出した。 「藤野谷グループの懇談会」 「何時ごろ戻る?」 「かなり遅くなる。渡来さんも、帰りはハイヤー使いますから、大丈夫です。サエも待たなくていい」  え? 俺は思わずいいかえした。 「そんなこといってたか?」 「いった」  当たり前だ、といいたげな天の口調に俺はなぜかムッとして、その勢いだけでいい返したくなった。ところがいい返す材料は思いつかないし、天は天で俺が忘れていたことにイラついたようだ。匂いでわかる。  ああもう、と俺はまたイライラして、頭をかきむしりたくなった。本当に近頃、すぐにこんな気分になるのだ。結婚式までにやらなければならないことがたくさんあるのに、うまく進められていないような気がするし、そもそもここ一ヶ月くらいやたらと時間が早くすぎるような感じがする。同時に自分がまともにやれていることなんて何もないのではないか、という焦りも感じる。  逆かもしれない。何事も成し遂げられていない、進んでいないように思うと、時間は早く過ぎるのだ。  いつのまにか車が停まっていた。天はドアをあけるまえに俺の首に手をかけ、ひたいにチュっとキスをした。 「サエ、疲れていないか? 早く寝ろよ」  馬鹿天、といいたいのを俺はこらえる。今日は早く寝たくない。  家に帰っても雨は降ったりやんだりを繰り返していた。庭の木から垂れる水滴が土をえぐり、細い水路が生まれていた。リビングは間接照明の明かりで仄暗い。俺は食卓を眺めながら、夕食はどうしよう――と思う。実は出かける前にささやかなディナーの準備をしていたのだ。でも天が遅くなるのなら明日でもいい。もっと伸ばしてもよかった。  今日がなにかの記念日だとしても、どうせ天と俺だけの記念日だ。  ああもう、嫌になる。馬鹿みたいな「記念日」だ。  天は恥ずかしくなるくらい「記念日」を――節目の日を覚えている。誕生日はもちろん、あいつと数年ぶりに再会した日やはじめて会ったアートキャンプの日まで。だから今日だって覚えているのかもしれないが、覚えていないとしてもわざわざ教えるつもりはない。どう考えても恥ずかしい思いが先に立つのだ。でもすこしは特別なことをしたかった。  去年の今日だった。俺たちはつがいになった。  外が暗くなるのにあわせて庭に小さな照明が灯る。ひとりで簡単な夕食を終えて、俺は庭に通じる窓をあけたまま、木の葉からしずくが垂れるのをみていた。こんなふうに庭を漫然と眺めるのは久しぶりのような気がした。何も考えずに、ただ眺めるだけで過ぎていくような、ぜいたくな時間をとる余裕がなかった。  降りそそぐ雨の水が庭に落ちる。雨どいをたどり、敷石を叩く。透明な水は目に見えないから、水滴が木の葉や地面を叩いて音を鳴らし、濡れ色に染めかえるまで人間は雨の存在に気づかない。  ぼうっとそんなことを考えていたせいか、ドアの開く音と匂いに気づくのが遅れた。はっとしてふりむくと天がすぐそこに立っている。 「遅くなるんじゃなかったのか?」  俺の目は時計をさがしたが、天は俺をさえぎるように首を振った。 「ご老体が思い出話をしているだけだったから、途中で帰ってきた」 「なんで?」 「今日は大事な日だから」  真後ろから腕が回り、夏のスーツのさらりとした布でぎゅっと抱きしめられた。ガラスに映った天の顔が傾き、唇が俺のうなじをかする。それだけで下半身に血がたぎり、背中から腰に甘い疼きが走った。  首のうしろをきゅっと吸われ、甘い痛みに体が震える。俺は立ったまませがむように腰をおしつける。布の上から胸の尖りをさすられて、俺の体に火がともる。消えない火だ。いくら雨が降っても燃えつづける。 「天、」 「ん?」 「……おまえが好き」  うなじを濡らした唇が首筋をあがり、俺の耳たぶを噛む。背中から抱きしめる腕に俺は身をゆだね、かきたてられた欲望に震えた。抱きしめられたままソファに倒れこみ、俺はもどかしい指で自分のシャツのボタンを外す。天の服が床に落ち、触れあったところから、湿った空気で冷えた体の芯をあぶられる。  もう止められないし、誰も邪魔できない。世界には俺と俺の男以外は誰もいない、そんな気持ちで胸がいっぱいになりながら、俺は天の唇を夢中でむさぼる。舌をからめあったまま下半身をこすりつけあい、しずくでとろりと下着が濡れる。天の指が俺のボクサーの裾から尻の割れ目に入りこむ。俺の中、奥の方はさっきから甘く疼いている。そんなことをされたらもうだめだ。 「ああん、天……」 「サエ、ベッドに行きたい?」 「……あ……うん……どっちでも……」  目をあけると天はうっすら微笑んでいる。ベッドの方が楽なのはもちろんだが、俺の体は天の体温と匂いで蕩けていて、どうしたらいいのかわからない。すると背中を起こされて「ほら」というささやき声と共に腕をひっぱられ、立たされる。  中途半端に体にまとわりついた服を脱ぎ捨てて、寝室のベッドでうつぶせになった俺の背中に、天の体重がのしかかった。うなじに痛みが走って、甘いしびれで足がひきつる。押さえつけられて動けないというのに、こんなにも幸福を感じるのはどういうわけなんだろう。  ローションでぐちゃぐちゃに濡らされたところへ熱い楔が押し入って、自分の内側がきゅうっと収縮する。真っ白のスパークとともに大きな波が俺を押し流し、また戻ってきて、高くほうりなげた。  もう何度目かわからない、首のうしろを甘い痛みがつらぬく。俺はうつぶせのまま唾液を垂らし、細い悲鳴のような声をもらしている。貫かれて揺さぶられるたびに俺のアルファ、という声が頭にこだました。俺だけのアルファ。俺だけの天。おまえがすき。蕩けた意識の片隅でその声だけがきこえている。  翌朝になると雨はあがった。窓のむこうの空は夏の青色で、刷毛をひいたような白い雲がかかっている。俺がベッドでうつらうつらしている間に天は着替えをすませていた。これから出社なのだ。俺は申し訳ない気分で「悪い、寝坊して」とつぶやいた。 「まさか」  天は俺の方へかがみ、クスっと笑った。 「サエ、このごろ疲れていただろう。機嫌が悪かった」  俺はぽかんと口をあける。 「あ……おまえのせいじゃないんだけど。ごめん」  天はまたクスクス笑い、俺の頭を撫でた。 「行ってくる」  ぱたんと音を立ててドアが閉まる。ひらいた窓から入る風は夏の草の匂いがして、部屋に残った天の匂いと混ざりあった。

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